ひゃくまいのおふだ
「では、失礼して」
一度軽く握りこんでからそっと手を放し、シエルは立ち上がった。
「製作者、リド・ハーン・ラザノ。そして製作者。スカーレット・ラザノ」
手を左右に振りながら唱えると、紙の山はざっと左右に分かれた。
「左がリドの書いたもので五十枚程度、右がラザノ様の書いたもので百枚程度あります。リドの書くスクロールの質の高さは私が保証します。そして驚きなのはラザノ様です。このことはあまり知られていないので」
「というと」
「ご覧ください、並べてみると違いがはっきりするので」
カタリナとヘレナが覗き込むが、「ああ」と同時に声が漏れる。
「これは…」
「比べるも何もないわね」
リドの書いた術符は細い線で事細かな幾何学模様が描かれており、数か所かろうじて読める神聖文字もきっちり定規で書いたような正確さだ。
それに対し、ラザノの書いたものはこどもの描いた絵のように自由奔放。どこから見ても対称になる部分はなく、文字と思しきものも規則性がなく、見ようによっては様々な国の言葉が書き込まれているように思えるが、たぶんきっとこれは神聖文字のつもりだろう。
「ハーン様は、几帳面な方だったのですね…」
「ええ。だから焼き菓子製作とポーション造りに向いていたのです。なので魔道具師か研究塔に籍を置くことになるでしょう」
「これって、大丈夫なの?正反対よね」
「ふふ。カタリナ様がご心配なさっているのは、術符のことではなく、夫婦としてでしょうか」
「ええ。ふつうは破綻するわよ、ずぼらと几帳面。ここまで極端だとね」
「おそらく普通はそうなのですけれどね。まあ、大丈夫だと思います」
ラザノにお姫様抱っこされてそのまま投げ込まれた寝台がまるで獣の巣のようで楽しかったというリドの惚気話は、貴婦人と令嬢の耳に入れるには少しはばかられた。
「話を戻しましょう。この一見駄目そうに見えるラザノ様の術符が、実はそうとう強力でして」
「強力、というといったい…」
「この百枚ほどの札全て魔獣の要素が込められています。たとえば、この半分ほどは岩のゴーレム。石壁のような役割を果たします。そしてこちらの三割がケルベロス。侵入者を探知します。さらにこの七枚が火蛇、五枚がフェニックス、残りがイフリート」
「イフリート」
「最高値の火炎が噴射されます。もう、これは魔獣討伐に使えるレベルですね」
ふふっとのどかな微笑みを浮かべてシエルは首をかしげた。
「しかも、ご安心ください。全ての札にヘレナ様とカタリナ様の名前が記入済みで、ほかの人の使用は無効です」
「あら、私も使って良いの?」
「はい、ラザノ様からどうせまたすぐ書くから護身のために数枚持っていてくれとのことでした」
「…義理堅い人ね。私は直接かかわらなかったのに」
カタリナは、後悔の念を言葉に乗せた。
「叔母様はラザノ様とお知り合いでしたか」
「いいえ。十数年前の粛清の際に事情聴取の場で少し会っただけよ。事が大きすぎて余所者の私ではとても手に負えなくて。そのせいで彼女のことはバウム長官に任せてしまって申し訳なかったわ」
「ああ、なるほど。それで長官とラザノ様は親しいのですね」
やりとりを間近に見たシエルが頷く。
「兄妹みたいな感じかしら。もともとスカーレット・ラザノの件で告発したのは当時下級騎士だったラザノ卿だし」
「内部告発せねばならない事態だったのですね」
「ええ。余罪は色々あったけれど、最もひどいのは能力の高い子供たちを騙して引き取り、魔獣代わりに使役していたこと。その一人がラザノだった」
スカーレット・ラザノの実家であるラザノ男爵家は魔窟の近くにある防衛地にあり、屈強な戦士たちの国だ。
彼らの戦いぶりは見事で、その姿に見惚れ恋に落ちる女は多い。
しかし、彼女たちは子供を産んだらたいてい逃げ出した。
美人は三日で飽きるとよく言うが、最強戦士への恋心も数か月で霧散する。
ラザノの男たちは脳の髄まで筋肉だ。
常に戦うことを考え、強くあるために鍛えることを常とする。
鍛錬せねば死ぬ生き物なのだ。
彼らの生活サイクルに家庭は存在しない。
よって。
質実剛健、質素倹約とは聞こえが良いが、脳筋の彼らは芸術も心の機微もわからない。
ないない尽くしの辺境に発狂し、逃げ出す女が続出する。
最後は筋肉と汗と存在自体が嫌になるので、産んだ子どもが男子ならば尚更ラザノに捨てて都へ帰った。
母親に似た娘ならば連れて帰った例もあったようだが、スカーレットは生まれた瞬間からたくましかった。
怪鳥のようなけたたましい声で泣き、どん欲に母乳を飲む赤ん坊に恐怖を覚えたラザノ男爵十数番目の妻は、書置き一つで屋敷を脱走した。
そして、男爵の子で十六番目にして初めての娘が誕生したのだ。
しかし、娘の育て方などわからない。
とりあえず十五人の息子と同じように扱い、持て余していたところに魔導士庁の幹部が囁いた。
『私どもがお育てしましょう。都で立派な淑女にして差し上げます』
魔導士庁の一室へ連れこむなり、男はスカーレットに従属の首輪を付けた。
スカーレット・ラザノ八歳の時である。
「なんということを…」
書きなぐられた札の一枚を手に取り、指で撫でた。
「だから、この術符は強力なのです。私とリドが視覚阻害の術を見よう見まねで覚えたように、ラザノさまは、魔物討伐で魔導士たちが使う術を見ながら独自で術符をこっそり作ったそうなので」
「そんな大変な思いをして習得された術を、私が頂いて良いのでしょうか」
「はい。もう警戒せねばならない事態はほとんどないので書く必要はないが、つい習慣で書いてしまい、たまる一方だから持っていけと言われました」
「それは、ラザノ様にとって鍛錬のようなものだからでしょうか」
「いえ…。その。ええと…発散だそうです」
いきなりシエルは口ごもり、目をそらした。
「はい?」
「その…ですね。む、むらむらする時に沈めるのに術符を書くのが一番効くとかなんとかおっしゃって…」
言い終えると、シエルはうつむいて顔を両手で覆った。
深い灰色の艶やかな髪から真っ赤に染まった耳がのぞく。
「ああ。ようは煩悩を祓うのね…」
寝込ませるほどにハーンを愛してなおかつ、愛し足りなくて気を散らすために札を書いたと言うことか。
そんな状態で書いたこれらはさぞかし強力だろう。
カタリナは同情する。
なんだかんだでシエルはまだ若く、ずっと宗教界に閉じ込められた身だったのだ。
世俗に出て一発目に誰の手にも負えない自由過ぎる野獣に出会うとか、なんの試練だろう。
「…すみません。そのような適切な表現が思いつきませんで」
「気にしないで。貴方は言われたことをそのまま伝えただけでしょう」
「そうですよ。大丈夫です。シエル様」
おそらくシエルは令嬢であるヘレナに対して恥ずかしがっているのだろうが、当の本人はいたって平気で、むしろ同情して慰めている。
「…お気遣いいただきありがとうございます」
おずおずと両手を外して二人にわびるシエルは、濃紺の眼が少し潤んだ上に耳までほんのり赤く染まり、超絶色っぽい。
多くを見て来たカタリナですら驚くほどに。
これが成人男性で、元・聖職者。
「罪な人だこと…」
どいつもこいつも。
カタリナはいったん天井へ視線をそらし、深々と息をついた。




