イチイの指輪
「ちょうどリドのことをお尋ねくださったおかげで、話を切り出しやすくなりました。こちらの指輪なのですが…」
シエルは椅子から立ち上がり、ヘレナの正面に跪いた。
そして手のひらをあお向けていったんぎゅっと握りしめた後、開いて見せた。
先ほどまで何もなかったはずの白い手のなかに、優しい飴色の木の輪が載っている。
「これは…」
「仕掛けをほどこした指輪です。私の最初の研修先が魔道具塔でして。昨日、ストラザーンの奥方様から手紙を受け取った私が一日休みを取りたいとお願いすると、先輩魔道具師が、『これを持っていくと良い』とくださったのです」
促されて、ヘレナは指輪を受け取る。
丹念に磨かれた木と内側の白金が綺麗に合わせられた精巧な造りだった。
魔道具師から渡されたということは、術を込められたものということになる。
「はめてみてく…、あ」
シエルは言葉を途切れさせ、何とも言えない表情を浮かべた。
「私も今になって気づいたけれど、結婚指輪すら用意されていないのね」
カタリナが呆れ声を上げる。
「そういやそうでした。挙式の段取りに指輪の交換ってありましたね」
「ああ、あれ。挙式前に勝手に済まされておられたので省きました」
挙式前にすでにひと盛り上がりしていたことをシエルがぺろりと暴露した。
聞くなりカタリナの眉がびくりと上がったが、ヘレナにとってどうでもいいことで。
「なるほど。お疲れさまでした」
精神的な摩耗の激しい日だったことは確かだ。
「話はさておき、これからずっと嵌めたままでいて欲しいので…そうですね。左手の中指はいかがでしょうか。邪魔になりませんか」
「大丈夫だと思います」
「なら、いったん私がお預かりして…」
シエルの手のひらに返すと、彼は指輪を軽く握りこんで何事か唱え、濃紺の瞳でヘレナを見つめた。
「お手を拝借します」
言われるままに左手を差し出すと、大きな手が優しく包み込み、ヘレナの指にはかなり大きな指輪を中指の奥まで差し込んだ。
「所有者、ルイズの娘。名はヘレナ・リー・ブライトン・ストラザーン・ゴドリー。これより彼女を守護し、いかなる時も助けになると誓え」
シエルの言葉が終わった瞬間、指輪は白い光を放ち、輪を縮め、ヘレナの指に納まった。
「わあ…」
ヘレナは目を瞬かせた。
「ヘレナ様がこれからどれほど成長されたとしても指輪がきつくなることもなく、常にちょうど良い付け心地のままです。作られた方が言うには、世界樹の森に生えているイチイの木とエルフの国の白金を使ったとのことで、衝撃に強く、壊れません。更に付け加えるとたとえ盗まれたとしても必ずヘレナ様の元へ帰ります」
「何なのそれ、なんだかおもしろいわね」
叔母の正直な感想に、ヘレナもうなずく。
『帰る』というのは、指輪が飛んでくるのだろうか、それとも歩いて?
ちょっと見てみたいかも。
ヘレナも想像して楽しくなる。
「そもそも、悪意を持って指輪に触れたものは濃厚なイチイの毒をくらうそうです。先輩は先祖にドワーフがいるらしく、そりゃもう執念深い程細かくイチイの中と白金に呪文を刻んだらしいので…」
「そんな貴重な品を私が頂いてもよろしいのでしょうか」
「はい。魔導士庁は十数年前にカタリナ様のおかげで汚濁を一掃できたそうで、そのご恩返しを少しでもできるなら光栄だと」
「叔母様がそんなことを。知りませんでした。すごいですね」
尊敬気持ちでいっぱいになるヘレナに、叔母は照れたように手を振った。
「いやあね。たいしたことをしてないわよ。単に売られた喧嘩を買ってきっちり返しただけよ。まったく、どこにでもいるのよねえ、利権を貪る馬鹿どもが」
唇に手を当て上品に笑うが、背後から黒い何かが湧き出ている。
「それで、その指輪の能力は何なのかしら」
「はい。今はまっさらに近いので、とりあえず『収納』を付与しました」
「『収納』?」
シエルは載せられたままの手を軽く握りこんでヘレナに促す。
「今回は唱えてみてください。念じるだけで大丈夫ですが『開け』と」
「はい。では、『開け』」
その瞬間、ヘレナの目の前に透明な板が出現し、そこに何事か書き込まれているのが見えた。
「これは…」
「おそらく透明な石板のようなものがヘレナ様の前に広がっている事と思いますが、これば指輪の所有者しか見えません。列記されているのはその指輪が収納している品物の名前です」
「なるほど」
試しに頭を左右に動かしてみると、その板は視線の先に必ずついて回る。
「ふふ、面白いです。ええと…では、この、『スクロール』とは?」
「はい、それをいったん全部取り出してもらえますか。『スクロール、すべて』と唱えてください」
「わかりました。『スクロール、すべて』」
言った瞬間、空間からいきなり紙の束が現れて、どさっとテーブルの上に積まれた。
大人の男の手のひらほどの大きさで、長方形。
そして表面には細かい字のような図柄が描かれている。
「これは…? いえ、前にどこかで見たわ。術符というものかしら」
帝国学院は学科ごとに内容が異なる。
ヘレナは手っ取り早く卒業できる貴族教養科に籍を置いたため、魔術に関することは広く浅くしか習えなかった。
多少使える色々は、母から学んで独自に編み出したものばかりだ。
「はい。そうですね。我々が『スクロール』と呼ぶ、魔道具の一種です」
両手で労わるようにヘレナの手を包み込み、シエルは微笑んだ。
「さあ、今からこれの使い方を教えます。大丈夫。難しくはありません」
彼の言葉と体温が、左手からじんわりとヘレナの身体を温めていく。
「はい。よろしくお願いします」
指輪だけではなく、色々な人に守られている。
そう、感じることができた。




