ワインの染み
「ワインはいかがでしょうか」
「いや、今はいい」
ヒルが即座に断ると、話しかけた給仕は一礼し、なみなみと赤ワインの注がれたグラスを載せた銀の盆を手にしたまま去っていく。
『あの夜』以来、酒を断つよう己に課してきた。
王宮での乾杯など避けられない場面以外で口にしたことはない。
そしてこの狩猟会の会場ではとくに摂取しないよう注意している。
自分は、この会場全体を覆う妙に浮ついた雰囲気にどうしても馴染めず、常に気を張った状態のままで疲れだけがたまっていく。
「なんだかな……」
最初はなぜこれほど大人数で旅に出るのか不思議だったが、到着して間もなく謎は解けた。
最上位の客待遇であることを示す以上に、催しの花を添えることが目的だったのだ。
コンスタンスからの指示で、自分を含め同行した騎士と侍従たちは狩猟に出ていない時は茶会や昼食会に出席し、女性たちをもてなすことを求められた。
出立前に礼装を持参しているか侍女長が何度も確認したのは、これが当初からの目論見だったのだとヒルは内心盛大にため息をついた。
多くの者は華やかな場で女性たちと関われることに喜び、積極的に繰り出していった。
彼らのほとんどは独身で、これを機に良縁に恵まれるかもしれないと思っているようだが、貴族社会はそんなに甘いものではない。
私立騎士団に所属する騎士の多くは平民もしくは貴族跡継ぎ候補から外れた者ばかり。
それに対し、この狩猟会に招かれている婦女子たちはそれなりの地位か財産のある家門で、彼女たちは結婚相手を求めてここに来たのではない。
つまり自分たちに課せられた役割は、『淡い記憶に残る甘い恋のお相手』。
思わせぶりな会話。
軽いふれあい。
跪いて指先に唇を落とし、彼女たちの自尊心をたっぷりと満足させろということなのだろう。
あとで手当てを出すと伯爵夫人から言われたが、なんやかやと口実を作っては警護の方へ回った。
しかしそれも長くは続かず、侍女長にせっつかれ仕方なく出席したお茶会でメインテーブルの様子を垣間見ると、アビゲイル伯爵夫人とコンスタンスはすっかり意気投合して同席している婦人たちも盛り上がっていた。
アビゲイル伯爵夫妻は様々な宴を開催し顔が広いが、その実は仮面舞踏会など一夜の恋を演出するのを特に好む。
貴族としてのふるまいから逸脱しないならば軽い遊びは全く問題なく、むしろ『嗜み』だという考えだ。
それ故に、リチャードとコンスタンスの関係には最初から肯定の姿勢を示していた。
理由は二つある。
騎士団においては将軍であり、国の重鎮のゴドリー侯爵の嫡子であるリチャードとは親しくしておいた方が良いという打算。
それと、コンスタンスの容貌は「元高級娼婦だが貴族の落とし胤に違いない」という触れ込みをあながち嘘ではないのではと思わせるほど美しく品があり、『真実の愛』を貫く確率は高いという目算。
何度かリチャードのパートナーとして現れた夜会において、所作も物言いも基本的には問題なく、貴婦人たちの輪にうまく溶け込んでいる。
なんといっても、リチャードがコンスタンスを溺愛しているのは誰の目にも明らか。
既に他国ではあるが貴族の籍に入っている彼女が、デビュタント経験なしでほとんどの貴族の面識がない暫定妻の後釜に座る日もそう遠くないと推測し、このまだ立場が微妙なうちに親密になることにより、後日多大な見返りを期待しているのだろう。
「こちらのシャンパンはいかがでしょうか」
振り向くと今度は別の給仕が寄ってきて、薄く紅色に染まった液体をたたえたフルートグラスを見せる。
「……いや、今は喉が渇いていないので」
ヒルがしっかりと目を見て断ると、またもや曖昧に微笑みながら丁寧に頭を下げて去っていく。
これで何人の給仕に酒を進められただろうか。
そのたびに同じ問答を繰り返した。
「…………」
酒を断るたびに、どこからか妙な視線を感じる。
「やはりな」
どの酒にも仕込みがあったか。
口をつけなくて正解だったと胸をなでおろすが、時間の潰しようがない。
おそらく、人気のない場所にいけば旺盛な女性が飛んできて別室もしくは庭の茂みのどこかに連れ込まれ、酒宴の真っただ中に立つときらびやかなドレス集団に囲まれる。
モルダーとは今回はあまり親しくないふりをしておこうと打ち合わせをしたので、近寄るわけにはいかない。
ちなみに、ホランドはさきほどアビゲイル伯爵夫人と連れ立ってどこかへ消えた。
コンスタンスは予想通りに狩猟会の女王となり、一段上がったところにある豪華なテーブルで彼女に好意を持つ貴族たちに囲まれ談笑している。
彼女をエスコートして注目を浴びたリチャードは、酒宴がひと段落している今アビゲイル伯爵たちとビリヤード室で当主同士の談話を楽しんでいるはずだ。
本当は主の警護につくつもりだったが、断られてしまった。
リチャードは狩猟会終了の今夜の酒宴を無礼講とし、自分を含めゴドリー家の使用人全員休暇扱いで羽を伸ばすと良いと宣言した。
それを聞くなり全員嬉々として着飾り、酒宴をすっかり楽しんでいる。
実を言うと、この同伴組とは微妙な間柄だ。
侍女長以外はこの二年の間に新規採用された者ばかり。
彼らの見目は揃いも揃って良く華やかだ。
しかしどこか浮ついたところがあって会話がかみ合わず、どうにも気が合わない。
騎士たちも帝都勤めの私兵とあっては腕を磨くことを早々に放棄して身だしなみにこだわるようになり、主人の装飾品に徹していた。
とくに副団長は伯爵家の四男で、自分より爵位が下のヒルが団長であることに常々不満をちらつかせ、リチャードの目の届かない時は何かと絡んでは突っかかる。
たかだか末席男爵の四男が、亡き乳母の息子だという繋がりをかさに着て団長の座に座っていることが気に食わないらしい。
今はそれこそコンスタンスに侍る信奉者たちの輪に副団長は入っており、ちらりちらりと優越感に満ちた視線をヒルに送ってくる。
もちろん他の騎士たちも似たようなもので、女主に呼びつけられればいつでもつま先に口づけんばかりの状態だ。
異常だろう。
そう思うのは自分一人のみ。
ようするにこの一週間余り、ずっとこの居場所のない世界で苦行を積んでいる。
正直、転移魔法でも使って今すぐ帰りたい。
ため息をかみ殺し、視線を巡らせ安全な場所を探そうとしたその時。
「ベージル・ヒル」
甘くて、高い声が耳に届く。
宴もたけなわで酔った人々の起こすざわめきは大きくなり、けっこうな距離があるにもかかわらず、女王の言葉はヒルが聞こえないふりを装うことを許さないほどはっきりしていた。
「……はい」
身体ごと振り向くと、白などの淡い色を基調としたドレスの胸元を不自然に赤く染めたコンスタンスがうっすらと笑っていた。
「酔って粗相をしてしまったの。ドレスを着替えたいから部屋まで案内して頂戴」
今夜のドレスも国一番のデザイナーが仕立てたもの。
真珠と複雑なレースがたくさん縫い付けられ、未来の侯爵夫人だからこそ身に着けられる高価な衣装だとすれ違った令嬢たちがうらやましそうにため息をついていたのを覚えている。
それを、彼女は。
「はい。承知しました」
一つ頷き、ヒルは壇上に向かって歩く。
唯一今夜の任を解かれていない付き添いの侍女が真っ青を通り越して白くなった顔色のまま、ショールをヒルに手渡す。
「失礼します」
細心の注意を払いコンスタンスの肩にショールをかけてドレスに広がる赤ワインを隠してから、手を差し出した。
「どうぞこちらへ。コンスタンス様」
「ありがとう、ヒル」
妖艶な笑みが広がる。




