ハーンとヒル、そしてドナ
「あ、いきなりごめんね。改めて自己紹介すると僕はリド・ハーン・ラザノ、たぶん二十歳。妻はスカーレット・ラザノ第二魔導士団団長、おそらく二十八歳。とても強くて優しくて、とてもとてもかっこよくて、とてもとてもとても綺麗な人なんだ」
全身から幸せぶりがまるで閃光弾を起動させたときのように弾けて眩し過ぎる。
向かいに座るドナはあっけにとられて固まると、隣に座るヒルがぼそっと「新婚だ」と補足説明した。
「ええと、うち? と、おっしゃいますと……」
「うん。僕の家に来てもらいたいんだ。いずれ子守ができる人が必要になるんだよね。あ、奥さんは魔導士団最強だから、鉄壁の警備態勢で安心だよ」
「は? 子どもが生まれるのか?」
静観していたはずのヒルが割り込む。
「うん、たぶん、きっと? いや、絶対」
「それはどういう……」
「ええと、五日前の晩でしょうか。レティのお腹の中に降りた感じがして」
すこしうっとりと頬を染めて指折り数えるハーンに、ヒルは慌てて頭を下げた。
「ああ、分かったもういい。すまない。質問した俺が悪かった」
「というわけで」
ハーンは天使の微笑みを浮かべてドナへ求職営業の続行を繰り出す。
「来年にはレティに似た、すっごくかわいい男の子が生まれるんだ。でもレティは多分すぐに仕事復帰するから、僕が子育てするつもりだけれど、独りだと自信なくて困っていたんだ。君はすごく慣れているような感じだし、助けてくれると嬉しいな」
ハーンの周りに金の粉が舞い散っているような錯覚をドナとヒルは覚えた。
普通なら思い込みもほどほどにと笑い飛ばすところだが、彼の光輝く笑みを前にしたら否定する気持ちなんてものは跡形もなく消えてしまう。
「あ、住み込みでね。給料はゴドリー家の二倍以上出すよ、もちろん。スカラリーなんて安月給だったでしょう」
「ええと、たぶん。相場は分かりませんがまだ勤めてそんなに経っていないので……」
ドナは、食器と衣類洗いの住み込みで雇われてまだ数か月。
まださほどの稼ぎはない。
「実家への仕送りも、安心安全の魔導士庁経由でできちゃうよ。そうしたら、『奥様』にも君の生死はばれないし」
「あ……。そうでしたね」
ここにきて、現実が重くのしかかる。
「私、殺されるところだったのでしょうか」
ふるりと肩を震わすと、ヒルはゆっくりとドナの後頭部を撫でた。
「その件については、今はもう考えるな。確かに、ラザノ夫妻の元にいた方が君は安全だと思う。二人とも魔術の腕ならこの魔導士庁で最高だ。誰も危害を加えることはできない」
「そうそう。僕たちの家はね。悪意のある人はたどり着けないんだ。街に出かける時は保護魔法をかけるし、護衛をつけるよ」
「そんな好待遇……。私なんかが受けて良いのでしょうか」
ほんの少し前までしたたかに殴られ、弄ばれて売られる覚悟をしていた。
それなのに、今はこうしてホットチョコレートの香りに包まれている。
更に明るい未来の話を聞けるとは、ドナは信じがたい思いだった。
「うん。だって、僕が君に来てもらいたいんだもの。それにね。ヒル団長も君に関わってしまったことだし、これはもう必然というやつじゃないかな?」
「ドナ。俺が君を連れてここへ転移した理由は、あの女が何をするかわからなかったからだ。とんだ災難だが、ひとまず彼の保護下にいてもらえないだろうか。そうすれば、俺は安心して戻ることができる」
「え……? 本気で、あんなところへ戻るのですか」
せっかく温まってきたドナの身体が一気に冷える。
しかし、ヒルは変わらぬ表情で軽くうなずいた。
「ああ。決着をつけねばならないことがあるからな。それに、まだこちらの手の内はなるべく知られない方が良い」
コンスタンスがどのくらい別邸とそれに関わることをかぎつけているかはわからない。
全く気付いていないかもしれないし、全てわかったうえで執拗にヒルを誘ったのかもしれない。
それを確認する必要があると、ヒルは思った。
たとえ、多少危険な事態になったとしても。
「まあ、急に何もかも決められないだろう。魔導士庁で保護されている間にゆっくり考えてくれ。俺はそろそろ行くことにする。ハーン。食事をありがとう。すまないがあちらへ転移されてくれないか」
「あ、はい。でも、ちょっと待ってください」
ぱたぱたと執務机へ走り、引き出しから銀細工の輪を持って戻ってくる。
「失礼しますよ。どちらかの足を出してください」
床に膝をついて、前に出されたヒルの右の足首に銀の輪を装着した。
「これは?」
「うん、まず、視覚阻害かけていてこの足輪は他人には見えないから安心してくださいね。夜盗に裸に剥かれても、これだけは盗られない」
ふふ、と無邪気に笑いながら恐ろしいことを口にする。
「……なるほど。それで?」
「それで、ヘレナ様の指輪ほどじゃないけれど、ゴーレムの護りと火の鳥の身体強化、あと軽度の治癒魔法とさっきの術符並みの転移魔法が何回か使えるようにしてあります。ピンチをチャンスに変えるなんて、ヒル団長なら得意ですよね」
「治癒魔法はどの程度まで使えるか? 例えば腹をえぐられる程度は回復可能だろうか?」
「はい、首と胴体が別々にならない限りは……。最悪いったん心臓が止まっても、数分後に息を吹き返す術がかかっています」
とてつもない重症の場合、それは死んだほうがましな苦痛を伴うであろうことは想像がつく。
しかし、生きてさえいればなんとかなる。
ヒルはそう思った。
「わかった。とても助かる。ありがとう。俺たちを助けてくれただけではなく、こうして魔道具まで貸してくれて」
「いえ。僕はただ……。そうですね。ヘレナ様の喜ぶことがしたいだけです」
「そうか。恩に着る」
「あ、そうだ。ヘレナ様の細工を何か持っていますか?」
「ああ。これのことか?」
ヒルはスラックスのポケットからハンカチを出した。
リド・ハーンとラザノの結婚式の時にヘレナから渡されたものだ。
以来、なんとなく常に持ち歩いている。
「ちょっと拝見しますね」
さっと広げて四方の縫い目と刺繍を確認する。
細かい縫い目が整然と並び、女性的にならないように気配りされたモチーフが散らされていた。
シエルとハーンが貰ったのは、誰か、たまたまであった親切な人へのお礼のために作られたもの。
しかし、このハンカチはベージル・ヒルただ一人のためのもの。
「……うん。この時点で使えるだけの材料で作られたのですね。刺繍もヒル団長のものが施されているから……。何があっても最悪の事態にはなりません」
魔導士庁へドナとヒルがなんとか無事にたどり着いたのも、このハンカチの加護に違いないとハーンは思った。
「……そうか。今度会った時に礼を言わねばな」
ハーンが丁寧に畳んで返したハンカチをポケットにしまう。
「では、お送りしましょうか。場所はヒル団長が飛んだ場所から少し離れた森の中にしますね」
二人はテーブルとドナから離れ、部屋の隅の空いた空間に立つ。
「ああ。上等だ」
あの場を離れて数時間経過し、日付も変わってしまった。
その間に、どうなったか。
どうせろくな展開になっていないだろうと知りつつも、ヒルは赴く。
戦場で敵に囲まれた時よりはるかにましだ。
ハーンの魔法に全身を包まれた瞬間、うっすらと不敵な笑みを浮かべた。
「……よし。完了」
ハーンが前に突き出していた両手をおろすと、部屋の中に静寂が戻った。
ドナは間近で見る高等魔法に驚き、声を失ったようだ。
目を丸くしたまま固まっている。
「……ヘレナ様の件、言いそびれたけれど、その方が良いよね」
こんな時になぜシエルが魔導士庁にいなかったのか。
そして、『新婚』のはずのハーンが泊まり込みで魔導士庁にいたのか。
五日間の昏睡状態から目覚めたばかりの少女のことを知れば、ヒルは居ても立っても居られないだろう。
その逆もまた。
「無事に戻ってきてくださいよ、ベージル・ヒル……」
全ては、ヘレナ・リー・ストラザーンのために。