ベージル・ヒル、覚醒する
今思えばあの挙式の日は日暮れから雨が降り出し秋の寒さが増していた。
それにも関わらず、使いをやりようやくたどり着いたヘレナに対し、応接室で長年放置したままだった別邸にたった一人放り込み、生活の世話もしないとリチャードは宣言した。
すでに二千ギリアもはらっているのだからそれで二年間暮らせとも。
金を手に入れた父親が親友に誘導されて賭博場へ行き、全てすってしまったことも知っていながら。
脅しのつもりだった。
あの男の娘なら、次期侯爵であるリチャードの資産を当てにしているに違いないと思い込んで、全員でその浅はかな望みを潰しにかかった。
しかし少女は小さな目を何度か瞬かせあっさり頷いたのち、これから過ごす家へリチャードほか数人同行してほしいと告げた。
契約においてお互いの齟齬があってはならないし、これからの暮らしを指導してほしいからと。
ヘレナ・リー・ストラザーンの方が何倍も世間を理解し、大人だった。
彼女は、本邸の玄関をくぐった時からこの計画が穴だらけで使用人たちも制御できていないことをとっくの昔に見抜いていたのだ。
「最初からあの別邸にヘレナ様を押し込めておく計画でした。ぎりぎり生かしておけばいいと……。どうしてそんな酷い考えを持てたのか、自分でもわかりません。それで、侍女や侍従たちに結婚式が終わるまでに建物の清掃と生活できるよう手入れしておくよう言いつけましたが…」
日が暮れて天候が悪いことを差し引いても、別邸の外観はひどいものだった。
嫌な予感がするものの、それを振り払うように入った屋敷の中は、埃にまみれ、人為的に荒らされていた。
外から石を投げつけられ、割られた吹き抜けの窓ガラス。
そして、ヘレナが携え使用人に預けたはずの僅かな手荷物は踏みつけられていた。
『もしかして、もうわたくしの墓穴をご用意されていたのでしょうか』
雹が建物を叩きつける音を聞きながら、彼女はあくまでも冷静に尋ねる。
この仕打ちを怒ることもなく。
破壊されたトランクにため息をつくだけで泣くこともなく。
「それでいったん本邸で客人として滞在してもらうようウィリアムが使用人たちに改めて指示したものの、執務に追われて気が付けば三日経ち、ヴァンが尋ねていったときには薪の一つも与えられず黒パン一つぎりぎり渡される程度の食事で監禁されていました」
ゴドリー伯爵邸は郊外との境にあるだけに敷地が広く、隅に建てられた別邸は離れすぎている。
ヴァンは担当の使用人たちを叱責しヘレナに詫びたのち本邸で生活することを提案したものの、表面的な謝罪を繰り返すだけの使用人たちを見る限り、同じことが繰り返されることは想像に難くない。
本人の強い希望もあり、最低限の設備を施した程度で入居した。
しかし、その後も環境の悪さは続いた。
誰の仕業かわからない、顔の見えない『悪質な悪戯』。
それがようやく止んだのは、挙式から十日後。
カタリナ・ストラザーン伯爵夫人が魔導師サイモン・シエルとラッセル商会の息子の一人であるテリーとスミス家のマーサたちを伴い無理矢理ゴドリー邸へ乗り込んでからのこと。
この時のヘレナの変化にヒルは驚く。
心許せる人々が到着したおかげで緊張の糸がぷつりと切れたのか、長椅子でシエルの上着に包まれて眠るヘレナは小さくて幼かった。
シエルは顔色が悪いヘレナをそのままにしておけず術で強制的に眠らせたと言うが、ヒルはそれまで彼女の体調にまで全く気付かなかった。
クロスボウを持って草原を駆けまわり、野鳥を仕留めて喜ぶ元気な子供だとばかり呑気に思っていた。
ところがどうだ。
無防備に眠るヘレナは細くて小さくて、今にも消えてなくなりそうだった。
まるで、あの朝の妹のように。
胸がぎゅっと苦しくなり、息が出来なくなった。
生きているのか確かめるために口の前に手を翳す。
ふわりと手のひらに微かな熱と風を感じたが、まだ信じられない。
震える指先でヘレナの小さな頭に触れた瞬間、ヒルの頭の中の靄のようなものが急激に消えた。
視界も、はっきりしている。
呼吸も、楽になった。
まるで、長くて暗い夢からさめたような気分だった。




