月の光は、ただ
半月の淡い光が差し込む窓辺にコンスタンスは佇んでいた。
スリップ一枚に薄いガウンを軽く羽織り、裸足だったが暖房がきいているので寒くはない。
見下ろした外の景色は変わらず、不気味なほど静かだ。
鳥すら飛ばない。
「どうして……」
無意識のうちに親指の爪を噛みかけて、やめた。
悪い癖だ。
せっかく整えた爪がまたいびつな形になってしまう。
「奥様……」
背後から、強い腕に抱きしめられた。
うなじを生温かい息と湿ったものが這う。
「歯を……たてないで、ノーザン……」
ゆるゆると手を上げ、男の明るい茶色の髪を指先でゆっくりと撫でる。
「わかっています……」
囁きながら、彼の大きな手がコンスタンスの身体をうごめいた。
「おくさま……もう一度……」
顔を寄せてねだる男に薄く唇を開けて応えると、そのまま抱え上げられて窓辺に座らされる。
ノーザンの好きなようにさせながら、コンスタンスは頭の隅で考える。
ベージル・ヒルを落とし損ねたのは痛い。
当初の予定では、この旅行の間に彼を篭絡し直すつもりだった。
そのために滞在初日に親しくなった給仕たちに薬を仕込んだ飲み物を勧めるよう金を握らせていたが、この数日間いずれもうまくいかなかった上に、あの、ていたらく。
目論見が外れた。
初物が好きだと男が言うので、狩猟会最終日の夜にドナをさらって好きにしてよいと約束し、狩場も用意してやったのに、あろうことか何らかの返り討ちに遭った可能性が高く、ベージルが現場へ駆け付ける前に口封じをしたが、その後、一切の気配が消えた。
念のためにノーザンをいったん下へ確認に行かせたが、厨房のテーブルでモルドワインを作りかけた形跡は残っていたものの、無人だったという。
襲ったはずの男と、襲われたはずのドナと、助けに走ったはずのベージルが消えた。
ならば、あの給仕はドナの誘拐に成功したのだろう。
そして、ベージルは後を追って、遠くに行ってしまったに違いない。
そう結論付けたコンスタンスはノーザンとそのまま暖炉の前で愉しんだ。
先を焦った彼がワインの染みだらけのドレスを裂いて、あちこちに真珠が散らばった。
なかなか、良い感じだ。
ベージル・ヒルは、騎士としてはかなりの腕前らしい。
植民地で出会って今まで、彼は見回りに行っているかリチャードの護衛としてそばにいるだけで、これといった活躍を見たことがないのでぴんとこないが、身体つきに関しては素晴らしいと思う。
顔も精悍で美しく、護衛として侍らせて社交界へ出れば貴族の女たちは悔しがること間違いなしだった。
リチャードの側近たちの中で一番地位が低いのも都合が良かった。
乳母の息子という縁で召し抱えられているが血筋は平民すれすれ。ノーザンをはじめ出自に誇りを持っている騎士たちは彼がゴドリー伯爵家の団長であることに不満を持っていて、それこそがどちらも心理的に扱いやすい。
薬の力で事故を偽装し泣いて見せれば案の定、まるで姫君を守る騎士のように敬愛し仕えてくれていたというのに。
いつからか……。
ベージルが自分に対して距離を置き始めた。
それと呼応するように、なぜか執事のウィリアム・コールと侍従のヴァン・クラークの二人もどこかよそよそしくなっていくのを感じた。
侯爵夫婦の信頼も厚く有能で誠実なウィリアム。
物言いは粗野だが、時折優しくどこか品の良さが滲むヴァン。
リチャードの側近は享楽的で愛らしく華やかな美貌の秘書ライアン・ホランドも併せて全員麗しい容姿で、帝都の貴婦人たちには知れ渡っている。
彼らを侍らせば、どんな宝石を身に着けるよりも羨望の的になれるはずだった。
真面目で潔癖なウィリアムにはさすがに指一本触れていないが、平民暮らしの経験があった庶子のヴァンは頼りなげにうつむいて見せれば結構な頻度で関係を持っていたはずなのに、最近は仕事で忙しいと構ってくれない。
男を知り心もつかむには、身体を重ねるのが一番だ。
振る舞いと趣向は時と人によって違う。
本能だけになった瞬間、何もかもむき出しになるのが人間。
そして、男という生き物は欲望に弱い。
老いも若きも一皮むけば獣になり下がる。
今、このように。
いつリチャードが現れるかわからないのに、ノーザンは我を忘れてコンスタンスを貪っている。
そして、コンスタンス自身、抱かれている方が落ち着く。
男たちの手綱を握っている実感がわくからだ。
生まれも育ちも、そして骨の髄まで娼婦。
それがコンスタンスの武器なのだから。
ことが終わり、ようやくノーザンが離れて一息つく間もなく、人々の話声と足音がこの部屋へ向かってくるのが聞こえてきた。
おそらく、ビリヤードを楽しんだ後のリチャードと従僕たちが戻ってきたのだろう。
酒に酔っているのか、にぎやかに笑い交わしている。
「あ……。奥様……」
哀れなくらい慌てているノーザンの乱れた髪を優しく直してやりながら、しーっと囁く。
「大丈夫。貴方は、私の言った通りにすればいいの」
「は、はい……っ」
少し指先を震わせながらシャツをスラックスに入れベルトを締めるのを目の端に、暖炉の前の床に向かい、ぺたんと座った。
うつむいて顔を両手で覆うと、いかにも情事のあとの乱れた髪が背中に散る。
部屋の扉が開く直前、ノーザンは入り口に駆け付ける。
「リチャード様……! ちょうどよい所に……!」
ノーザンが先頭にいたリチャードにとりすがる。
「どうした、ノーザン。何があった」
「たった今、私がここへ奥様の様子を見に伺うと、奥様が……」
「何、どうしたのだ、コンスタンス!」
リチャードが数人の従僕たちと部屋の中に足を踏み入れると、床には真珠が散らばり、無残に裂かれたドレスが目に入る。
暖炉の前には、ようようガウンを羽織って泣き崩れているコンスタンス。
「コンスタンス……。いったい……」
下を向き肩を震わせ、ただただか細い嗚咽を上げるだけの妻をリチャードは床に膝をついて抱きしめた。
「ど、どうやら……」
躊躇いがちにノーザンが声をかける。
「なんだ」
「ベージル・ヒル騎士団長が……」
「ヒルが? どうしたと……」
リチャードは顔を上げてノーザンの視線の先をたどった。
ドレスに埋もれるように落ちていたのは、見覚えのある礼服。
つい数時間前に、これを着用していたのは……。
「……っ。ヒルはどこだ。どこに行った」
「わかりません。私は、宴の最中に……。その、はぐれたので」
瞳をきょろきょろさせながら、ノーザンはたどたどしく答える。
リチャードの体中を黒いものが走り、かあっと頭が沸騰しそうに熱くなった。
「従僕と騎士を集めろ。ヒルを見つけてここに連れて来い。すぐにだ」
「はっ!」
男たちはあたふたと部屋を出ていった。
「コニー……。一人にしてすまなかった。アビゲイルとの商談は明日でも構わなかったのに……」
リチャードは愛しい妻を座り込んで抱きしめ、黒髪に唇を落とす。
「リック…………」
腕の中の女は目を閉じたまま彼の胸板に頬を寄せ、満足げなため息をついた。
半月の光が、床に転がる大粒の真珠を冷たく照らす。