キャロットケーキと蜂蜜
すでに火からおろしていた鉄鍋の蓋をマーサが取ると、シナモンを中心にスパイスの効いたケーキの香りがふわりとあたりに漂った。
「うわあ、美味しそう」
ヘレナが目を細めてその匂いを深く吸い込んだあと、コーヒーを淹れる準備に取り掛かる。
そこへ、薪拾いで少し奥へ分け入っていたテリーも戻ってきて笑う。
「お、ちょうど良い時分に戻ってきたな俺」
クリスとシエルはバスケットの中から皿とカップを取り出し、やがて支度が整うとそれぞれ焚火を取り囲むように配置された倒木や切り株に座った。
「ずいぶん具沢山で、まるで宝箱のようなキャロットケーキですね」
シエルは皿の上のケーキをフォークで切りながら唇をほころばせた。
しっとりとした複雑な色のスポンジの断面からはすりおろした人参の繊維とドライフルーツと栗とクルミが顔をのぞかせている。
「ありがとうございます。身体を動かすとお腹がすくかなと思って、つい色々と多めに入れてしまいました。お口に合ったのなら良かったです」
ヘレナはカップにコーヒーとミルクを注いでシエルに手渡す。
「勝手ながら最初に蜂蜜を入れているので、スプーンでかき混ぜて召し上がってください」
「…もしかして、養蜂も始めたのですか」
立ちのぼる香りを嗅いだ瞬間、シエルは悟った。
「ええ……。ハーン様があの……。とてもとても素敵な老師様とおいでなさったのは確か四日ほど前だったでしょうか……」
とてもとても素敵な老師様。
「ぐっ……」
テリーはケーキをのどに詰まらせたのか、胸元を叩いて悶えて至るのが目の端に映った。
シエルは頭の中でヘレナの言葉を何度も反芻する。
彼がここを訪れたのは五日ぶり。
ヒルとクラークと三人で距離感についてミカから釘を刺されて以来だ。
「私の不在の間にそんなことが……」
「あはは。ヘレナの好みのどストライクだよね。あの老師様は」
からからとミカは笑い飛ばし、クリスは何とも言えない顔でコーヒーを傾けている。
魔導士庁の妖とも陰で囁かれる老師エルドは若いころはそれなりの体格で炎の攻撃魔法が得意な武闘派だったが、月日が流れ今ではちんまりとしたドワーフを思わせる老人へと姿を変えた。
もはや老師エルド自体が魔改造愛玩生物に近い。
そんな彼の立ち居振る舞いにヘレナは胸をぶち抜かれ、あっという間に篭絡された。
「大変失礼ながら最初はお断りしたのですが…。きらきらと目を輝かせて『なんで? この蜂はすごいぞ? ほら、この蜜の凄さはわしの自信作じゃ』と蜂蜜を差し出されたらもう…」
これ以上、魔改造生物を受け入れるつもりはなかったヘレナは自分なりに抵抗したのだ。
たとえ、魔塔の重鎮である老師の頼みだとしても強い意志で断るつもりだった。
しかし。
上目づかいで覗き込まれた瞬間、ヘレナの頭は真っ白になった。
「それは…。断れませんね」
「あの、つぶらな瞳は反則です…」
乾いた笑いが広がる。
「それよりも、この蜂蜜はなんだか少し独特な味がするよね?」
ぽつりとクリスが感想を述べると、ヘレナは頷いた。
「うん、これは木の蜂蜜だから。とても貴重だから食べたことなかったわよね」
「木の蜂蜜?」
「ええ。特定の木の樹液を吸った虫が排泄した体液を、蜜蜂が回収して巣に持ち帰った物なの」
そもそも蜂蜜は蜜蜂が花から吸い上げて体内に貯めた蜜を巣で排出して熟成したものだ。
花の蜜ではなく樹液を二種の昆虫を通して吸引貯蔵を行い生成されたものが『木の蜂蜜』。
「なるほどね、樹液の蜜か……。道理で風味が全然違うと思った。ところでもしかして、一つ目の虫も魔改造とかいうのかな」
「多分。しかも、その対象の木が生えている場所が聖女教会の森で……」
「だんだん嫌な予感が……。なんかもう、みなまで聞かなくていいや。ようは何らかの効果抜群とかいう」
「そう。なんかね効果抜群だったの。本当に」
「それって、もしかして……。あの万年思春期な金髪野郎のことかな」
「まんねんししゅんきなきんぱつやろう」
ヘレナがおうむ返しに唱えると、ミカは己の膝をばしばしと叩いて笑い転げている。
「ええと。まあ、その、てきめんに……ね」
その男の名は、ライアン・ホランド。
懐きそうになかった猫は、さも当たり前の顔をして別邸に上がり込み、朝晩とご飯をねだるようになっていた。