チェリー
しん、と静まり返った応接室で、ぱちりと暖炉の薪が炎の中で音を立てる。
「…大変、失礼ながら……。発言してもよろしいでしょうか」
コンスタンスは唇を震わせながらマリアロッサに尋ねた。
「ええ、どうぞ」
短い応えに、膝の上で合わせた手をぎゅっと握りしめ、コンスタンスは続ける。
「要するに…。私を妻にするならば、リチャード様を廃嫡にするということでしょうか」
「廃嫡には、国も私たちもしたくないわ。次の王を支える人材を減らしたくはないもの。だから、これは最大限の譲歩」
人材とリチャードを言い切ったことに驚きを隠せないコンスタンスは言いつのった。
「そんな……。リチャード様は……。ゴドリー侯爵家の唯一のご子息であるはず。それを」
「ええ。それでもね。この国のいくすえに支障が出ると言うならば、不安要因は早めに排除してしまうのが貴族としての義務だから」
「そんな……。リチャード様は立派な方ではありませんか。さんざん国のために尽くして身体を壊してしまったと知っていながら、そんな言い方……」
目を見開き、我を忘れて食ってかかるコンスタンスの両肩にリチャードが慌てて手をやり落ち着かせようとする。
「コンスタンス、そうじゃない。そうじゃないんだ…」
護衛騎士たちが半歩前に進もうとするのを横目に見たマリアロッサは片手を上げて止めた。
「…なるほど。では、言葉を変えるわ」
男性的ともいえる大きな口の端を軽く上げて、侯爵夫人は笑みの形を作った。
「シエナ島の娼館でリチャードが金を払って貴方を身請けした瞬間から、国の調査と監視が始まったの。そのための金の運用も即座に許可された。おわかりかしら? シエナ島の騎士団と貴方は監視対象となり、国の税金が支払われたのよ」
長い指を顎に添えて軽く息をつく。
個性的な顔立ちにもかかわらず、些細な仕草も優雅で美しい。
「……え?」
「もちろん我が息子のために血税が湯水のように使われては民に申し訳が立たない。だからゴドリー侯爵家の私財と人材も拠出したし、私たち自身、仕事で長く帰国できなかったのはそのせいね」
ゴドリー侯爵夫妻が息子の帰還を出迎えることなく、ひたすら国外で外交に専念したのは、国の利益を上げるためでもあったが、密かに調べるべきこともあったため。
「チェリー」
「……っ!」
マリアロッサは次なる言葉を放った。
「コンスタンス嬢、娼婦であり貴女の母であるミルアがつけた名前はチェリーね。彼女の死後もそのままその娼館で養育されていたけれど、大火で全焼。生き残った娼婦たちと一緒にこの国一番規模の大きな娼館に買い取られて、名前をコンスタンスに変えた。まあ、これは国の取り決めで組合に登録されていた記録だから、簡単に解ること」
娼婦になるに至る事情はみな様々で、家族や恋人に売り飛ばされたり、陥れられたり、攫われて売りに出されたり、どれも不確かなものばかりだ。
売る側も売られる側も真実を語るとは限らない。
しかし、とある娼婦が存在していたということだけは確かなのだ。
とりあえず在籍記録だけは確実に管理するように国が決めたのは、国家を揺るがす犯罪に娼婦や娼館が絡むことが度々あったためともいわれる。
男たちの密談の場所としてこれほど最適な場所はない。
コンスタンスの母、ミルアはとてもとても美しい女だった。
氷を糸にしたような銀髪に、雪のように白い肌、薄い水色の瞳。
顔も体も天女のようだともてはやされ、所属している娼館では看板娼婦の一人だった。
『サクランボが大好きだから、チェリーにしたの。だって可愛いでしょ』
しかし、心と思考能力の時間が十歳程度で止まっていた。
気味悪いと思う男は寄り付かなかったし、大人の身体で幼い物言いとあどけない仕草のミルアを好み足しげく通う客もいた。
そして、とある客が自暴自棄になって刃物を振り回し、逃げる事すら思いつかないミルアは一番に刺され、即死。
コンスタンスが五歳の時だ。
「貴方の母であるミルアの出自についてはまた調査中だけど、盗賊にさらわれ転売され続けているうちに我が国へ流れ着いたようね」
「…はい。私もそのように聞いています。どれほど聞き出そうとも、母には全く記憶が残っていなかったらしいので」
過酷な体験のせいなのか、ミルアには名前も年齢も一切があやふやで、記録に残る彼女の容姿から推測するに、はるか遠くの北の国なのではとマリアロッサは推測し、すでにいくつか目星をつけている。
コンスタンスの黒髪巻き毛とサファイアの瞳は父親譲りと推測し、そもそも中規模とはいえ娼館で一番花代の高い女の常連で子を成せる立場である男がただの平民であるはずもなく、貴種の血を引いているという触れ込みはあながち間違いではないと国も判断した。
母親の血筋と父親の血筋。
そのどちらかがいつか国において価値を持つかもしれない。
一介の娼婦として『処分』せず、コンスタンス・ディ・マクニールと名乗ることを黙認した理由はそこにある。