竜の足跡
「これで最後かね」
ミカが、抱えて来てくれた木材を床へ慎重に降ろした。
飴色に磨かれた床の上に様々な道具が並ぶ。
これらは全てタピスリーを織るための機材だ。
離れから運んできたこれらを今から組み立てて、経糸を付けていく。
「そうですね。ありがとうございます。かなり重いものばかりでしたのに」
ヘレナは一つ一つ状態を確認して、ほっと息をついた。
「大丈夫だよ。私らにしたらこんなの朝飯前さ」
「これ、ミカ。またお前は調子に乗って…」
今回、機材設置のためにマーサも手伝いに来てくれた。
なんとも頼もしい母娘だ。
タピスリーの大きさがおよそ扉一枚ほどの予定なので、ヘレナは二階の南側にある寝室で織る事に決めた。
「…ネロ。シューアラクレームと猫の舌に釣られたわけではないのよ?」
にーいとヘレナを見上げて鳴く黒猫に言い訳をする。
「…あれは、さすがゴドリー侯爵夫人、だったねぇ。あんなもの初めて食べたよ」
そう。
先日のマリアロッサの手土産はこの国で作られていないわけではないが、少なくともほぼ庶民のヘレナごときに手の届く菓子ではない。
初めてに関係なく、あれはどう考えても最高級の材料を使って最高の職人によって作られたものだろう。
ぱりっとした皮の中には、ふわりと滑らかな舌触りのクリーム。
カスタードクリームの味わいだけれど、上品な甘みと共に多分、ヘレナが厨房で作る単純なものではなく幾重にも手間と技術がかけられているに違いない。
うっかり侯爵夫人の前で天国の食べ物かと口走りそうになった。
なんて恐ろしい。
「もしかしたら、王宮の…。王妃陛下直属の職人の手によるものなのでは…」
「まあ、おそらくそうなのでしょう」
口を押えて冷や汗をかくヘレナに、マーサが苦笑する。
がらんと何もなかった寝室に、シェーズ・ロングのソファを一つ。
まずミカたちは運び入れた。
ストーブの状態も確認し、これからどれほど寒くなっても大丈夫なように細々と気を配ってくれている。
糸にクリスと書いた設計図、色見表。
様々な道具が持ち込まれ、作業場としての体を為していく。
窓辺に立つと外が見渡せた。
手前にはもちろんイチイの木と茨の柵があって、遠くに本邸や使用人棟などの建物が見える。
この広い草原が一面の花畑だったなんて想像がつかない。
ヘレナは昨日の話を頭の中で反芻し、深く息をついた。
マリアロッサ曰く、翼竜たちの荒々しい着陸によって、思いっきり押し固められた地面は元に戻らなかったとか。
草を刈ってしまえば今も踏み固められた竜の足跡が見つかるだろう。
それもまた。
二人の少女がいた証拠だから良いのだと、マリアロッサは強い光を秘めた瞳でじっとサンルームの外を見つめていた。
『マーガレットは。さすがはベンホルムの妹だったわ』
余命数か月と宣告されていたマーガレット・ゴドリーは生きた。
ジュリアが十八歳を迎えた翌日まで。
およそ三年、命の日を灯し続けたのだ。
ミゲルは誓約通りの日に、ようやく妻を迎えることができた。
そのおかげで一時期巷に流れていた高位貴族の令嬢が火遊びをした噂は年月をかけて下火になり、うやむやになった。
二つの国でそれぞれ行われた豪華な結婚式が全てを打ち消したのだ。
しかし、ミゲル・ガルヴォの結婚生活は長く続かなかった。
ほんの数年後に、ジュリアは男児を出産した直後に息を引き取った。
短い間に流産死産を繰り返した彼女の身体は妊婦だと言うのに細く、小さく。
生まれた男児もまた。
三歳の誕生日を迎えることなく世を去った。
髪の毛の一筋も家族へ返すことを拒んだミゲルは、やがて。
妻子の後を追うように永遠の眠りについた。
主を失った彼の翼竜は空に還っていき、他の竜たちも後に続いた。
そして、翼竜騎士団は形ばかりのものとなった。
遠い遠い昔の。
恋に全てを燃やし尽くした男の物語。
これは、鎮魂なのだろうか。
ヘレナは敷物を何枚かかさねて敷いた床に直接座り、ソファの座面に背中を預けて糸を紡ぐ。
今はもう真夜中で、マーサは帰宅し、ミカは一階で休んでもらっている。
なんとなく気が高ぶって眠れそうにないので、二階の仕事場で糸をつむぐことにした。
からからと、糸車が回る。
それをぼんやりと眺めながら、指先で毛をよりあわせていく。
昼間にマーサ親子と織機は完璧に仕上げた。
ラッセル商会に用意してもらった糸も間違いなくある。
だけど、こっそり予定外のものを忍ばせようとヘレナは考えた。
ここにいる動物たちの毛を紡いで経糸に加える。
ヘレナがここにいて、ネロやパールたちが寄り添っているのも、何かの縁だと思うから。
色々な人が関わり、様々な力が集うところなら。
奇跡が起きても不思議はない。




