ゴドリー侯爵夫婦の語らい
サルマン帝国の王城は広大だ。
王族の居所である宮殿に離宮、騎士団の詰め所、そして国の政を行う文官たちの執務棟のほか様々な建物が収容され、相互移動に馬車を利用することもあるほどで、場合によっては転移魔法も許される。
「なんだ、もう着いていたのなら知らせを寄こしてくれればよかったのに」
ベンホルム・ゴドリーは専用に設けられた王宮の部屋に入るなり、ソファでくつろぐ妻に目を止め、眉を下げた。
「文官たちの仕事を止めてはかわいそうでしょう。どうせどれも急ぎの案件なのだから」
マリアロッサは自身も夫が来るまでの時間つぶしに広げていた書類を集めて侍女へ渡す。
「…お互い暇なしだな」
伯爵時代は鉄壁の将軍と噂され畏れられた大柄な身体をソファの背に預けて息をつく。
整った顔立ちは年を重ねてみずみずしさはなくなったが逆に風格が増し、外交で侮られることはない。
「お疲れのようね。そんなベンホルム様にお土産があるの。別邸でごちそうになった料理を詰めてもらったから、今から頂きましょう」
「別邸?」
「ヘレナ嬢とスミスの護衛たちが心づくしの料理を用意して出迎えてくれたのだけど、これがもう、言葉に出来ないくらい素晴らしいもてなしで…。その名残だけでも味わってほしいのよ」
『スミスの護衛』という言葉に、ベンホルムの護衛たちが一瞬表情を揺らした。
どうやら彼らもその名を知っているようだ。
にんまりと少し悪い笑みを浮かべながらマリアロッサは侍女たちにテーブルの用意をするよう指示を出す。
「魔導士庁が面白いものをヘレナ嬢に預けているようで、なんと出された料理の全てを再現できるのよね」
十年経ってようやく授かった息子のことでひそかに心を痛め、ふとした弾みに暗い色を瞳に浮かべていた妻が、珍しく生き生きとしていることにベンホルムは驚く。
今日の予定は忙しい自分の代わりにマリアロッサが息子の二人の妻に会いに行くという、彼女一人に任せるには心苦しい用事だった。
「温かい状態を保てる入れ物にスープとコーヒーが入っていてね。美味しさも香りも変わらないのよ。他にもオーブン料理なども温かい状態らしいわ」
そう語る横で侍女や侍従たちが次々と料理を運んで並べ始める。
家庭の悩みと仕事に追われたベンホルムは、ここのところ疲れ切っていたが、目の前に並べられた品々を見て、不快にはならなかった。
むしろ…。
「いったい…何があったのかい?」
食欲をそそる香りが湯気と一緒にふんわりと立ちのぼるスープカップを前に、ベンホルムは困惑した。
「あの子…ヘレナ嬢は、訪問の趣旨は重々承知していたけれど、侯爵夫人ご一行をもてなさねばと張り切り過ぎたそうよ。同行した者たちもみな二階のサンルームのテーブルに座らされて、結局なんやかんやで私たち、全部平らげてしまったわ」
ふふふと思い出し笑いをしながら、マリアロッサは足を組んだ膝の上に肩ひじをつき顎を載せる。
「まずそれは栗とフェンネルのポタージュですって。いきなりそれよ? にこにこ笑って温まりますからどうぞって言われたの。それに口を付けたら怒涛の勢いで次々と美味しい料理を出されてしまって、もう何しに行ったのか分からなくなっちゃったわ」
そして、昔よく見た悪戯っ子のような瞳で促した。
「ほら、怖がらないで食べてごらんなさい」
観念したベンホルムはスープカップに唇をつけ、一口流し込む。
「―――」
口の中で栗とフェンネルとクリーム、そしてスパイスの香りがふわりと広がり、やがて喉を通って身体の中心を温めていく。
「これは……」
「ねえ、すごいでしょう。いきなりこれでね。温かいものとか血肉になりそうなものをどんどん出して、一緒にいたライアンとヴァンががつがつ子どものように食べていたわ」
「…あれたちは、元気だったか」
「ええ。まるで憑き物が取れたかのような変わりようだったわ。とくにライアンがこどもがえりしていて、傑作だったわ」
何かを思い出したのか、くすくすと笑いだす。
「そう言えば、ウィリアムやベージルもよくここの料理を食べに来ているらしくて、学校の寮生活のようだとあの子が…」
「あら、面白そうね。ぜひ詳しく聞きたいわ」
ゴドリー夫妻か顔を上げ、声の聞こえた方に目を向けると、続き部屋の扉からひょっこりと、女性が顔をのぞかせていた。
「王妃殿下…」
神出鬼没の王妃は、白い頬にえくぼを浮かべてにっこり笑った。
「せっかく夫婦でくつろいでいるところにお邪魔してごめんなさい。でも、ゴドリー侯爵夫人がごきげんで王宮に戻ってきたうえに、お付きの人たちが何やら大事そうにバスケットを抱えて従っていたと聞いて、好奇心が抑えられなかったのよ」
さらには彼女の背後に額に手を当てたヒルが立っているのが見えた。
「入っても良くて?」
いったい誰が逆らえようか。