赤瑪瑙石のように
「まずは、近衛騎士団着任おめでとうございます」
ハーンは立ち上がり、深々と礼をした。
「ハーン。君にはたくさん助けられた。改めて礼を言う。ありがとう」
ヒルも深く身体を曲げ、最高の礼の姿勢を取る。
「さあ、座ってくれ。長く待たせたようだな。すまない」
ちらりとテーブルの上のティーセットに視線を走らせ、すぐに部屋の隅に備え付けられた給湯器を使い、慣れた手つきで紅茶を淹れ直し始めた。
動作の一つ一つに無駄がない。
「あは。ヒル団長…ではなくて、ヒル様は近衛騎士の服がとてもお似合いだ。礼法もきっちり習得されていたのですね」
じっくりとその様を眺めたハーンはいつもの様子に戻り、すとんと腰を下ろす。
「だろう、だろう。もう何年も近衛をやってきたみたいな馴染みっぷりだよな」
モルダーが得意気に頷いた。
「……それについては、もう議論をやめた。それより、今朝会ったばかりの俺を待っていたといったな。何があった?」
「ヒル様は相変わらず話が早いですね」
ハーンは瞳を一瞬きらりと光らせたのち、少し笑って両手を胸元の前で何かを受け止めるような仕草をする。
すると、ふわりと宙から白銀の輪が現れた。
「それは……」
一昨日、魔導士庁へ戻った時にいったんハーンが回収した魔道具。
「ヒル様に装着していただいた足輪を改良しました。ついでに王宮の魔導士にも近衛騎士のベージル・ヒルの持ち物として承認登録してもらったので、宮殿内のどこでもとがめられることはありません。ああ、禁足区域はさすがに引っかかると思いますが、それは当たり前のことですので」
王宮内での魔道具の装着・携帯は城内を守る魔導士が検査と承認登録をしたものしか持ち込めない。
もしひそかに持ち込もうとした場合、あちこちに施された術で検知と警告が展開され、最悪の場合捕縛される。
「魔導士庁のお墨付きももちろんですが、カタリナ・ストラザーン伯爵夫人の申請書と王妃様の命令書も揃えて提出したので秒で承認されました。ふふふ。権力があるって、とっても気持ちいいですねえ」
一点の曇りもない無邪気な笑顔で相変わらず黒い台詞を吐き出す青年だ。
「で、ですね。改良した点は一つ。移転魔法の完全付与です」
「完全付与とは?」
「ようは、無制限に使えますってことです。前はね。時間がなかったので三往復くらいしかできない状態でしたが、いつでもどこでも、ヒル様の意志さえあれば飛べるように作り変えました。ただし、いっしょにとべるのはせいぜい五人くらいまでかな。例えば馬に乗ったヒル様とヘレナ様の組み合わせで飛べますが、おそらくちょっと安定感にかけるかも」
「空間に取り残される可能性があるということか?」
「いえ、貴方なら酔う羽目になります」
「……それはちょっと……」
アビゲイル邸からドナと遺体を運んで飛んだ時、ヒルは少し時空酔いした。
ハーンに伴われて魔導士庁内を移転した時と彼の執務室からリチャードの元へ戻った時は安定していたので油断したが、追放されてもう一度アビゲイル邸から単身で戻った時にものすごく揺れて酔い、たどり着いた場所の床に膝をつきしばらく立ち上がれなかった。
おかげで移転魔法に対して、かなりの苦手意識が芽生えている。
「ですよね。数をこなせばそのうち上手になるかもしれませんが、魔法には相性というものがありまして、熟練の魔導士でも移動魔法があまりうまくない人っているのですよ。ほら。あの給仕の検死に来た老師がいたでしょう。あの人、移転魔法がものすごく下手で、彼の操作で一緒に飛んだ人は地獄を見るのですよね。」
目的地には確実に着地でき、その過程に関して本人は至って平気なので全く問題ないのですが、と言われ、確かに己も思う場所に着地はできていたなと額をおさえる。
「絶望的な具体例をありがとう」
使う機会がないことを祈るのみだ。
できれば身体が忘れるまではそっとしておいてほしい。
「ところで、先に謝っておきますね。ヒル様の落ち着き先が決まるまではと思い、黙っていたことがあります」
「なんだ」
「まず、ゴドリー伯爵家の先代の執事であるバーナード・コール様のお加減が悪かったために書類が混乱状態にあることはご存じですよね?」
帰国してまず驚いたのは、几帳面なバーナード・コールの変貌ぶりだ。
執務室も私室も過去を知る自分としては信じられない状態だったのを覚えている。
「ああ。とくに重要書類が一切見当たらないと聞いていた。それが?」
「はい。ヘレナ様の発案で、今のうちにバーナード様の療養先に私とシエルを連れて訪れようということになりまして、別邸の三階屋根裏に移転用の魔方陣を敷きました。往復に時間がかかるのが問題だったし、秘密裏にかつ簡単に行き来ができるようにと思いまして。よって今、その魔方陣は完全なる移転用地点として魔導士庁に登録されています。そして、コール様、クラーク様、そしてラッセル商会、われわれ魔導士たちが頻繁にその魔方陣を使って行き来している次第です」
「へえ。面白いね。ところで、それ。リチャード知っているの?」
ハーンの向かいに座り紅茶をちゃっかり飲み始めていたモルダーが、ふいに口をはさむ。
「いえ。もうしばらくは秘密にしておいた方が良いかと。一度モルダー様もいらしてみればわかりますが、ヘレナ様は当初、軟禁に近い扱いを受けていてひどいものでした。なので、あの女性に漏れることは避けたいと思います」
「ふうん、ますます面白いね。ヘレナ嬢の親戚としては是非挨拶に行きたいところだな」
「まずはカタリナ様の許可を得てくださいね。窓口はそちらです」
「ヘレナ嬢じゃないところも興味深いな」
「そのヘレナ様ですが。直接連絡が取れないことが時々ありますので……」
「ちょっと待った」
ほのぼのとした二人の応酬に、ヒルは低い声で割って入った。
「もう一度、改めて問う。何があった、リド・ハーン」
重く、全てを押さえつけるような空気がベージル・ヒルの全身を包む。
それはたとえ。
己が私刑に遭っている時ですら見せなかったもので。
「ヘレナ様に、何か……あったのだな」
赤錆色の瞳が赤瑪瑙石のように染まり、強く輝く。
「ええと―――」
リド・ハーンは甘く軽やかな声でゆっくりと続きを紡ぐ。
「まあ、その。がんばりすぎちゃって……ですね?」
とりあえず、可愛く小首をかしげてみた。