オックスブラッド
あの時の自分はどうかしていた。
ベージル・ヒルは高くて遠い天井を見上げてため息をついた。
時折釣り下がっているのはキラキラと輝くシャンデリア。
天上の世界とそこに集う神々の絵が描かれた天井画。
国の威信をかけた装飾がそこかしこに施され、眩し過ぎる。
アビゲイルの狩猟宮殿もたいがい贅を尽くしていると思ったが、ここと比べればたいしたものではなかった。
柱一つにしても国宝級。
歴史の重さも材質も全く違う。
そんな場所で働くことを、己は何故即決したのか。
頭に血がのぼっていたとしか言いようがない。
「やだなあ。いかにも後悔していますって言わんばかりのそのため息。俺、傷ついちゃったな」
少女のように唇を尖らせる男は、宮殿の内装に負けないきらびやかな近衛騎士服が良く似合っていた。
後頭部の真ん中で緩く一つにくくり上げた金髪がふぁさ……と、彼が動くたびに緋色の上着の上にかかり、それがまた、とても認めたくないが、とてもとても眩しい。
「この騎士服のことを失念していた……。いや、俺は色々考えなしだった」
ゴドリーの騎士服は黒で、帝国騎士団は濃紺。
他のところだいたい似たり寄ったりの暗い色で、茶色や緑色そして青色あたりで誂えていた。
しかし。
近衛の上着はオックスブラッド(牛の血)と呼ばれる沈んだ赤色に黒と金の装飾が下品にならないぎりぎりを攻めて施されている。
キラキラだ。
それにずしりと重い。
それを何と今、自分ごときが身に着けている。
この現実がどうしても受け止められない。
「良く似合ってるじゃん。そもそも君、髪も瞳も赤系統だし。その騎士服着るために生まれてきたようなもんじゃない?」
「いや……。そんなはずは……。そんなわけないだろう!」
思わず両手で頭を搔きむしってしまった。
「ああ……。せっかく近衛のオシャレ番長が懇切丁寧にセットした髪が……。泣くぞ、あいつ」
「今すぐこれが脱げないなら、せめてこのくらい許してくれ」
きっちりオールバックにされていた髪はすっかり乱れて、いつもの無造作な頭のヒルへ戻る。
はーっと体中の空気が全て吐き出されてしまいそうなくらいの大きなため息をついた。
とにかく、落ち着かない。
ほぼ平民の自分には分不相応過ぎるから誘いを断り続けていたことを、綺麗さっぱり忘れていた己が憎い。
「でもね? もう、手続き済んじゃったし。諦めようよ?」
長い睫毛を瞬かせ上目遣いにもじもじと見つめられては、力が抜ける。
……この男。
「…………善処する。しばらくこうして発狂するかと思うが、どうか見なかったことにしてくれ」
「了解。ところで、リチャードとちょっと和解できてよかったね」
「……ああ」
今日、モルダーとホランドに連れられて現れたリチャード・ゴドリーは。
将軍の一人としての風格ある騎士服に身を包み、堂々とした姿だった。
植民地への赴任中と帝都の邸宅では、虚ろな顔しか見ていなかったなと改めて思う。
そして、彼は王への謁見の前に通された控室でヒルに深々と頭を下げた。
『すまなかった。ホランド達がいなかったら、取り返しのつかないことになるところだった。お前にはいくつも……。数えきれないほどの恩があるというのに』
それでも、今はまだコンスタンスと別れることはできないと告げられた。
今はまだ。
その意味がどういうことなのかは追求しなかった。
あの戦争は、リチャードを粉々にした。
なんとしても息子に生きていてほしいと願うゴドリー侯爵夫妻の言葉は、聞いたその日からヒルの中に深く根付いている。
リチャード・ゴドリーは、主君であり、乳兄弟であり、幼いころは友でもあった。
自分も、そう思うから。
彼は、あのろくでなしたちのせいで潰されていい人間ではないと思うから。
とりあえず距離を置くしかないと。
ゴドリー伯を出て、近衛に行くと決めた。
しかし、下の者からの同情など、小侯爵にとって屈辱にしかならないだろう。
だから。
『しばらく、別の世界を学ばせてください。自分は無知だとようやく気付きました』
そう、答えるのが精いっぱいだった。
驚くことに、一晩のうちにリチャードは何枚にも渡る詳細な推薦状を作成していた。
解雇・追放ではなく、将軍リチャード・ゴドリーの推薦による近衛騎士団への転籍。
書類は即刻承認され、国王夫妻立会いの下、就任の儀が行われた。
あまりにもすべてがあっという間で、ヒルは夢の中にいるような心地だ。
「夢じゃないからね。明後日から俺の下でビシバシ働いてもらうからね」
ヒルの頭の中などお見通しのモルダーはにやにやと笑う。
「明後日?今からではなく?」
「多分、今からは無理だろうなというのが、ハーンの見解でさ……」
彼に手招きをされ、騎士棟の中にある一室に入った。
「あ。近衛騎士着任おめでとうございます。ヒル様」
ソファに座りすっかりくつろいだ様子の魔導士が、ひょこりと小さな頭を下げる。
「待っていたんですよ、全ての用事が終わるまで」
今朝、魔導士庁の宿泊施設でさんざん話し込んだはずの男の言葉に、ベージル・ヒルは嫌な予感を覚えた。