無敵のタルト・タタン
「今から甘いものをお出ししますが、もし、もっと食べたいものがありましたらいくらでも仰ってください」
最初に運ばれてきたのは温めた数種類のスコーンとジャム、そしてクリームだ。
「紅茶は私が」
クラークが手を上げると、ミカが頷く。
ティーセットを用意している台でクラークは慣れた様子で全員分の茶を煎れていき、 ミカは手早く配っていった。
二人の流れるような作業ぶりに、マリアロッサは「なるほどねえ」とこぼす。
「ずいぶんと…。うちの男たちはお世話になっているようね?」
「いえ、なんというか…。ええ…、そうですね…」
ヘレナは言葉を懸命に探したが思いつかず観念し、正直に答えた。
「学校の寮で生活していたなら、このような感じかもしれないとは思います」
マリアロッサ側の面々の空気が固まったのを感じ、ヘレナが困惑していると、ネロがいつの間にか足元へやってきて、ひょいと膝の上に乗る。
どっしりとした重さと暖かさを感じ、食事中ではあるものの、そのまま艶やかな後頭部から背中へ視線を落とし撫でているうちに、ヘレナの肩の力が抜けてきた。
「実は…。今このような場でお話しすることではないのかもしれませんが。ゴドリー伯爵家と縁を結んだのは突然の事でしたので、私も、この屋敷の皆様も、全ての準備が全くなされないままでした」
どう説明すればよいのだろうか。
迷いながらも言葉をつづける。
「そもそもの発端は父、ハンス・ブライトン子爵が抱えた多額の借金です。それを解決するために私はマイセル教会で婚姻届けに署名しました。しかし、ご存じの通りただの名義貸しです。事情をご存じの使用人の皆さんにとって私はすぐにいなくなる人間だと思われていたのでしょう。少し…度を過ぎた悪戯が続きました」
立場上良くないことだと解っているけれど、ヘレナはネロに視線を落としたまま話すことにした。
「私の家は母が亡くなるころからかなり衰えていったので、それに伴い周囲の人々の見る目が変わっていくのは経験していますが、常に弟と誰か理解のある方がそばにいたのでさほど辛くはありませんでした。でも、今回は独りで。とても心細い思いをしました。でも、そんなときにベージル・ヒル様がとても心配してくださり、何かと面倒を見てくださるようになりました。そして間もなく叔母が介入したのもあって、ラッセル商会からミカが護衛兼侍女として同居することになり、ここは一気に変わりました」
ゴドリー伯爵家を糾弾することなく、男たちを誘惑している不埒な女だと誤解されることなく。
うまく説明できたかはわからない。
ヘレナはネロの背中の一番高い場所で手を止め、顔を上げた。
「今、私とミカはこのサンルームの真下にある客室で寝起きを共にしています。そして、廊下の向かいにある応接室に、ベージル・ヒル様や私の弟、ラッセル商会の方々、そして魔導士庁からお越しの方など、さまざまな男性が護衛ついでに宿泊されることが度々ありました。たいしたお礼にはなりませんが、ここにお越しの方で時間が合えば、食事をお出しして一緒にテーブルを囲むこととしています」
ヘレナが語る間、ミカとセドナとクラークは給仕の手を止め、静かにたたずんでいた。
「この二階は使っていないの? 寝室は二間もあるのに」
二階にはサンルームの隣と北側に一部屋ずつドレスルームとバスルームを完備した広めの部屋がある。
責めるわけではなく、単なる疑問という様子でマリアロッサは尋ねた。
「どちらもとても立派なお部屋ですね。初めて拝見した時に、あれらの部屋は今も主を待っているような気がしたので…。私にはとても使えませんでした。ただ、図書室と書斎に関しては問題ないかと思い、早い段階から使わせていただいています」
「そう…。ええ、そうね。図書室と書斎は設置したもののほとんど使われていなかったから、思い入れらしいものはないかもしれないわね…」
「この素晴らしい建物に住まわせていただき、感謝しています」
あのまま本邸の片隅で暮らしていたらと思うと、ぞっとする。
ヘレナは頭を下げた。
「いいえ。すっかり寂れてしまったこの建物に再び活力を取り戻してくれた貴方に私たち夫婦が感謝すべきなの。どうか、気兼ねなくどの部屋も使ってちょうだい。きっとあの子たちもその方が嬉しいと思うわ」
「お心遣い、いたみいります」
「そう固くならないでちょうだい。いずれまた、ここの昔について話しましょう」
マリアロッサが紅茶のカップを持ち上げ口を付けたのを合図に、三人の給仕が始まる。
「では、まずスコーンからお出しします。プレーンなものと、かぼちゃを練り込んだものと、レーズンの三種を焼きました」
セドナが温めておいたスコーンの皿と、クロテッドクリームとプラムリー、ブルーベリー、マーマレードと三種のジャムが入った器を運び込む。
「それと、もしよろしければお持ち帰りいただこうと思っているのですが、こちらもお出しします」
ミカが運んできたのは、ココアを軽く混ぜ込んだマーブルケーキと、貝の型で焼いたマドレーヌ、そして数種類のハーブの入ったショートブレッドを載せた皿だった。
「そろそろ、タルト・タタンが焼き上がるころだと思います」
「まあ、まだあるの! 貴方たちのもてなしは予想以上だわ」
マリアロッサが大仰に眼を見開いて見せると、つられてヘレナも笑う。
「ありがとうございます。でも、さすがにこれが最後です」
それから間もなく、マーサがタルト・タタンを載せた大皿を持って現れた。
「お待たせしました。本日最後の一品でございます」
ワインレッドに輝く林檎の甘煮がどっしりとタルト生地の上に鎮座しているのを見せたのち、マーサは給仕台の上で切り分け、あらかじめ用意していたクリームを添えて皿に盛る。
「アーモンド入りのクリームなのね。久しぶりだわ」
クリームからはアーモンドの香ばしさと共に仄かにブランデーの香りも立ちのぼり、林檎の甘酸っぱい風味が増した。
「はい。私の母はアーモンドミルクが好きで実家ではこの組み合わせが多かったので、同じようにさせていただきました」
「それに、この林檎は…ずいぶんたっぷりだけど、不思議なことにお腹いっぱいでもどんどん食べられてしまうわ。凄いわね」
随従の人々も頷きながらフォークをせっせと口に運ぶ。
「おほめ頂き光栄です。実は私も、そう思います。マーサのタルト・タタンは無敵なので」
心から喜んでヘレナが答えると、マリアロッサは空になった己の皿をじっと見つめた。
「ええそうね…。本当に」
ぐるりとマーサ、ミカ、セドナ、そしてヘレナに目をやり、声を上げて豪快に笑う。
「完敗だわ。なんて恐ろしい料理なの」