パセリ、セージ、ローズマリー、タイム
冬も近くなると陽の力も衰えてくる。
まだ昼の二時過ぎだと言うのに、外はもう夕方の気配が忍び寄っていた。
ベージル・ヒルは庭園の隅にある階段に腰掛けて、胸元から布の包みを取り出し膝に広げる。
ゆっくり慎重に広げると紙ナフキンにくるまれたショートブレッドが現れる。
手のひらより小さな丸い型でくりぬかれた白くて平べったいそれを一枚、指でつまんで口に入れたところで背後から声をかけられた。
「まあ、美味しそうね。恋人が作ってくれたのかしら、ヒル卿」
声の主が誰なのか気付いたヒルは、急いで飲み込んで振り返る。
そこにいたのは、数人の侍女と騎士を従えた王妃エリザベートだった。
「これは…。失礼いたしました。王妃様にご挨拶申し上げます」
布包みを階段に置き、立ち上がって深く頭を下げる。
「あら、ごめんなさい。そんなつもりで声をかけたのではないの。ただね。そのショートブレッドがなんだか懐かしい気がして。もしかして、四種類ほどハーブが入っているのではなくて?」
えくぼの浮かぶ少しふくよか頬を緩ませて王妃は笑いかけた。
「…はい。そうです。確か、パセリとセージと…」
「ローズマリーとタイムね」
大きな翡翠の瞳を瞬かせ、茶目っ気たっぷりに続きを告げる。
「はい。その通りです」
ヒルが包みを拾い王妃に捧げてみせると、歩み寄って中をしげしげと覗き込む。
「…一枚、頂いても良いかしら」
ヒルはぎょっと目を見開いたが、付き従う者たちは慣れているのか、全く動じない。
「とある方からのおすそ分けで、味は保証しますが…」
「ああ、大丈夫。害のあるものはとっくに魔道具が察知するから」
そこまで言われると、差し出すほかない。
王妃の取りやすいように手元を傾けると、にこりと笑って一枚とった。
「近衛騎士の大切な食べ物を横取りする、はしたない王妃でがっかりしたでしょう? ごめんなさいね」
「いえ。そんなことは」
「この、白い生地と緑のハーブのかけらが綺麗な焼き菓子を昔よく作ってもらったことがあったと、ふと思い出したの。味は、そう…これ」
ためらうことなく口に入れ、目を閉じ、ゆっくりと味わう。
「ルイズ…。ルイズ・ショア。いえ、ルイズ・ブライトン」
王妃の呟きに、ヒルは微かに肩を揺らす。
「あの子はもう亡くなってしまった…。なら、これは娘が作ったのね」
思わず伏せていた顔を上げて、王妃の瞳をまじまじと見つめてしまった。
「…はい。よくおわかりになりましたね。その通りです」
たった一切れのショートブレッド。
それでも、記憶に残る優しい味だ。
「このハンカチの刺繍も、その子が?」
ショートブレッドを包んでいた大判のハンカチの周囲には薄い緑の蔦模様が丹念に張り巡らされている。
それを、王妃の白い指がゆっくりと愛おしむようにたどった。
「はい」
「名前は何というの?」
「ヘレナ様です。ヘレナ・リー…。ゴドリー伯爵夫人です」
どう告げるべきか迷いながら、正式な名称を並べると、王妃の眉がぴくりと動く。
「……! ああ、なるほど。そういうこと…。ようやく合点がいったわ」
ハンカチの上できゅっとこぶしを握った。
「ねえ、ヒル卿。ルイズ・ショアはね。そばにいたのは短い期間ではあるけれど、私の大切なかわいいお針子だったの。あの子を手放してしまったことを何度後悔したことか」
「…はい」
「もういい加減、侯爵夫妻も自国でくつろぎたい頃よね。だいたい、お二人が有能だからって王もこき使い過ぎなのよ、まったく…」
王妃が口にしたのは、おそらくリチャード・ゴドリー伯爵の両親のこと。
ヒルは黙って首を垂れる。
「娘の輿入れの道具にどうしても入れたい物があるのだけど、良いものがなかなか見つからなかったの。それを侯爵夫人に相談することに決めたわ。あなたはもうリチャードの元から離れたけれど、きっぱり切れたわけじゃないのでしょう。情報を彼に流しても良いわよ。なんせ、『妻の力』をお借りすることになるから」
「……は」
王妃がどの程度ブライトン家とゴドリー家の事情を把握しているのかがわからず、ヒルはとりあえず短く返事をする。
ようは、母親と同じようにヘレナに針仕事の依頼をするという事だろうか。
「この子にすぐにでも直接会いたいのはやまやまだけど、それはとりあえず我慢するわ。でも、きっと、ルイズの子なら喜んで受けてくれるであろうと私は信じている」
口角を綺麗に引き上げにっこり笑って、王妃はもう一枚ヒルの手元からさらい、目の高さまで持ち上げる。
「ねえ、ヒル卿。これに込められた祈りを知っている?」
「…いいえ」
「悪を遠ざけ、健康で、愛と幸運に恵まれますようにって。ルイズはいつもそう言っていたわ。四種のハーブのおまじないね」
パセリ、セージ、ローズマリー、タイム…。
これを作っているところに行き会ったヒルは、ヘレナが小さな声で歌っていたのを思い出す。
彼女は手際よくボウルの中の種をかき混ぜながら、楽しそうに笑った。
「たった一枚食べるだけで。力がみなぎるの。すごいわよね」
誇らしげに、そして。
王妃は亡き人を悼んだ。
「はい」
ヒルもまた。
あの、働き者の小さな少女を想った。




