モーロの魔女
赤い光に包まれた瞬間目を強く閉じ、瞼の裏が静かになってゆるゆると開いた。
「ここは……」
コンスタンスとドロテアは言葉を失う。
昼間の光をほとんど地面まで通すことができない程の、うっそうとした森の中に二人は立っていた。
風はほとんどないにもかかわらず、近くの草むらや木々が不自然に音を立てる。
自分たち以外の、何か、生き物がうごめく気配。
「ひっ……」
ドロテアは慌てて半歩後ろへと飛びのく。
華奢なつま先のすぐ前を、鈍色に光る細長い蛇が赤い舌をちらつかせながらうねうねと通り過ぎていった。
二人はまるで幼い少女のように肩を寄せ合いしっかりと手をつなぎ、おそるおそる前へ進む。
彼女たちの前方から焚火の音と白い煙、そして森にはない匂いが漂ってきたからだ。
かかとの高い靴は木の根や小石や苔が絡み合う地面を歩くには全く向いていないが、仕方ない。
ふいに周囲を駆け抜ける何かに何度も悲鳴を上げそうになるのを耐え、なんとか焚火が行われている場所へたどり着く。
低木の茂みをかき分けると、いきなり目の前が開けた。
「……っ」
思わず二人は息をのみ、歩みを止める。
小さな石造りの家の前に黒ずくめの衣装に身を包んだ三人の老婆がいた。
頭からスカーフを被って首に巻き付け、枯れ木のような手と骸骨のような顔と僅かにこぼれ出ている縮れた白髪以外は全て黒い布に隠されている。
彼女たちは背中を丸め焚火に載せた大きな鍋を囲んでいた。
一人は地面に座り込んで枯れ木を焚火にくべつつ火を見つめ、
一人は手にしている小枝から葉をちぎっては鍋に放り込み、
一人は長い棒で鍋の中をゆっくりとかき回す。
「あの……」
ごくりとつばを飲み込んで、ドロテアは口を開く。
すると、三人はぎろりと視線を寄こした。
瞳が薄闇の中強い光を放つ。
焚火の老婆はオレンジ色に、小枝の老婆は黄緑色に、鍋の番をしている老婆は青色に輝いた。
気圧されるが、後のないドロテアは言葉をつづける。
「……モーロの魔女をご存じですか」
「わしらの事さね」
あっさりと小枝の老婆がしゃがれ声で答えた。
「お前さんたち、神の使いの逆鱗に触れたね。よくもまあ、死ななかったもんだ」
「死……? そ……」
そんな大げさなと言いかけたドロテアに焚火の魔女が手をあげて制止する。
「あんた、分かっていないようだけど。滅多なことを言うんじゃないよ。言葉にしたら取り返しのつかないこともあるんだ」
「……」
ぐっと口をつぐんだドロテアより一歩前に進んでコンスタンスは問うた。
「それで。皆様は私たちがここに来たわけをご存じでしたら、教えてください。どうすればこの気味悪いものから解放されますか」
「ほほほ。若い若い。ずいぶんと強気じゃな。この状況でもなおそうなら、愉快愉快」
鍋をかき回しながら、魔女は笑う。
「まあ、確かに時間は無限ではないの。お嬢さんがた、まずは名前を名乗ってもらおうか。解呪に必要なもんでね」
問われて、伯爵夫人は顎をつっと上向けた。
「ドロテア・ヴェラ・アビゲイルですわ」
「……コンスタンス・ディ・マクニール……、オブ・リンデマン」
コンスタンスは取得したばかりのリンデマン国男爵令嬢の名を名乗る。
「……あんたたち、それで間違いないね?」
焚火の魔女は地面に胡坐をかいたままぽつりと問う。
「……? もちろんですわ」
ねえと、首を傾けて不思議そうにドロテアはコンスタンスに振った。
「もしかして、旧姓のことですか。私はマクニール男爵の籍に最近は言ったばかりで……」
魔女たちの視線がコンスタンスに集中する。
「ああ、違うそれじゃない。幼名っていうのかね。別の通り名があったなら言っといたほうが良いよという話だ」
幼名。
男爵令嬢『コンスタンス・マクニール』ではなく。
高級娼婦『コンスタンス・マクニー』でもなく。
まるで猫にでもつけるような。
いったい何の役に立つというのだ。
頭を軽く振り、無邪気に微笑んで見せた。
「コニー。夫は私をそう呼びます」
「おやそうかい。ごちそうさま」
くっくっくっと喉を鳴らして笑いながら焚火の魔女は立ち上がり、葉を投げ込んでいた魔女を中心に三人は並んで鍋を囲む。
「捧げる物を寄こしな」
焚火の魔女が手を差し出すので、ドロテアは耳や首、そして手から宝飾品を外して渡す。
するとそれらは躊躇いなくどろりとした沼色の鍋の中に放り込まれた。
「ちょっ……っ」
思わず声を上げたドロテアを無視して、魔女はコンスタンスに顎をしゃくる。
「なんなら、自分で入れるかい?」
促されて、コンスタンスは首を振った。
炎と鍋が怖い。
近づいたら何かが起きそうで。
「いいえ。お願いします」
宝飾品の入った箱を渡すと、魔女は中を検めることなく、とぷんと投げ込んだ。
「お気に召すといいねえ」
鍋をかき回しながら魔女が笑う。
「それで、お嬢さんたちはハンカチをお持ちかい」
焚火の魔女が再び問うた。
「え、ええ……。もちろんですわ」
次に何を言い出すかわからず二人は怯える。
「なら、話は早い。あんたたちは怖がりさんのようだから、そこにある鋏と針で髪をひと房きり、指先の血を一滴、ハンカチに落として包むんだ」
魔女が指さした先に、先ほどは気づかなかった切り株がちんまりと在った。
そしてその上には蓋を開けた裁縫箱が載っている。
「それを鍋に入れたら交渉を始める」
こともなげに言われ、コンスタンスは片眉を上げた。
「交渉?」
「なんだい、あの男は何にも説明していないのかい」
おそらく、ドロテアにこの魔女たちとの間を取り持った呪術師の事を指しているのだろう。
あきれ顔で魔女は説明を始める。
「今鍋に入れた首飾りだのなんだのは、あんたたちを罰したモノらを呼び出すための品さ。安物やまがい物だったら、まず来てくれないね」
「まがいもの……」
正直なところ、その辺の小石のような扱いを受けた愛用の首飾りを惜しんだドロテアはイミテーションにすればよかったと心の中で悔しがっていたところだった。
本来の目的を思いだし、己を落ち着かせるために深呼吸をする。
「あんたたちの大切にしている宝飾を捧げ、髪と血と名前を告げることにより、彼らは交渉の場にやってきてくれる。そこでわしらと話し合いをして、あんたらの今後をどうするか決めるのさ」
「待ってください」
コンスタンスは割って入った。
「宝飾は……交渉の場のためのものなら、あなた方への報酬は?」
「おや、良いところに気が付いたね。そこの世間知らずのお嬢ちゃんとは違って、あんたは勘が良い」
からからと笑いながら、真ん中の魔女はいつの間にかヤドリギのようなものを手にしていて、それを鍋の中へ入れた。
「神秘の技には報酬が付きものさ。ましてや神の怒りから逃れようなんて、そんじょそこらの呪術師や聖女なんかに出来る事じゃない」
「ま、まさか……。私たちから若さや美しさを取り上げたいと言うの?」
はっと目を見開き、ドロテアが震える。
昔話の定番だ。
人ならざる者の力を借りる時、大いなる代償が必要となるものだ。
「いんや。わしらはもう若さだの美しさだのは腹いっぱいだでの」
今度は何かの枝を取り出し、鶏のような指先で放り込む。
「では……」
「ただ、ずーっとここで姉妹たちだけと暮らしていると刺激がなくてつまらんのじゃ」
にたりと、落ちくぼんだ眼が細くなった。
「……何が、お望みで」
コンスタンスはこくりと唾を飲む。
「お前さんたちの目を通して、そちらの世界の物事を見たいだけさ。わしらも歳を取った。俗世は何かと面白いが、わざわざ行きたいとは思わない。ただ、のんびり火にあたりお茶でも飲みながら色々のぞき見したいねえ」
ふぇふぇふぇと二人の老婆も抜けて不揃いになった歯を見せながら笑った。
「なんだ……そんなこと……」
安堵のため息を女たちはいっせいについた。
「そんなことで良ければ別に構いませんわ」
ドロテアが同意すると、睫毛のない瞳を魔女たちはいっせいにコンスタンスへ向ける。
「お前さんはどうかね?」
「……え、ええ……。あの。今一度確認しまずか、私たちを通して外の世界をお見せするだけですわよね?」
何か。
見落としていることがあるような気がした。
コンスタンスは老婆たちの瞳を一人一人見つめながら尋ねる。
「ああ。そうだとも。わしらは娯楽に飢えておる。それだけのことじゃ」
真ん中の老婆がすまして答えると、何がおかしかったのか焚火の魔女がふひゃひゃひゃとしわだらけの口を開けて萎びた大きな手でばしばしとその肩を叩き、鍋をかき回す魔女は棒にしがみついて肩を震わせた。
「さあ、さあ。どうするか?交渉を始めるか、俗世へ戻って修道女になるか、それとも……」
「交渉してください」
コンスタンスは言い切った。
「解呪を。私たちの身体についたこの忌々しい染みを全部、取り去ってくれるようお願いします」
「そうですわ。私たちはそのために来たのですから」
ドロテアは大きくうなずく。
二人が即座に切り株へ足を向けた。
躊躇いながらも手入れの行き届いた自慢の髪を切り、顔をしかめつつ指先に針を刺す姿を、ゆらゆらと立ちのぼる鍋の蒸気ごしに魔女たちはじっと眺める。
「若いねえ……」
誰かの呟きが、ぐつぐつと泡を生んでいる暗い液体の中に落ちて消えた。