考えろ、リチャード
「あの子、こんなところまで飛んできていたのですね」
空に溶けこんでしまった小鳥を愛おしそうに眺めながら、ヘレナはぽつりとつぶやいた。
「いや、あれはヘレナを追いかけて来たんでしょ?」
「姉さん、そういうとこだよね。鈍すぎるっていうか」
ミカとクリスは何当たり前のことをと言わんばかりの顔だ。
「えー。それ、どういうこと?」
そこでするりとライアンが会話に加わる。
「以前…。ブライトンの家で近所の猫があのコマドリを咥えて歩いているところに遭遇して。巣立ったばかりの若鳥だったのと、その猫は飼い主から十分えさを与えられていることは分かっていたので、説得して放してもらったのです。その時、コマドリは気絶していたのでちょっと介抱したら、今もそれを覚えているみたいで…」
ゴドリーの屋敷に飛んできてはレモンの木にとまって可愛らしい鳴き声を上げ、時にはヘレナの肩に乗るようになった。
「ああ、あれか…」
ベージルはぽつりとひとりごちる。
ヘレナが家畜たちに草を食べさせるために別邸の外へ出ると、オレンジ色の胸元を自慢げにそらしてついて回っていた。背中や翼は地味で小さいだけに、その色は目につく。
それと。
「そういや、今日は突っつかれなかったな…」
顎に手をやりその空を見上げると、ぷっとミカが吹き出した。
「赤毛つながりで対抗意識があるんじゃないの。あれ、一応オスだし」
同じとはいいがたいが、ベージルの赤銅色の髪とコマドリの胸元の羽の色は似通うものがある。
「え? 親愛でしょう? あの子ヒル卿にすごく懐いていたじゃないですか」
「いやいや巣材じゃないのか? 何度も髪を千切られたぞ?」
ヘレナとベージルがほぼ同時に真反対の見解を口にしたため、三人は吹き出した。
「巣材…!」
ライアンは身体を折り曲げ何度も己の膝を叩く。
「というかさ。そもそもあのコマドリ、貢ぎ物だったと思うんだよね。アイツ、ヘレナが大好きでしょっちゅう会いに来ていたから」
クリスの種明かしがさらなる笑いを誘った。
「いやもう、どこまで魔性なんだよ、ヘレナ…!」
いつまでも治まらない彼らのさまに、ヘレナとベージルは困惑し顔を見合わせる。
「…あ」
目が合った瞬間、ヘレナは口元に手を当てた後素早く姿勢を正す。
そして、ゆっくりとドレスをつまみ、頭を下げ礼の所作をとる。
「先ほどは大変失礼しました。ベージル・ヒル様」
「は…?」
ベージルは思わずぽかんと口を半開きにしてその小さな頭を見下ろした。
「近衛騎士の中でも最側近の一人であるヒル様に対し、王妃様の前であのような物言いは大変失礼だったと反省しています」
「ああ…、いや、そんな…。すまない、その、頼むからいつも通りで接してくれないか」
伯爵令嬢然としているヘレナに驚いてベージルは両手をヘレナの肩に差し出しかけたが、遠くからこちらを眺めているリチャードたちに気付き、指先を握りこんで太ももに戻す。
「とにかく、頭を上げてくれ」
「はい」
言われてヘレナは背筋を伸ばした。
二人の間を枯草の匂いを載せた風が通っていく。
「近衛だろうがゴドリーだろうが仕える相手や地位が変わったからと、態度を変えられるのは…苦手だ。…ゴドリーにいた頃のように…、今まで通りでありたいと思うのは俺の我がままだろうか」
ヘレナの青みがかった灰色の瞳がじっと赤茶色のベージルの瞳を見つめる。
「宜しいのですか? 私はたまたま契約の機会を得た伯爵…夫人で、しかも平民以下の暮らしをしていた没落貴族です」
「それを言うなら、俺も母と妹の死でゴドリーに優遇された成り上がりだ。どちらが下かを議論しても無意味だと思うぞ」
両腕を組んで不満げに眉を寄せる男を見上げ続けるのに、ヘレナはいささか首が疲れた。
「…でしたら、お言葉に甘えて、ヒル卿」
「ああ、それがいい」
「今日のいで立ちは、素敵…というか、完璧? 私の語彙力では到底表現できませんが、騎士服がよくお似合いです。髪を綺麗に整えられて額を出されると印象が変わり、うっかり見違えてしまいました。ごめんなさい。ええと、お顔がとても美し…」
「わーっ。もういい、もういい、やめてくれ、ちび!」
ベージルは叫ぶなり、大きな両手で顔を隠した。
耳から手まで真っ赤に染まっている。
「…あの。ごめんなさい?」
こてりと首をかしげるヘレナに、両手を顔に当てたままベージルは大きくため息をついた。
「…いや。すまん。なんか混乱している。そもそも俺はこの騎士服が苦手なんだ」
「…なるほど。まあ…人によっては…そうかもしれませんね」
「ちび」
「はい」
「そのドレスと髪型、よく…、よく似合っている」
ベージルの顔はまだ隠れたままだ。
「ありがとうございます」
それでも。
ヘレナはふわりと笑った。
三つ編みとドレスの裾が風にはためく。
乱されたおくれ毛を指先でおさえて耳にかける様子を、ようやく落ち着いて顔を上げたベージルが少し硬い表情で見つめている。
「…なに、この甘酸っぱいの」
ミカの呟きは、風に散って誰にも届くことはなかった。
「…なんか、フォサーリだの、王妃の命令だの、色々わかんなくて混乱してるって感じだよな、今は」
しばらく立ち止まって何やら騒いでいたヘレナたちが再び動き出したのを眺めながら、ナイジェルも歩を進める。
「でも、混乱しているってことは、考え始めたってことで。リチャード。お前には良い兆しだと俺は思うよ」
「しかし、そう言われても…」
誰も、物事をはっきりさらけ出さずに仄めかすばかりだ。
そして、やんわりと決断を迫っている。
「まあ、王妃様の一撃もいきなりだしな。気の毒だから、これだけは一応俺から忠告しとくかな」
ナイジェルは足を止めると、いつになく真剣な表情でリチャードを見据えた。
「ヘレナ・リー・ストラザーン伯爵令嬢に手を出してはならないと、君の大切な女性にきちんと釘を刺しておけ」
「ナイジェル・モルダー。それはいったいどういう…」
「これからタピスリー製作絡みで王妃の使いが続々と別邸に出入りするだろう。おそらく正門を通って本邸の前を通ることとなる。それを止めて検分したり、物品や人を本邸に引き入れたりしないよう言い聞かせるんだ。下手すると不敬罪に問われるきっかけになるとね」
「は…?」
「ほんの少し前までは、闇に葬られかねないのはヘレナ・リー・ストラザーンだった。だが、王妃がはっきりと彼女を寵愛していると宣言したんだ。この庭を好きに散策させるくらいにね」
「……!」
リチャードはぎょっと目を見開く。
「考えろ、リチャード。俺はあの女が嫌いだが、恋だの愛だのは本人しかどうにもできないことだ。お前の両親も王妃様も仕方ないと、見逃してくれている。今はな。でも、ヘレナ嬢に万が一のことがあったら…事態は大きく変わってしまう」
「…ストラザーン家も黙ってはいません。ヘレナとクリスに何かあれば」
それまで黙っていたユースタスもはっきりと言葉にした。
「…忠告、感謝する」
リチャードは拳を額に強く当て、目を閉じた。
考えろ、リチャード。
深く、しっかりと。




