黒い瞳に映るのは
「それから。ベージル・ヒルは俺たち近衛がもらう。……というか、もらったから」
そう告げるなりモルダーは胸元から書類を一枚出して、リチャードへ見せた。
「……どういうことだ」
近衛騎士団の入団申請。
ベージル・ヒルの直筆の署名がはっきりと記されていた。
「さっき、サインさせた。俺としては念願かなって感無量だよ」
見せ終わると、さっさと畳んで仕舞った。
「リチャード・ゴドリーがどのような理由で解雇しようがしまいが、こちらとしては問題ない。兄弟剣を授けた時から王妃様はヒルを近衛に欲しがっていたのはお前も知っているだろう。俺がこの狩猟会に参加したのは、あいつを口説くよう指示されていたからだ。でないと来るかこんなとこ」
鴉の頭頂部を指でかきながら、めんどくさげに吐き捨てる。
「俺、十五で帝都へ出てからずっとアビゲイルの女房に狙われているんだよ。おかげでここでは自分で汲んできた井戸水以外怖くて飲めなくて。初日に食事を部屋に運ばせてイズーの鑑定にかけると全部盛られていて、義妹も俺も食べられるものがなかった時には爆笑したよ。すぐに義妹が侍女頭と関わった侍女呼んでがんがん食わせて、次に食事に細工したらアビゲイルを全力で潰すって脅したら食事に関しては普通になった」
宴会や茶会など人目の多い場で、給仕が媚薬入りの飲み物を何かと押し付けてくることに関しては放っておいた。
指示系統が別なのではないかと義妹は推測したからだ。
少しは泳がせておかないと、次にどんな手を打ってくるかわからないからだ。
「でさ。この流れで言うけれど、お前も盛られているよな。『彼女』に」
両手でイズーを撫でさすりながらモルダーは強い視線をリチャードへ投げかけた。
「俺に『処方』されてからの今、だるさも眠気も何もなく、思考能力も割と回復しているよな? 完全だとは言えないけど。物証がないから確定はできないけれど、少なくとも今日は、強制的に『眠らされていた』。ヒルの処分が変わらぬようにな」
「…………」
昨夜。
リチャードは解雇を口にして部屋に戻ってすぐに、後悔していた。
ヒルとノーザンの発言の検証も行っていない。
実際、探しに行ったという侍女のドナはいまだに行方不明のまま。
公平性を欠いているのは明らかだ。
ヒルはあの時言った。
『私は確かに、酒に酔って前後不覚になり、奥様に対して不埒な真似を行ってしまった過去があります。しかし、それは決して今夜ではない』
コンスタンスをヒルが。
そう思っただけで頭に血が上った。
しかし。
『あれは、植民地を離任して帰国の途へ就く直前の休日でした』
めったに休みを取らなかったヒルが、帰国準備の慌ただしいなか、申し訳なさそうに休んだ日のことは覚えている。
あれは。
ヒルの母親と妹の命日だった。
それに気づいたときは頭を殴られたような衝撃を受けた。
だからと言って、コンスタンスに関係を強いたのは許されることではない。
しかし、彼がそのような行為に及んでしまった原因は自分に行きつく。
どうしたら良いのか考えがまとまらなかった。
何かがおかしい。
噛み合わない。
正直、自分に縋り付いて泣くコンスタンスを慰めている最中、気もそぞろだった。
朝になったら。
話を聞こう。
そして、ベージル・ヒルにとって最善の道を考えるべきだ。
そう思っていたのに。
「……起きられなかったのは……」
否定したい。
憶測にすぎないと。
しかし、いくらなんでも不自然過ぎることは、自らの身体が証明していた。
「コンスタンスに言っておけ。『今日の薬は身体に合わない。副作用がひどく悪夢ばかり見る上に疲労がたまりすぎるから別の物にしてくれ』と」
「そんなこと……」
言えるはずがない。
「なら、好きにするがいい。お前の人生だ。だが、ヒルを巻き込むな。あの女はアビゲイル伯爵の女房と同族だ。手に入らないと気づいたものは片っ端から壊す。他人が手に入れると腹が立つんだろう、ヒルが嵌められた理由はそれしかない」
「…………嵌められた」
投影画像が頭の中を駆け巡る。
潔白は間違いない。
それでも、コンスタンスとノーザンは言い張った。
「たとえ、冤罪だったから処分はなしだとしても、お前の女は次の手を打つ。今度は間違いなく殺されるだろうな。俺とヒルに媚薬を飲ませようと躍起になった給仕みたいに」
モルダーの言葉に、リチャードはアクアマリンの瞳を見開いた。
「…………え? 殺された? いったい誰が」
普段は後ろに流しているプラチナブロンドの髪が頬にぱらりと落ちる。
「……アビゲイルの給仕長、カルロスです」
それまで二人の会話を見守り続けていたホランドが口を開いた。
「今朝、捕らえられているヒルに俺は会いに行きました。その時、別れ際に教えてくれたのです。昨夜コンスタンス様の側仕えをしていながら行方不明になったドナは男に襲われ、そいつは最中に急死したと。それ以上聞き出す暇はありませんでしたが、アビゲイルの使用人を探ったところ、コンスタンス様がヒルとドナと三人で宴会場を退出したあたりから行方知れずだと」
暖炉の火に照らされる瞳を瞬かせながら、ホランドは続けた。
「そこから考えられるのは、ドナは報酬だったということです」
何の、とは今更言う必要はない。
さすがのリチャードも問うことはなかった。
「しかし、彼女は抵抗して……。おそらく、閃光弾をヒルがあらかじめドナに渡していた。それを作動させたから、ヒルはドナの居場所へ向かった。ところが行ってみると男は死んでいた。だから、ヒルはドナと死体を隠すためにそこをすぐに出て、およそ三時間戻らなかった」
「……やるねえ」
モルダーの賛辞が何に対してなのかはわからない。
とにかく、話の辻褄は合う。
……合ってしまった。
「そういう、ことか……」
両手を額に当ててリチャードは呻いた。
「それでも、お前は、まだ……」
「ああ。それでも、だ。すまない。すぐには、無理だ……」
自分でもわからない。
でも、手放す気になれなかった。
断罪すべきと解っていても。
「なら、ヒルを王宮が保護するのに異存はないな?」
近衛騎士は基本的に王宮内勤務。
そしてそこは、他国の男爵の養女という肩書を金で手に入れたコンスタンスには、決して入ることが許されない場所だった。
とりあえずは安全な場所だろう。
「…………。すまない。頼む」
リチャードは、モルダーに頭を深く下げた。
「ベージル・ヒルを、護ってくれ」
今更、彼に謝ることなどできない。
コンスタンスと別れられないなら尚更。
「了解した」
顔を上げると、鴉が自分を覗き込んでいることに気付く。
真っ黒な瞳に、やつれ果てた哀れな男の姿が映っていた。
「これが、俺か……」
虚しい思いだけが、胸に広がった。