駆け付けた先は
薄暗い使用人用の階段を、ヒルは壁に手を這わせながらほぼ勘を頼りに駆け降りた。
手渡した閃光弾が発動したということは、あのドナという侍女に何か危険が及んだということ。
やはり独りで行かせるのではなかった。
後悔したところでもう遅い。
地下に降り立ち、廊下に入ったところで厨房から灯りが漏れているのが目に入る。
彼女は、カンテラを持って行っていた。
「ドナ!」
部屋の中へ飛び込んで言葉を失う。
裂かれた服の胸元を片手でかき寄せ、もう一方の手にはナイフを握りしめて厨房の隅の壁を背に立つドナがいた。
きちんと結い上げられていたはずの茶色の髪は乱れ、顔には涙と殴られたであろう跡がはっきりとし、口からは血がこぼれていた。
「…………。だ、だん、ちょう……」
カラン、とナイフが床に落ちる音がして、ずるずると壁で頭と背中をすりながら座り込む。
「あ、あの……。あの男が……」
彼女の視線をたどると、作業台の近くに男の足が転がっているのが見える。
気を失っているのか、もしくは。
近づいて見下ろすと、目を大きく見開いたままうつぶせに倒れている男がいた。
表情から触れるまでもなく、すでに絶命しているのがわかる。
口と鼻から大量の血が出て、床に黒い染みを作っていた。
しかし、ドナの手にしているナイフは汚れていない。
ということは、彼女が刺したわけではないのは明白だ。
「来るのが遅れてすまない。…………何があった」
床に膝をつき、くん、と遺体の口元を匂ってみた。
ありきたりなアルコール臭くらいしかしない。
「わ、わかりません……。お、襲われて、あの珠が弾けて、ひ、光がぱあって出たら、目が痛いって、怒って……。でも、目が見えていないみたいだからなんとか離れた途端、急に血を吐いて……死にました」
遺体のそばに転がる大きな麻袋。
最初からさらう目的でここへ忍び込んだのか。
この男は見覚えがある。
宴会で一番最初にワインを勧めてきた給仕だ。
「そうか」
ヒルは戸棚を開けてテーブルクロスを取り出し、ドナの身体にかけてやる。
「とりあえずこれを身体に巻いてくれ。ここを出るぞ」
「は、はい……」
彼女がクロスを肩にかけている間にヒルは遺体をその麻袋に詰めて口を縛る。
「どう……、なさるのですか?」
「ドナ。悪いが私物は諦めてくれ」
「え?」
「多分、君が襲われるのは最初から仕組まれていた。こいつが死んだ以上、ここにいては危険だ。君を行方不明として処理されるようにしたい」
「……はい」
麻袋を肩に担いで立ち上がったヒルに、一瞬驚いたような顔をしたが、こくりと頷いた。
「こんなことの後で嫌だろうが、生きるためだ。こちらに来て俺の腰に両手を回して掴まってくれ」
「ええっ?」
「転移魔法で今から飛びたい」
空いた手で、ヒルはスラックスのポケットの奥を探った。
引っ張り出したのは、小さく折りたたまれた紙片。
それはもしものために渡されていた術符だった。
まさか使うことになろうとは。
「すまない、両手がふさがっているから。これを使って安全な場所へ行こう」
片手でぱらりと術符を開いて見せる。
「あ……はい。わ、わかり……ました」
ドナは立ち上がって小走りに駆け寄ると、おずおずと両手を広げてヒルの腰に手を回す。
「もっとしっかりと掴まってくれ。それと空間が歪むから、目を閉じた方が楽だと思う」
「はい」
目をきつく閉じてドナはしがみついた。
幼さの残るそばかす顔に、ふと別の少女を思いだす。
「よし、いい子だ。いくぞ」
頭をぽんと軽く撫でて術符の端を口にくわえる。
『転移』
軽く目を閉じ、心の中で移転先をイメージしながら、手と口を使って術符を裂いた。
ぐるんぐるんと大きく宙がえりをしたような感覚を耐えて、肩に担いだ麻袋と腰に掴まるドナの肩に回した手の力を強める。
「…………くっ」
深い、水の中に落ちていくような感覚。
あの術符は多分、一人、もしくはぎりぎり二人の転送が定員だったのではないか。
ヒル自身、あまり転送魔法を利用したことがない上に、今回は魔導士の付き添いなしの自力転移。
不安だらけだ。
ほんの一瞬のことかもしれないが、魔空間に滞在している時間を長く感じた。
ふっと全ての負荷がなくなった時。
「…………はっ……」
両足が、確かなものを踏みしめていた。
「はあ―――」
左手にドナ、右手に遺体を抱えたまま、冷たい石の床に膝を落として座り込み、ヒルは思いっきり息をついた。
「あれ。こんばんは、ヒル団長。どうしたのですか。物騒な感じですね?」
のほほんとした声が頭上から降りてきた。
「……あんたの術符……」
うっそりとヒルは顔を上げる。
「助かったけど、滅茶苦茶酔った」
「あれ? どこか間違えたかな、ぼく」
ふわふわのひよこのような金髪頭をこてんと青年は傾けた。
「まあ、なんにせよ。ご無事でなにより、ベージル・ヒル様。そして侍女様」
聖堂に飾られた天使像のような清らかな美貌に、ドナはヒルにしがみついたまま口をぽかんと開ける。
「あの……ここは……」
「ああ、申し遅れました。僕はリド・ハーン・ラザノ。魔導士です。そして――」
アクアマリンの瞳を細めて天使は微笑む。
「魔導士庁、奥の院へようこそ。ホットチョコレートはお好きですか?」




