スープをひとくち
『ちび…』
視界が鮮明になった途端、一気に色々なことが頭の中に入ってくる。
何もかもおかしいのに、なぜ自分は軽く受け流し続けていたのか。
本邸の使用人たちが届ける食材は腐ったものばかり。
夜の闇に包まれると屋敷に投石され、なんらかの悪戯を仕込まれる。
それがこの屋敷の関係者たちによるものだと解っていながら、統率に手をこまねき厳しく処罰を下すこともなく、昼間に少女の元へ顔を出して多少構うだけで十分仕事をした気分になっていた。
鳥を追いかけ、手元にある食材を工夫して料理する姿になんて逞しい娘なのだろうと、儚く散った妹と比べて羨ましくも思っていた。
逆境に強い、元気な子?
そんなわけがあるはずがない。
この広い敷地にぽつんと建っている屋敷に独り取り残され、いったいどんな夜を明かしているのだ。
悔いばかりがあとからあとから押し寄せる。
「ヘレナ様はとても我慢強く、思慮深い人です。そして、自分で解決しようとする。私はその人柄に甘えて、何一つ対応せず、軽薄な言動をするばかりだった」
ことの経緯をすでに把握している使用人たちは、さらにリチャードと側近である自分たちの投げやりな態度から粗略に扱っても良い相手だと『把握』した。
いや、余興なのだと『理解』した。
退屈しのぎにいたぶって良い人間が現れたのだと。
ぎりぎり死なない程度に遊んでやれと彼らは舌なめずりをする。
たとえうっかり死んだとしてもおそらく誰も困らない。
なぜなら、ヘレナと言う少女は没落貴族で、父に二千ギリアと引き換えに売り飛ばされたのだから。
たっぷりと楽しもう。
ゆっくりと時間をかけて。
それは、今にして思えば略奪と暴力を好んだマカフィーの思想そのものだ。
「異常なのは、マカフィーの甥だけではないと?」
王妃はじっとヒルを見据え、ごまかし一つ逃さない強い意志を瞳に宿していた。
「はい。私自身、気が付くと…。何と言えば良いのかわからないのですが、自分の中にある、こうはなりたくないと思い続けた姿になっていた…ような気がします」
問われて答えていくうちにこれまでの色々なことが整理されていく。
時間に追われて見過ごしてきたことも、敢えて見過ごしてきたことも。
想えばそれは帰国の途から始まっていた。
船旅の間に戦場で苦楽を共にした仲間たちが少しずつ離れていく。
『ヒル…。あんたのこと見誤っていたわ、俺』
ピーターはそう言って、港に着くなり仕事を辞して旅立った。
当初は彼と共にするつもりだったパイパーたちは、コールが伯爵領の警備を依頼し報酬を釣り上げた為、散々迷った末に養う家族がいることもあり留まった。
何がいけないのか、わからない。
リチャードにはコンスタンスが必要なのに、なぜ。
コンスタンスは若くて魅力的で異性を引き付けてしまうのは仕方ないことではないか。
気の毒な生い立ちの護るべき貴婦人。
しかしその一方で僅かな違和感が痛みとなって頭の隅でちりりと主張する。
この鬱陶しい痛みから解放されたいと思うけれど、いや、この痛みを手放してはならないと警告めいたものを感じる。
思えばそれは下賜された剣を握っている時。
手のひらからじわりと、咎めるような気がまとわりつく。
【アルジ……】
剣の守り神である白狐の、赤い瞳が責めるように、そしてもどかし気にヒルを見つめる。
しかし、その先の言葉はない。
彼と自分の間になにかうっすらと幕のような隔たりがあった。
おそらく、自分は人として逸脱しかけていたのだろう。
ライの所有者たる資格も手放そうとしていたのだ。
カタリナ・ストラザーン伯爵夫人がサイモン・シエルとラッセル商会を従えて、ゴドリー伯爵邸へ強引に乗り込んでこなければ、自分はどうしようもない屑になり果てて、最悪ヘレナは命を落としていたかもしれない。
そう思い至った瞬間、全身に震えが走った。
「つまりは……。リチャードを含め貴方たち側近そして使用人に至るまで、ゴドリー伯爵の帝都邸はどうしようもない人間の巣窟になっていたということで間違いないかしら」
はっきり口にされるといかに異常な事態なのかが理解できる。
どうして、自分たちは…。
「はい」
ヒルはうなだれそうになる己を叱咤して背筋を伸ばす。
「そう。使用人が大幅に入れ替わっていたことは調査済みなのだけど…。これは興味深いわね。誰かさんが程度の低いものばかり呼び寄せたのだとばかり思っていたけれど、もしも、人を堕落させる仕掛けが施されているのだとしたら…。これは国家機密並みの手腕だわ」
人を堕落させる仕掛け。
王妃の言葉にヒルは血の気が引いた。
何かがおかしいと思っていても。
漠然とし過ぎていて、どうすればよいのかわからない。
こうして座っている間にも、あの屋敷では……。
居ても立っても居られない気持ちになり、席を辞そうとすると、マリアロッサが片手を上げた。
「ベージル。落ち着きなさい。大丈夫だから」
低く静かな声がヒルの心に染み込んでいく。
「貴方、スープにはまだ手をつけていなかったわね」
言うなり、マリアロッサ自ら保温容器からスープカップにポタージュを装ってヒルの前に置いた。
「飲みなさい。ゆっくりと味わって」
「ありがとうございます」
一礼して、スプーンですくったそれを口に運ぶ。
舌の上に広がる栗の甘みとハーブの香り、そしてなめらかなクリームの感触に鼻の奥が熱くなり思わず手を当てる。
「…失礼しました」
そんなヒルへ慈愛に満ちた眼差しでマリアロッサは語り掛けた。
「不思議なスープよね。凄く地味な見た目なのにとんでもなく優しい味で。まるであの子のような」
この茶灰色のスープ一つでも、とても手間をかけていることをヒルは知っている。
僅かな時だったが、この目で見てきた。
家畜の世話をして、乳や卵を分けてもらい、それを加工して、さらにそれをもとに料理をする。
大変なことなのに、ヘレナたちは惜しむことなく多くを振舞ってくれた。
「別邸の料理を食べているのは、ウィリアム、ヴァン、ライアン、そしてベージル貴方。リチャードはまだなのね?」
「はい。もともとは私たちも他の使用人たちへの牽制で通ううちに一緒に食事をするようになったわけなので」
「魔導士庁が植えたイチイの木をみたわ。確かに物凄い力を持つもので周囲を固められているし、あのミカという護衛も、ぴったりくっついている動物たちもいるから、あの敷地の中にいる限りヘレナ嬢に危険が及ぶことはないでしょう」
「そう…ですね」
ふっとヒルの身体から力が抜ける。
ゆっくりとスープを口に運ぶことを再開した。
「まあ、だいたいのことはこれで知ったし懸案事項も理解できたけれど、ベージル」
「はい」
手を止めヒルは王妃に顔を向ける。
「で、これだけはどうしても解らなかったわ」
王妃はずいっと身を乗り出し、首をかしげた。
「それで、何が無理なのかしら。ルイズの娘は小さすぎて壊しそうだから?」
「~~~~~!」
カシャーンという音が響き渡る。
「な……」
顔を真っ赤にしたヒルは己の手からスプーンが消えた事に気付かず、岩のように固まった。
「あらあら、まあまあ。ベージルったら純情なのね!」
口元で両手をあわせてうきうきと目を輝かせる王妃に、マリアロッサは天を仰ぐ。
「…そういうところは、相変わらずですな…。エリザベート殿下」
スコーンにクリームをのせながら、ベンホルムはぼそりと呟いた。