マリアロッサ・ゴドリー侯爵夫人
ゴドリー侯爵家は都の南端に邸宅を構えている。
ちょうど王宮を中心に置いて北のゴドリー伯爵邸と対角に位置し、もちろん敷地と建物の規模は侯爵家に相応しいもので、趣向を凝らしたいくつもの庭園と別棟を擁していた。
「以前より、ずっと顔色が良いのね。ほっとしたわ」
マリアロッサ・ゴドリー侯爵夫人は唇をほころばせた。
「母上…」
ガラス張りの温室の中には南方の植物が持ち込まれ、冬も間近というのに明るい色の花を咲かせている。
その下に家具が置かれ、リチャードは久しぶりに母と向き合っていた。
テーブルの上には、最上級の食器が使われリチャードが子どもの頃から好きだった菓子や果物ばかり並べられている。
「ベンホルム様は王宮で文官たちに囲まれてしばらく泊まり込みになるわ。どこに行っても仕事漬けね。かわいそうだから、あちらで一度顔を出してあげてちょうだい」
リチャードの母、マリアロッサはクラインツ公爵家の長女だった。
すでに伯爵位を継いでいた五歳年上のベンホルム・ゴドリーの妻にと望まれ、若くして嫁いだものの、十年近く子供に恵まれなかった。
途中何度も離縁を切り出したが夫をはじめとした家族が拒否し続け、苦しむマリアロッサを神が憐れんだのかようやく身籠った。
しかし喜びもつかの間、胎児と母親の血液と魔力の型が合わないため、マリアロッサは重度の悪阻に悩まされ、流産の危機を抱えたままなんとか産み月を迎え、出産もそうとうな難産の末生まれたのが、リチャードだ。
携わった医師たちは母子ともに生きられたのは奇跡だと後に語った。
マリアロッサはどちらかと言うと男性的な体格で、骨格も筋肉も基礎体力も高位貴族の令嬢としては規格外だったのが幸いしたのだろうと。
「リチャード」
「はい」
「あなたは、私たち夫婦にとって大切でかけがえのない子ども。それはいくつになっても変わらない。それだけは絶対に忘れないで」
「…ありがとうございます」
リチャードは深く首を垂れた。
全て、両親の耳に入っているであろう。
不甲斐ないこの息子が、戦争で多くの人々を死なせてしまったことも。
罪悪感から眠れぬ日々を重ね、心身ともに壊していたことも。
シエナ島で懇意になった高級娼婦を本国に連れ帰ったばかりか、凱旋の時に堂々と伴い、現在、妻として遇していることも。
そしてそのために数々の愚かな行いを重ね続けていることも。
それでも。
両親は。
「私はね。貴方が生きていてくれているだけで十分なの。あなたほどではないけれど、私はたくさんの死を見てきた。意外と人はあっけなく死んでしまう…。だからこそ、母親としてそれだけは譲れない」
大きな瞳、尖って高い鼻。
公爵家の男子に多い特徴であるこの威厳のある独特な顔つきは理知的で、視線一つで交渉事も優位に運ばせ、常に堂々とことを成すマリアロッサは外交に欠かせない侯爵夫人として国に重宝されている。
その有能ぶりのせいで親子としての時間は長く持てなかった。
それでも、彼らの愛情を疑ったことはない。
貴族の家庭とはそういうものだ。
「……ははうえ」
返す言葉が思いつかない。
「たとえ、愚かな親だと世間に笑われても、構わない。だから、あなたの決めた伴侶について反対はしないわ」
母親の言葉にリチャードは目を見開いた。
「…何? 別れなさいと言うために呼んだと思っていたの?」
心底不思議そうに首をかしげるマリアロッサへ息子は素直に答える。
「はい。緊急で戻られたのなら、それ以外にないと」
「帰国前から彼女の存在ぐらい把握していたわ。私たちも、王家も」
情報は国の生命線だ。
世界中のありとあらゆる場所に数多くの国の密偵が配されている。
王家と国の機関は各国から送られてきた様々な情報の真偽を精査し、対策を練るが、提督の愛人の件については引き続き探りはするものの放っておかれた。
彼女には他国の重鎮とのパイプがないことは早々に調べがついていたからだ。
コンスタンスという女は、泥水をすすり続けた蓮の花。
何度も花を咲かせては、沈められ続けた娼婦の娘。
「熱病に冒されたあなたが生還したのは、確かに彼女のおかげ。だから、この国へ戻ることもゴドリー伯爵夫人としてふるまうことも容認することに決めたの」
優雅にカップを持ち上げ数口飲んだ後、マリアロッサはテーブルの上に戻した。
「ただし、ゴドリー侯爵家としての判断は別であることだけは、分かるわね?」
静かに。
そして、厳しく。
マリアロッサ・ゴドリー侯爵夫人は、リチャード・ゴドリーにゆっくりと語り掛ける。
「はい」
リチャードは膝の上に置いていた手をぎゅっと握った。
「王家と侯爵家の指示に従います」
当主である父ベンホルムではなく、母がそれを告げるのは温情でもある。
自分はずいぶんと甘やかされていることを自覚した。
「この件についてはこれでおしまい。ああそれともう一つ」
「はい」
「あなたが…いえ。これはライアンが仕組んだことかしら。コンスタンスとの結婚を円滑にするために買ったブライトン子爵の令嬢。あの子に傷一つでも負わせたら全てご破算になることを肝に銘じなさい」
「…は? 母上、それはいったい…」
「ヘレナ・リー・ブライトンはカタリナ・ストラザーン伯爵の姪で養女であるけれど、重要なのは実はそちらではないわ」
とんとんとんと、長い指先をテーブルで叩きながら、マリアロッサは噛んで含めるように話しを続ける。
「貴方たちの誰もが失念していたからこそ、そんな扱いを平気でしたのでしょうけれど、王妃様はけっこうご立腹よ。そのせいでゴドリー伯爵家は今や崖っぷちね」
「…え?」
「ヘレナの母、ルイズは王妃にとてもとても寵愛されていたのよ。王家の生ける秘宝とあだ名された天才お針子。その娘を邸内に監禁して冷遇していたなんて、あなたたち死にたいのかしら?」
ハンス・ブライトン子爵と友人たちはそれを知らないまま、ルイズを殺してしまった。
そして現在。
双剣の主ベージル・ヒルの一件も絡んで、リチャードたちの行ったヘレナに対する色々が露見してしまっている。
「気をつけなさい。貴方の妻が、これ以上余計なことをやらかさないことを祈るわ」
これは、侯爵夫人としての忠告。
そしてこれが、緊急で帰国した最大の理由だ。
「はい…。承知しました」
深く深く頭を下げる息子のつむじをじっと見つめながら、マリアロッサは口を開いた。
「まあ、とりあえず。明日の午後にあなたの家へ行くつもりだから、よろしくね」
「…お越しをお待ちしております」
いったい、リチャードの身に何が起きているのか。
まずは、直接目にしないことには判断の一つも下せない。
母としても、侯爵夫人としても。




