ささいな事故
ずっと水のような世界でゆらりゆらりと浮かぶままでいた意識が、ふいに強い力で天へ向かって押し上げられた。
「―――――?」
ぴたりと、針を動かし続けていた手が止まる。
縫いかけの布に軽く針を刺して近くにあった籠の中に置き、耳を澄ました。
傍らで眠っていたらしいネロとパールもむくりと頭を持ち上げ、ぱちりと目を開いて空を見つめる。
がんっと、天井に衝撃音と僅かな振動を肌で感じた。
この屋敷は堅固な造りでよその部屋の音が漏れることはあまりない。
こんなことは初めてだ。
おそらく、三階の、魔方陣が描かれている部屋で何かが起きたのだろう。
誰かが、来た。
ダン、ダン……と重すぎず、かと言って軽すぎない、何かが跳ねるような音が耳に届く。
二度目は確実にこの二階。
え?
階段を踏まずに二度の跳躍で済ませて降り立った?
人間離れしているが、両脇の獣たちの呼吸と瞳は通常通りなので、そのままの姿勢で扉を見つめる。
三階に続く階段は使用人のためのものなので奥まったところにあり、この部屋が一番遠い。
しかし、ほどなくしてその気配はやってきた。
「ちび!!」
扉が開いて、濃厚な赤色の騎士服を着た赤毛の男が飛び込んだ。
そして、長い足で部屋の中をあっという間に横切り、暖炉の前の床に座り込んだままのヘレナの正面に回るなり、いきなりウエストに手をかけ持ち上げた。
「うわ……っ」
視界がいきなり高くなる。
驚くことに小さな自分が大きな彼を見下ろしていて、足元で目を真ん丸にして固まっているパールとネロと床が遠い。
思わず両手を彼の左右の前腕に置いた。
大きな手に掴まれたところは不思議なことに痛くはない。
幼いころに両親や祖父にされた『たかいたかい』を思いだす。
「ちび、大丈夫か? いきなりこんなに伸びて、痛くないか? 苦しくないか?」
下から覗き込む赤瑪瑙の瞳は、些細なことも見逃さぬよう見開かれ、心から心配していることが見て取れた。
「…………」
何と言ったら良いものか。
戸惑ってその瞳を凝視すると、ベージル・ヒルは何を思ったのか、はっと顔色を変えるなりすぐさまヘレナを横抱きに変えた。
「す、すまない。痛かっただろう」
そしてそっと近くのソファの上に降ろし、正面に両ひざをついてヘレナの頭を優しく撫でる。
「ハーンから話を聞いて、居てもたってもいられなくてな。驚かせてすまなかった」
何度も何度も、ヘレナの存在を確かめるかのように両方の大きな手のひらが頭をなでおろす。
その武骨な手のからじわりと感じるのは。
「おとうさん……」
思わず脳内で思ったことが口からこぼれ出た。
「ん? 親に会いたいか? もしそうなら、俺が……」
腰を浮かせすぐにでも実行へ移しそうなヒルの肩に手を置いて、押しとどめる。
「いえ! それは間に合っています! そうではなくて、そうではなくて……。ヒル卿が凄く心配してくれているのが、すごく……」
「すごく?」
「ええと、ごめんなさい。お父さんってこんな感じかなと」
「…………ちび」
ヒルの手が後頭部と背中を包み、抱き寄せられた。
顔にあたる騎士服の刺繍がごつごつとしていたけれど。
温かくて、心地よい。
「ええと……」
「…………うん?」
頭と背中に当てられた手の熱がゆっくりとヘレナの中にしみこんでいく。
「おかえりなさい、ヒル卿」
ふっとつむじの上で彼が笑ったのを感じた。
「ただいま、ちび」
そう囁いて、ヒルはつむじの上に軽く顎を当てて話し出す。
「俺も、ちびも……。幼いころに少しだけ。『おとうさん』がいた」
「はい」
規則正しい彼の鼓動が言葉と一緒にヘレナの耳に届いた。
「今も、生存はしているけれど、あの『おとうさん』ではない。それがたまに……寂しいな」
「……ええ」
『おとうさん』は『父』となり、別の生物になった。
向こうが先に自分を捨てて。
自分も、彼を捨てた。
血のつながりはあるけれど、関わりはない。
それでも、時々うずくのだ。
『おとうさん』と。
おとうさん、おとうさん、おとうさん……。
幼い自分が。
両手を一生懸命伸ばして、幸せな記憶を追いかける。
泣きながら。
懸命に。
「寂しいのは仕方ない。そういう時は、こうしていればいいんだよ」
いつの間にか引き寄せられて、床に座るヒルの膝の上に収まっていた。
ぽんぽんぽんとあやすように背中を叩かれ、ああ、前にもこんなことがあったなと思う。
ベージル・ヒルは、ヘレナを解くのがうまい。
ちいさな子どものように扱いながら、胸の奥底に沈んだ黒いおりのようなものをゆっくりと薄めて散らしていく。
「それにしても、大きくなったなあ。前より十センチくらいか? 体重も少しは増えたようだけど、相変わらず細いな。ちゃんと食べられているのか? たった一週間やそこらでこんなに伸びたら、あちこち痛いだろうに、寝てなきゃダメだろう」
感心したり、心配したり、相変わらずヒルはうるさくて、少し暑苦しい。
「ふふ……」
この、相変わらずなところが、すごく嬉しい。
「よし、よし。笑え」
そういうなり、ヒルは大きな音を立てながら、荒っぽい口づけをどんどん落とし始めた。
「え……、ちょっ……と、ひ……っ」
つむじ、
こめかみ、
額、
耳、
眉間、
瞼、
鼻先、
頬……。
もう、めちゃくちゃだ。
「ほら、まだまだ」
ちゅっちゅちゅっちゅとリップ音が乱発され、次にどこに落とされるかわからない。
ベージル・ヒルはヘレナの顔を両手ではさんで、くすくすと笑いながら楽しそうに口づけてくる。
まるで、はしゃいでいるパールに舐められているみたいに、規則性もなにもあったもんじゃない。
彼の両手首をつかんでもがくけれど、大した抵抗にはならず、されるままだ。
なんだかだんだん楽しくなってきて、ヘレナはいつの間にか声をあげて笑っていた。
「小さくても、大きくても、ちびはちびだ」
彼の高い鼻がすりっとヘレナの鼻先を撫でた。
額と額が軽く当たると、なぜかとてもほっとして、軽く息が漏れる。
「ちびも、おかえり、大変な旅だったな」
オレンジ色のまつ毛に縁どられた暖かな茶色の瞳が優しく細められるのがとてもきれいで、思わず見とれた。
唇の先に、微かだが確かな熱と軽く柔らかなものがほんの少し触れたと感じた瞬間。
「び、びゃう、おう……」
「き、きゅーっっっ」
ヘレナの頬に滑らかな毛皮と少し濡れたものが当たり、更に腹のあたりからずぽん! と固いものが飛び込んできた。
「ネロ……、パール……」
ネロはヒルの肩に飛び乗りそこから顔でヘレナの顔を押しやろうとし、パールは二人の腹のあたりの空いた空間に突撃して挟まっている。
「あれ?」
ヘレナは首をかしげた。
横抱きにされたのは覚えているが、いつの間にか向かい合わせになっている。
笑い転げている間に変わってしまったらしい。
ヒルの長い足の間の床で直に座り込んでいるので、べつに不埒な体勢ではないかな?と、今度は反対に首をかしげた。
そんなヘレナの膝の上にぐいぐいと身体を乗り上げたパールは、真剣なまなざしでヘレナを見上げて鳴きだす。
「ばう…わう……あう……」
パールがヘレナに向かってなにやら説教をしているようだ。
そして、前足を肩にかけてぺろぺろとヘレナの顔を舐め始めた。
「あっふ……っ、パール……。どうした……の」
れろれろと、パールはヘレナの顔を縦横無尽に舐めて舐めて舐めまくる。
その様を、なぜかネロはヒルの肩の上にちょんと座って金色のまなざしで監督していた。
ちなみに、当のヒルはなぜか申し訳なさそうに眉を下げて、両腕を広げてヘレナの身体をそのまま支えている。
「そういや……。パール、なんで今……ちょっと小さいの……?」
舐め舐め攻撃を受けてパールの唾液まみれになりながら、ヘレナが問うと、背後から至って冷静な声が降ってきた。
「そりゃヘレナ。フェンリル犬サイズだとあんたを押しつぶしてしまうからって、中型犬サイズになってあげているパールの配慮に決まっているじゃん」
「あ、ミカ」
なんとかパールの口を両手の輪の中に囲い込むのに成功し見上げると、ミカが腰に手を当てて王立ちしていた。
「ヒルさん、父性愛もそれ以上はアウトだからね。途中までは生温かく見守ってあげていたけど」
片手には鉈が握られていて、外で薪割りしていたところを駆けつけたのだろう。
「……途中までって、最初はどこから?」
喉の奥の、少しかすれたような声色でヒルが尋ねると、ふんっと鼻息を飛ばした後ミカはにやりと不敵に笑った。
「あんたがヘレナを持ち上げて高い高いってやりながらちびちび言っていたとこから」
「…………。ずっといたのか」
うめきながらヘレナをパールごと抱きしめ、ぽふっとパールの背中に顔をうずめる。
挟まれたパールはきゃうんと悲鳴を上げ、肩からずり落ちかけたネロも牙をむき、はーっとヒルの耳元に空気砲を吹きかけた。
そんな中、部屋全体をとてもつない冷気が覆い始めた。
「ベージル・ヒル様」
涼やかな、いや、凍てつくような冷たい声に、ヘレナに身体を寄せているパールがぶるぷると小刻みに震えだす。
「先ほどの『ささいな事故』は。……パールとネロの配慮でノーカンと致しましょう」
まるで氷壁のようなオーラをまとったサイモン・シエルがゆらりと。
扉のそばに佇んでいた。