雲を見下ろして
ブレアのハンカチを鍵付きの飾り箱の中に仕舞ってふと気づく。
そういえば夫へハンカチの一枚も贈ったことがなかった。
今更だけど作ってみようと思い、デザインを考える。
彼には、どのような布と糸がよいだろうか。
ミゲル・ガルヴォは、ジュリアにとって恐ろしいばかりの人だった。
まだ八歳なのに何故かすでに成人している男の人との政略結婚が決まり、婚約式の時に彼に見下ろされた時は、その鋭いまなざしに足が震えたのを今でも鮮明に覚えている。
式の後すぐにこの婚約は嫌だと母に訴えたが、彼女は大きな鏡に映る自分に夢中で全く相手にしてくれなかった。
今思えば母の首には王家の宝として保管されていてもおかしくないような宝飾が首と耳と手に装着されていて、鼻歌まじりにくるりと一回転した姿は舞踏会に浮かれる少女のようだった。
その見事なドレスに取りすがって泣くと汚い手で触るなと母に突き飛ばされた。
床にへたり込むジュリアの額を、整えられて尖った爪で容赦なく突っつきながら母は説教した。
政略結婚は貴族の務めだとか。
王さまがお決めになったことだから逆らえば牢獄行きだとか。
取りやめにしたらジュリアのせいで国同士の仲が悪くなり、戦争になるかもしれないがそれでいいと思っているのかとか。
「こんなにお金持ちで美しく強い男に見初められて何の不満なのよ、代わって欲しいくらいなのに」
ジュリアの額は傷つきさらに泣くと、母は怒りますます興奮していった。
「もっと若ければ、見初められていたのはきっと自分なのに、なんて運がないの」
天を仰いで嘆く。
「どうして私があの醜い男の妻なんかになって、醜い子どもたちを産まなければならなかったの!」
母は、父と彼に似た兄姉たちを嫌っていた。
しまいには手近な花瓶を床にたたきつけて喚く母を、侍女たちが宥めて連れ去った。
しかし数日後に現れた母はいつもの儚げな優しい貴婦人へ戻り、ジュリアの頬を撫でた。
「可愛いかわいい私の愛しいジュリア…。ごめんなさいね、お母さま、あの日はたくさんお酒を飲まされてしまって何をしたのか覚えていないの。きっと、怖かったでしょうね」
優しく微笑みながら覗き込む母の瞳は、口元は美しく笑みの形を作りながらもガラスのように冷たいまま。
望む答えを口にするしかなかった。
「いいえ、お母さま。何のことでしょう」
「そう? 貴方はまだ幼いものね。当然よね」
目を細めてふんわりと、満足げに笑う。
そんな母が、恐ろしくなった。
それからますます、ジュリアはこの婚約から逃げ出したくて仕方がなかった。
ジュリアが婚約者になったせいで犠牲になった人がいると聞いていた。
押しのけたつもりはないのに、ジュリアを非難する人は少なくなかった。
それに年に数度会うミゲルは大人で、どう接すればよいかわからない。
贈り物を沢山くれるが、高価であればあるほど母の反応が怖く、胸が苦しくなった。
いつもいつも、破談になることを願い続けていた。
だからと言って、仮面舞踏会へ行ったのは間違っている。
ただ。
今でもわからないのだ。
あの日。
なぜ母の衣裳部屋を探索する気になったのか。
なぜ、あの流行おくれの衣装を引っ張り出して、友人たちと行こうとはしゃぎだしたのか。
私たちは、恋愛小説を読むのは大好きで感想を言いあったり作中の殿方に憧れたりはしたけれど、現実の男の人に抱かれたいわけではなかった。
全員、婚約者がいたのだから。
それなのに気が付くと、少しかび臭い匂いにする衣装を身に着けて、退廃的な夜の宴にいた。
そして華奢なグラスに注がれた不思議な色と味のカクテルを飲んでふわふわとして。
今にして思うと、全てが夢のようだった。
ハンスと名乗る美少年とのダンスも。
秘密の部屋での触れ合いも。
ゴドリーの家へ連れて来られマーガレットと暮らすようになるまで夢から覚めないままだった。
もう今は、あの少年の記憶はおぼろげになってしまったというのに。
ジュリアはふと、窓から空を見上げた。
ふわりと秋の雲が連なっている。
一度だけ、逆の視点から雲を見たことがある。
母国で婚礼を挙げた翌朝にいきなりミゲルが現れて、彼のコートを着せられてあれよあれよという間に一番大きな黒竜の背中にのせられた。
飛翔の時は怖くてミゲルにしがみつき、彼の胸に顔をうずめていたけれど、保護魔法をかけられていたのだろう寒さも風圧もほとんどなく、空の旅は快適で、目の前に広がる光景は驚きの連続だった。
信じられないことに、自分は雲を見下ろしている。
雲の切れ間には豆粒のような家々や木々、山の峰や曲がりくねった川、美しい光をたたえた湖。
ミゲルの身体とコートの隙間から少しだけ目をのぞかせてこっそり見つめ続けた。
前方に見える竜の顔は、以前花畑を踏みつぶされた時は恐ろしかったけれど、空を飛んでいる最中は雄々しく素敵でミゲルの指示にくぐもった鳴き声で応じるところは可愛らしいとさえ思えた。
またいつか。
空を飛んでみたい。
ジュリアはあの空に似た色の布を探し出し、縫い始めた。
雲と、竜と、小さな家々と木々。
黒い竜の背には豆粒ほどの小さな人影。
あの時の思い出を記そうと。




