二人の少女 ⑧ ~ライアン~
別れはいつだって突然だ。
夏の始まりを予感させる清々しい朝に、マリアロッサが見知らぬ女性を伴って現れた。
朝食を終えて一息つき、ゆりかごの中でご機嫌な声を上げるライアンと自室で戯れているさなかだった。
収穫間近な麦の穂を連想させる色の髪を簡素にまとめ、マリーゴールドの花の色の瞳が印象的な、平民服をまとうその女性は片手を胸に当て片膝を落とし、公爵邸の使用人たちがジュリアに示した正式な礼の姿をとる。
「名前を名乗ることはどうかご容赦ください。初めまして、クラインツ公爵令嬢」
人好きのするあたたかな微笑みにほっと肩の力を抜くが、いやな予感がジュリアの中によぎった。
「あの…。お姉さま?」
マリアロッサへ視線を向けると、彼女はこれまで見たことのない表情をしていた。
全ての感情を押し込めようとしているような。
いつになく、姉の瞳が揺れている。
「…ジュリア。今、ここで。ライアンとはお別れよ」
一呼吸おいてから、マリアロッサは告げた。
「………っ」
ジュリアの人差し指を、ライアンの小さな手がしっかりと握っている。
首もすわって、不思議な声をあげ、手足をばたつかせて色々な気持ちを示した。
そばにいるだけで、幸福感と愛しさで胸がいっぱいになる。
こんな毎日が、いつまで続くとはさすがのジュリアも今では思っていなかった。
婚約者の顔に泥を塗っておきながら、幸せになれるはずもなく。
それでも。
もしかしたら。
そんな望みを抱き、一日でも長く続くことを祈っていた。
しかし。
「終わり、なのですね…」
ライアンが、ここを出ていく。
ぽろりと涙がこぼれて、赤ん坊のふくりとした頬に落ちた。
「急だけど、聞き分けてちょうだい。これは、ライアンを守るためなの。どうか…。我慢してね」
姉らしくないたどたどしい言葉。
突然こうなったのも、きっと訳がある。
ジュリアは唇を引き結び、こくりと頷いた。
「申し訳ありませんが、念のため、お子さまの衣装を変えさせていただきます」
「お願いするわ」
「では、失礼します。寝台をお借りしますね」
マリアロッサより少し年上のその女性は腕に抱えていた布の包みを寝台の上に広げ、中から簡素な木綿の衣類を取り出す。
「お子様をこちらにお願いします」
促され、ライアンを抱き上げた。
すっかり重みが増し、手足がもちもちとしていて。
金色の髪の毛がふわふわとそよいで。
信じられないくらい長くて綺麗な睫毛、透明でどの宝石よりも美しい青い瞳。
小さな鼻、かわいらしい唇。
マシュマロのような頬。
声が、最高に可愛らしくて。
はしゃぐ子供をぎゅっと抱きしめ、いっぱい、いっぱい匂いを嗅いだ。
「ライアン…。ライアン、ライアン、ライアン……」
涙があとからあとからあふれて。
このまま、また、この子をお腹の中に入れてしまいたいと思った。
そんなことは無理だと解っている。
ジュリアは、多くの人の人生を変えてしまった。
今、寝台の前で静かに待っていてくれているこの女性もまた。
「ごめんなさい…。ライアンを、お願いします」
ようよう息子を包みの横に寝かせると彼女は一礼した後、手早く裸にした。
慣れた手つきでおむつから衣類までとりかえ、くるりと布に包んだ。
「どうぞ、もう一度お抱きになってください」
女性は軽々と抱き上げ、ジュリアの腕の中へライアンを返してくれた。
触れた手は侍女よりも力強くしっかりしていて、頼もしさを感じる。
息子はジュリアが今まで触れたことのない、清潔ではあるが粗末な織物の中で、意外にも静かに収まっていた。
この子は、庶民として生きるのだろうか。
不安な気持ちを深く息をつくことでなんとか払いのける。
姉は、この子を不幸にするはずがない。
信じなければ。
「ああ、待って。マーガレットに会わせてあげて」
ここのところ体調を崩していたマーガレットは自室で休んでいた。
すぐに侍女が隣室へ向かい、間もなく護衛に抱かれたマーガレットが現れた。
「リラ…」
侍女に予め事情を聞いたのだろう、いたわるようなまなざしでマーガレットが声をかけてくる。
「ライアンに、お別れを言ってあげて」
護衛がマーガレットを慎重に床に降ろすと、身体を支えてもらいながら、彼女は手を伸ばしライアンの頭を、頬をゆっくりと指でたどるように撫でた。
「ライアン。あなたのおかげで私は、毎日毎日…。とても幸せで。とても楽しかったわ。ありがとう。だから、あなたも幸せになるのよ」
囁くような細い声で、マーガレットは寿ぐ。
「幸せに、ライアン。たくさん笑って、たくさん走って。わがままもたくさん言って。たくさんの人に愛されて。そして健やかでありますように」
祈りと共にマーガレットはライアンのつむじへ優しく唇を落とした。
「ありがとう、マーゴ」
ジュリアはライアンの額に、瞼に、両頬に、鼻に、そして小さな唇に口づけた。
くすぐったいのか、ライアンは身体をもぞもぞさせて笑う。
「ライアン。大好き。生まれてくれてありがとう」
もう一度しっかり抱きしめて。
マリアロッサに渡した。
姉も、頬を寄せてぎゅっと抱きしめ背中をぽんぽんと軽く叩いたのち、女性へ差し出す。
「どうか。よろしくお願いします」
「かしこまりました。この命に代えましても」
胸にしっかりと抱いたその人は、マリーゴールドの瞳をほころばせ、ふわりと笑った。
「では、失礼いたします」
花畑に面した窓から風がさあっと入ってきて、カーテンが揺れて。
気が付くと、女性とライアンはいなくなった。
瞬きをした覚えはない。
忽然と。
楽園から消えた。




