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マーガレットの花



「やっと、謎が解けた…。たぶん」


 窯から出してしばらく冷ましたシューを一つ、ナイフで切って中の状態を確認した。


 サクッと音がする。


 キャベツのような形に膨れ上がり、割れ目まできつね色になるまで焼き上げた。

 萎むこともなく、皮は厚すぎず、薄すぎず、ほぼ思い描いた状態だ。


「では、次は中に詰めるクリームに挑戦しましょう」


 カスタードクリームを作って泡立てた生クリームと混ぜ合わせる手法だった。

 もう一品の焼き菓子の方は焼き時間が短いため集中して作りたい。


「よし。がんばろう」


 ヘレナはエプロンの紐を結び直した。






 幻燈の世界は、また場面を変える。



 北側の部屋の窓を開けると林檎の花の香りがふわりと入ってきた。

 この季節になると、森の中で自生している林檎の木が一斉に花を咲かせる。



「さいた…のね…」


 マーガレットが嬉しそうに呟く。


 本当に香りを感じることができるのかわからない。

 ひゅうひゅうと苦し気に息をするのがやっとだ。

 病魔に侵されすっかりやせ細ってしまったマーガレットは一年前から長かった髪を短く切りそろえた。


「マーゴ…。咲いたのよ、林檎の花。まだ満開にはなっていないけれど、そのうちそうなるわ。ねえ、貴方の誕生日も、もうすぐよ」



 昨日、ジュリアは十八歳になった。


 マーガレットの誕生日は一週間後だ。



「…ふふ。あなたと、おないどし…ね、いま」


 棒のような指をジュリアに絡めて、微かに笑う。


「リラ。ごめん、なさい。わたし、もっと、がんばれると…おもったの、だけ…ど…」


 ジュリアの婚約者から許しを得て二人の時間を持てた。


 あれからもうすぐ三年になる。


 余命数か月と宣告されてから、マーガレットは細々と。

 命を燃やし続けた。



「マーゴ、マーゴ、マーゴ…っ」


 マーガレットの手を両手で握り、額を押し当ててジュリアは懇願する。


「マーゴ、お願い。そばにいて…。でも、マーゴがくるしいのもいや…。どうしたらいいの、ごめんなさいマーゴ、わたし」


 婚姻を引き延ばしたいから生きていてほしいわけじゃない。

 それをどう言葉にすればよいのかわからない。


「リ、ラ…」


 かすかな声に呼ばれてジュリアは顔を上げた。


「わかって、いる、から、だいじょうぶ…」


 二人の背後にはマリアロッサとマレナ、そしてこの館で働く女性たち。

 竜の男の囲いは未だに雄の侵入を許さず、実の兄であるベンホルムが妹に会えるのは亡骸になってからだ。



「おねえさま…」


「ここにいるわ」


 マリアロッサは静かに歩み寄って枕元の床に膝をつき、優しく頭を撫でる。


「おにい…さま、と、リチャード…と、しあわせに…」


「ええ。ありがとう。さすがはベンホルムの妹ね。貴方はとても勇ましい女性よ。誇りに思うわ」


 頬を撫でると、子どものようにうっとりと目を閉じた。



「…りら、おねがい。キタールを、きかせて…」


「…わかった」


 もう一度ぎゅっと手を握り、ゆっくりとほどく。



 何度も何度も。


 ジュリアはキタールを奏で、歌って聞かせた。

 ここにいないカタリナの代わりに。



「マーゴ。貴方のお気に入りの曲からいくわね」


 唇と、喉が震えるけれど。

 指も、舌も、うまく動かないけれど。



 ジュリアはキタールを抱えて、弦をつま弾く。


 安らかに。

 安らかな旅路となるように。


 願いながら懸命に奏でた。




 マーガレットは静かに息を引き取った。


 マリアロッサの手に頬を預け、幼子のようなあどけない微笑みを浮かべたまま。




「遅くなって申し訳ありません」


 質素な黒衣に身を包み、髪を無造作に結んだだけの姿でカタリナが現れた。


 すっかり大人びて、背はマリアロッサのようにすらりと伸び、まるで首と足の長い鳥のようだ。


 そんなカタリナはこの国からいくつも離れた国へ留学させられて、ジュリアの誕生祝いも参加できず、マーガレットの臨終にも立ち会えず、悔しさがないまぜになった表情で頭を下げる。


 しかしどういう手段を使ったのか、葬儀には間に合った。



「わかっているわ、マーゴも私も」


  王太子が交渉してジュリアの外出は葬儀のためのわずかな間のみ許され、マーガレットの亡骸とともに三年ぶりに外へ出た。


 ようやく妹に会えたベンホルムは変わり果てた姿を見るなり慟哭した。


 リチャードは、呆然と立ち尽くす。


 それからベンホルムは、棺の中を花で埋め尽くした。


 マーガレット、デイジー、カウパセリ、水仙、ブルーベル、薔薇、勿忘草、ヒメフウロ、バターカップ、さんざし、ライラック、そして林檎…。


 名のなきものも全て、思いつく限りの花を集め、大きな背中を丸めて泣いた。



 ひっそりと、親しい者だけで執り行った弔いには、貴族はほとんど列席しなかった。

 若くして不治の病を発症したマーガレット・ゴドリーを知る者はあまりいない。

 両親とゴドリー侯爵となった長兄すら、存在を忘れたように暮らしていた。

 貴族として価値のない少女は、生きていないのと同じだったのだ。




「専属の侍女が預かってくれていたの」


 主のいなくなった北の部屋で。

 黒衣の二人は小さな丸テーブルを挟んで向き合う。

 ジュリアが示したのは、綺麗な塗装と細工が施された木の箱。


「マーゴが…。自分が亡くなったら私たちに渡して欲しいって」


 おそるおそる留め金を外して開いた。


「これは…」


 カタリナは胸元で手を強く握りしめた後、ゆっくりと手を伸ばした。



 箱の中には小さなカードがたくさん入っていた。


 白いカード、薄紅色のカード、水色のカード、薄紫の…。


 まるで、花びらを思わせる、手のひらよりも小さなそれにはどれもペンで何かが書き込まれている。


 一枚、真っ白な紙に薔薇の花が箔押しされたカードをカタリナは手に取った。



『ありがとう』


 裏返すと、名前が書かれていた。


『キャスへ』



「マーゴ…」



 ジュリアも一枚手に取る。


 スズランの箔押しのカードには自分の名前が書かれていて。


 どのカードにも必ず感謝の言葉と名前が記されている。


 マーガレットの十八年の人生で、おそらく心に残った人々に宛てた感謝の言葉。


 それは看病した侍女であったり、料理人であったり、過去に抱き上げてくれていた護衛騎士であったり。


 ベンホルムにも、マリアロッサにも、リチャードにも。


 中にはジュリアですら知らない誰かの名前が書かれたカードも出てきた。


『ありがとう』


『感謝しています』


『ありがとうございます』


『ありがとう』


『ありがとう』


『ありがとう』………


 だんだんと手が思うように動かなくなって書いたものもあるのだろう。


 丁寧で流れるように美しい文字を書いていたはずのマーガレットの文字が、だんだんと歪んでいる物も見つかった。


 そして二人宛てのカードは何枚もあった。


『リラ』


『キャス』


『ありがとう』



 とりどりの色。

 とりどりの形。


 マーガレットの花であふれていた。





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