王妃のおねだり
「ナイジェル。夫婦仲が良いのは何よりだけど、今ここで妻を愛でるのはここでは少し控えてちょうだい。まったくもう当てられっぱなしよ?」
「申し訳ありません。愛しさのあまり、つい」
明らかにからかう口調の王妃に、ナイジェルは悪びれることなくけろりと答えた。
おそらくこれが彼らの日常なのだろう、他の侍従や女官たちも平然としている。
「では、そろそろ控室の者たちを呼んできてくれるかしら」
女官の一人が一礼し、ミカとコールたちを連れてきた。
彼らが一斉に礼をすると、王妃は満足げに頷き、それを解かせる。
「貴方たちの耳に入れておいた方がいいと思うから、ここにいてちょうだい」
「御意」
彼らは王妃付きの者たちと共に部屋の入口近くに並び立った。
「まずはヘレナ」
「はい」
背筋を伸ばして応えると、王妃穏やかな眼差しをヘレナへ送る。
「貴方、さっき隣の部屋に飾ってあるタピスリーが気になっていたようね」
「はい。大作であるにも関わらず、どこか温かさと…可愛らしさがあって、つい足を止めてしまいました」
「あれはね。ルイズ・ショアというお針子が私のために織ってくれた作品なのよ」
ルイズ・ショア。
母の名前である。
目を見開くヘレナとクリスの様子に、悪戯が成功した子どものような笑みを王妃は浮かべた。
「そう。貴方たちを産んだルイズは私の大切な侍女の一人だった。公にはできなかったため、知る人は少ないけれど」
『公に出来ない』という言葉に二人が目を瞬くと、王妃は話をつづける。
「十四歳くらいの頃に故郷を出て都にたどり着いて、ルイズはまずドレスメーカーのお針子の仕事に就いたわ。そしてあまりにも優秀なため王宮の裁縫部に推薦されたものの、秘境からやってきて後ろ盾も何もないほぼ平民の少女だから、やっかみもあったでしょう。最初は大変だったと思うわ」
王妃はすぐにルイズの仕事ぶりと人柄を気に入ったが、表立って寵愛を示すと嫌がらせや篭絡に遭うであろうことを危惧した。
そこでルイズを裁縫部の花形であった王族の衣類管理職から外し、王宮の隅にある王家直属の織物工房へ異動させた。そこは身寄りのない老齢の女官や夫や家族から離縁された貴族で手仕事を好む者たちを密かに保護し生活させているところで、各々の裁量で仕事を進めることを許される一方、若手の女官たちからは掃き溜め扱いにされているため、注目されることはない。
与えられた簡素な作業部屋で機織りや刺繍に従事する傍ら、王妃の呼び出しに応じて依頼された仕事を受けるように決めた。
「ルイズ専用の部屋にこっそり転移陣を作ってもらってね。呼べばすぐに私の部屋へ跳べるようにしていたの。そんなわけで、まあ事実上ほぼ直属の秘密のお針子といったところかしら」
懐かしそうに、嬉しそうに、王妃は母ルイズの名を口にする。
「娘のような、妹のような。野心が全くなくて、編んだり紡いだり、縫ったり織ったりするのが本当に好きな子でね。彼女がそばにいるととても寛げて、夫の前よりずっと我がままになれた。ねだり倒してルイズの作ったショートブレッドを分けてもらってもらったりしてね。そういう意味では逆にルイズが私の姉になっていることもあったかもしれないわね」
なんて恐れ多いことを。
驚くヘレナと目が合うなりフィリスはこくりと頷き、それを見た王妃は笑う。
「そういやフィリスもね。ルイズと面識があるのよ。当時は同僚でもあったから」
「え……?」
思わず声を上げると、王妃に目線で許可されたフィリスは静かに一歩前に出て語った。
「私はルイズ様より一つ下で、十五歳の時に王妃様の御傍へ上がったので、一年ほど…お会いする機会がございました。優しく穏やかな御方で、ご一緒させていただいた思い出は私の宝です」
「ルイズがうっかりハンス・ブライトンに見初められて結婚すると言い出した時には反対したわ。でも、まあ幸せそうだから引き離すわけにもいかなくて許したけれど。その後クリスが生まれて数か月した頃にフィリスに手引きしてもらって、こっそりルイズと子どもたちに会わせてもらったこともあるの。だから貴方たちに会うのはこれで二度目なのよ」
王妃とフィリス・モルダーの言葉から、いかに母が大切にされていたかをヘレナたちは知る。
「そうだったのですか…」
「あのタピスリーは私が公務に出ている間にルイズが独りで少しずつ織って、王宮を離れる日に贈ってくれたの。素晴らしい作品でしょう。普段は私室に飾っているわ」
「ありがとうございます。母もきっと喜ぶと思います」
ヘレナとクリスが頭を下げると、王妃とフィリスは頷き合う。
「そして先日、ゴドリー侯爵夫人が素敵なショールを身に着けていたから出所を聞いたら、ヘレナからの贈り物だと言うじゃない」
ここでようやくヘレナは自分が王妃の元へ招かれた理由と経緯に思い至った。
「あれは…急いで作ったもので、お恥ずかしい限りです」
「いいえ、素晴らしい出来栄えだったわ。私はね。とても嬉しかった。あの手仕事にルイズの息遣いを感じたの。貴方、彼女から習ったのよね?」
「はい、その通りです。母の病が重くなるぎりぎりまで色々なことを学びました」
「織物もかしら」
もうここまで来ると、要件がはっきり見えてくる。
膝の上に乗せた両手からじわりと汗がにじむのをヘレナは感じた。
「はい。母の生まれ故郷に伝わる技術はほぼ漏らさず教わったかと…」
「なら、タピスリーも、織れるわね?」
それまで黙って王妃との会話を聞いていたリチャードが動揺を露わにする。
「お待ちください、王妃様…」
「リチャード。悪いけれど、今私はヘレナと会話をしているの。少し待ってもらえるかしら」
王妃はぴしゃりとリチャードを封じた。
「ヘレナ。私の末娘の嫁入り道具の一つとして、貴方にタピスリーを織って欲しい。ルイズの遺作ほどの大きなものでなくても良い。期限は…そうね二年」
「王妃様。大変ありがたいお話ですが、私は母から習っただけで大作を作り上げた経験はありません。素人の作ったものなど、王女様にそぐわないと思います」
首を振り辞退するが、王妃は立ち上がりヘレナの前へつかつかと歩いて近づいてくる。
「王妃様…」
慌てて椅子から降りて首を垂れて礼の形をとるヘレナの肩に王妃の柔らかな手が下りた。
「ヘレナ」
「はい」
「どうか、他国へ嫁がせる娘を案じる母親の願いを聞いてくれないかしら。私はルイズのタピスリーに支えられて王妃としてここまでやってこれたわ。心が荒れている時も、奮い立たねばならない時も。あれをみると不思議となんとかなると思えてくるの。いわばお守りのような存在というべきかしら。同じようにあの子を守る物をルイズの娘である貴方に織って欲しい」
気が付くと、両手をとられて懇願されていた。
恐れ多いことに、王妃の翡翠のような瞳が間近できらきらと輝いている。
ああ、駄目だ。
駄目だと思うのに。
「あの…。タピスリーは母の死後一度もてがけていません。まずは母の作品の三分の一程度の試作を作って、それをご覧いただいてから、もう一度お考えいただく…というのは」
「もちろん! ありがとう、ヘレナ。やはりルイズの子ね! この依頼を受けてくれると信じていたわ! きっと娘も喜ぶわ~」
ぎゅっと力いっぱい握りこまれ、あれ?と首をかしげた。
いつの間にか。
嫁入り道具そのものを織る事に。
「ええと…」
気が付くと、ヘレナは王妃の豊満な身体に包まれ圧死寸前だった。




