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帝国の花、カタリナ・ストラザーン伯爵夫人見参


 水の中で漂う夢を見た。


 海なのか湖なのか池なのかわからない。

 流れはほとんどなく、ただただ足もつかない世界に自分はいる。

 ふと頭を上げるとはるか上の方から光が差し込む。

 それが太陽なのか、月なのか、それすらも分からない柔らかな光。

 手を伸ばして上を目指そうとすると、甘い囁きに引き留められる。



「大丈夫。忘れるのよ、リック・・・」



 優しく髪を撫でられ、全身を包む柔らかな感触になぜかとても安堵して、身体の力が抜けていく。



 なにも見なくていい。

 なにも聞かなくていい。

 ただただそこにとどまり、漂うだけ。



 薔薇の甘い香りに包まれ、再び目を閉じた。



 何も考えてはならない。

 生きていたいなら。








「まさか、このような扱いを受けるとは思いませんでしたわ」


 一見シンプルだが素材は贅沢なドレスに身を包んだ貴婦人が優雅に微笑む。


「…大変申し訳ございません、ストラザーン伯爵夫人」


 執事ウィリアム・コールは頭を下げた。


「主はあいにく先日引いた風邪がなかなか治らず、とてもご夫人の前に出られる状態ではなく…」


 この部屋は数ある応接室の中で最も格調高く、最もリチャードの寝室から遠い。

 しかし、次期宰相と目される男の妻として社交界で長年活躍している女性の眼はごまかせない。


「そう。たかが風邪と侮ると命取りですもの。家臣としては気が抜けないわね」


 重々しくうなずきながら、従僕ヴァン・クラークの淹れた紅茶に口をつける。


 ストラザーン伯爵夫人はとうにわかっている。

 この屋敷の現状を。

 そしてリチャードが、今なおコンスタンスと寝室に籠りきりである事を。


 挙式の日。

 ヘレナの身元を確かめるためにヴァンが宮中で彼女に面会した際、直ぐにでも夫となるリチャードとの話し合いの場を設けるよう要請されていた。


 しかし主は全く取り合わず、その後ストラザーン家より再三来訪の申し入れが来るたびに、仕方なく可能な限りの丁重な断りの返事を返し続けた。


 のらりくらりと躱し続けること十日目の本日、『あらあら、使者とはどうやら行き違いになったようね』と家門を冠した最新式の馬車で乗り付けたストラザーン伯爵夫人は強いまなざしで家人たちを見据えた。


「挙式は急な話で出席できなかったけれど、今後はヘレナにできるだけのことをしてあげたいわ。あの子はもうストラザーンの娘ですから」


「今後と、おっしゃると…」


「本当はゴドリー侯爵と話し合うべき事項だけど埒が明かないから、あなたと、…あなたは秘書かしら?」


  コールの背後に立つホランドに声をかける。


「はい。秘書のライアン・ホランドと申します」


 じっと探るようにホランドの顔を見つめたあと、夫人は頷いた。


「…そう。ホランド卿。この家の実務はあなたとコール卿が主に担っていると思って良いのかしら」


「はい。あと、そこにいる従者のヴァン・クラークも執事補佐として主についています」


 名指しされたヴァンは静かに一礼する。


「なるほど。ならあなた方と話し合いをしておきたいわ」


「なんなりとおっしゃってください」


 そつのないホランドの応対に、軽くうなずいた。


「話が早くて助かるわ」


 カタリナが背後を振り返ると、ストラザーンの秘書が書類を手渡す。


「まず、ハンス・ブライトンがゴドリー伯爵と交わした契約については一切口出ししません。ストラザーンとしては即刻違約金を払って破棄するつもりだったけれど、ヘレナ自身がブライトン子爵家としての最後の務めを果たすと言うのでね。ただし、期限は契約通り二年まで。更新はなしよ」


 数枚の書類をめくって内容を確認しながら、続ける。


「それからおそらくあなた方は今、ヘレナをこの敷地内に軟禁しているでしょう。まあそれが偽装結婚の定番でしょうけれど、もしあの子に少しでも危害を加えたならば、わたくしが容赦しないことを宣言させてもらうわね」


「それは…」


 ホランドが眉を顰めると、にいっと唇を上げてカタリナは嗤う。


「あの二千ギリアをあくまでも結納というなら、ストラザーン側は数倍の持参金を出しても構わないのよ? 夫が当主になった以上、それくらいすぐに用意できるのだから」


 義父の死で、先日全権がカタリナの夫に移った。


 そもそも今のストラザーンの財政は様々な事業が順調なおかげで国で最も豊かな家門の一つとなっている。

 本来なら契約撤回など造作もない事なのだ。


「そういったことをゴドリー伯爵ときちんと話し合いたかったのだけど、今は無理ね。ならばとりあえず、月に一度は家紋なしの馬車で密かに里帰りさせてもらうことと、ストラザーンとの手紙のやりとりを週に一度はさせてもらうこと」


 カタリナが片手を上げると秘書の隣に立っていた青年が前に進み出て一礼した。


「それとこのラッセル商会のテリーを不定期でヘレナと面会させてもらうこと。この三つを認めてちょうだい」


 言うなり書類をテーブルに置き、指示した。


「今言ったこと、全部書いてあるから一読して三人の署名を書いて」


 交渉ではない。

 強制だ。

 この場にいる人間の中で最上位はもちろんカタリナ・ストラザーン伯爵夫人だ。

 拒否権などあるはずがない。


「持ちかえって主人に伺いを立てるはなしね。私は十分待ったわ。十日もね」


 応接間に重い沈黙が落ちた。


 室内にいるのはゴドリー側がコール、ホランド、クラーク、ストラザーン側はカタリナ、テリー・ラッセル、秘書官、護衛騎士、そして魔導士らしき男。


 これほどの人数がいるのも関わらず、まるで誰もいない部屋のような静けさだ。



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