今日は焼き林檎
「今日は焼き林檎だよ」
勢いよく扉が開き、手早くテーブルに並べてくれた。
白いスープ皿の真ん中にしっかり火を通された林檎がどしりと鎮座し、少量のはちみつを混ぜて攪拌されたマスカルポーネのクリームがたっぷりと添えられていて、昼食を食べ終えたばかりなのに食欲をそそる。
青リンゴの芯に詰められたシナモンとバターとレーズン、そして果実の甘酸っぱい香りと砂糖の焼けた匂いが食堂に広がった。
「うわ、最高。ミカ、ありがとう」
焼きたての林檎にヘレナは歓声を上げる。
「さ、熱いうちにおあがり」
ミカに促され、ヘレナとクラークは林檎にナイフを入れる。
半透明の果肉を切り開いた途端にとろりと流れ出すバターとラム酒の香り。
レーズンと一緒にごろりとクルミが転がり出てきた。
「・・・本邸でもこんなのは食べたことないな。なんだこの恐ろしい旨さは」
クリームをつけた果実を口に運んで咀嚼した後、クラークはうなる。
「ははは。スミス家の家訓だよ。生き物はみんな胃袋からってね」
「なるほどな。マーサさんの料理もうまかったし」
ミカが休暇を取る時はマーサが代わりを務めているため、クラークたちはすっかり顔なじみだ。
「いや、そう素直に納得されると気持ち悪いな。悪かった、冗談だ。単純にうちらは食いしん坊なだけだよ」
「なんだそれは・・・」
ミカとクラークのかけあいをバックに、ヘレナは皿の中の宝珠を堪能した。
「ところで、いよいよまずいんじゃない?このお屋敷の事情」
紅茶を淹れ直しながらミカが口火を切る。
「あんたのご主人様はコンスタンス様にすっかり骨抜き…というか、中毒だよね。しかも使用人で信用できるのは一人もいない。バーナードさんが生き延びたのは奇跡だよ」
バーナード叔父の衰弱と家政の乱れに関しては、コンスタンスが絡んでいるかどうかは分からない。
しかし、ヘレナを虐待し別邸に軟禁した件はどう考えても彼女が黒幕だ。
その見解は、ミカたちの間で確定している。
「そうだな。敵軍に囲まれていた二年前のほうが今よりよっぽどマシだと思う」
物騒な話を聞きながら、ヘレナはストーブの前にペタリと座って寝そべっているパールの背中を撫でていると、真っ白な毛皮の上でまどろんでいたネロが降りてきて膝に乗った。
「あの。侯爵様はどの程度ご存じなのですか」
「おそらく全然。諸国周遊中だしな。執事がバーナードからウィリアムへ、侍女長がイーラからヨアンナへ変わったことをゴドリー侯爵家の家令には連絡したが、その件について折り返し詳細を尋ねられたりはしなかった。まさか他の使用人たちも総ざらいしているとは思わないだろうし」
「そこ、報告としてわりと重要だと思うけどね・・・」
そもそも現ゴドリー侯爵のベンホルム・ゴドリーは次男で家督を継ぐはずではなかった。
跡取りのないまま当主である兄が急死し、次弟のベンホルム伯が繰り上がり、ひとり息子のリチャードが伯爵家を継いだ。
ようはこの本邸の使用人たちはみなベンホルム夫妻にとって、長い年月を共にした家族のような存在。
その八割以上が自主退職し、さらに行方もわからない。
あってはならないことだ。
「今は俺もそう思うさ。だが・・・」
「ちょっと前まで何とも思わなかったとか?」
「そうだ。恐ろしいことにな」
しんと重い沈黙が降りる。
「・・・あんた。殺されるね」
「は?」
「どっちが先かな。ベンホルム・ゴドリー侯爵かリチャード・ゴドリー伯爵か」
「おい、縁起でもないことを・・・」
「どっちでも地獄だよあんた。息子の嫁と何度も寝て骨抜きなのがばれて打ち首か・・・もしくは」
「もしくは、駒としてもう使えないことに気付かれた場合・・・」
ミカの続きをいきなりヘレナが紡いだ。
「そちらの方が危ないですね、クラーク卿」
ぱふ、とうつぶせ寝のパールの背中に身体を預け、視線だけクラークたちに向ける。
「侯爵家からの制裁は重くてせいぜい失職の上養子先を離籍させられて平民に落とされる程度でしょうけれど、リチャード様がらみの方はいつ裸に剥かれて川に浮かんでもおかしくない」
「・・・あんたも言うな」
「あれから、コンスタンス様からのお誘いってありました?」
ヘレナの言う『あれ』とは、この食堂でミカにコンスタンスとの関係を看破された時のことだが、クラークには伝わったらしく、即答された。
「何度かあった。だが、躱した」
「き、勤勉・・・」
対して長くない日々の中で、何度もクラークに誘いをかけていたとは。
コンスタンスのプロ根性に脱帽だ。
「うーん。そうなると・・・。今となってはそれが逆に命とりかもしれませんね」
ヘレナは頬でパールの柔らかな白毛を堪能し、膝の上のネロのつやつやな黒毛を手のひらで撫でながら考える。
二匹の毛皮の心地よさにうっとりと目を細めた。
「だよねえ」
女二人のどこか他人事の会話にクラークはぴくりと眉を上げる。
「は?あの時俺に説教したのはおまえたちだろうが」
「説教したのはアタシね。ヘレナは拝聴しつつアンタの尻軽ぶりを軽蔑していただけ」
「ぐ・・・」
ミカの口撃をくらい、クラークは胸に手を当てた。
「なんだろうね。あんたのその生まれと見た目のわりにめちゃくちゃ単純で隙だらけな所は美点だと思うんだけどさ。ギャップ萌えっていうの?でも今はマズいんだよ、それが。あの女の件で、ヘレナと関わるようになったあたりから急に距離を置きだしたらそりゃ、色々バレると思うんだよね、アタシたちは」
たんたんと指でテーブルを叩きながらミカは指摘する。
「それでどうしろと・・・」
「帰宅したコンスタンス様をなるべく満足のいくようにもてなすしかないかな。ただ、歓待しすぎると逆に読まれるだろうから、ほどほどに」
「ほどほどにとは」
「うーん。キスくらい許してやれば?と思うけど、場合によっては嵌められる可能性も無きにしも非ずだね」
コンスタンスが自分をはじめほとんどの男性使用人たちを身体で制圧したことを知って以来、彼女の全てが生理的に受け付けなくなった。
甘ったるい声。
ねっとりと強い香水。
絡みつくような視線。
多忙なふりをして避け続けたが、丸見えだろう。
クラークの心の底に根を張った嫌悪の情が。
「・・・やっては見るが、俺は大根役者もいいとこだ」
本当は、指一本触れられたくない。
「やるんだよ。命かかってるからね。場合によってはコールさんたちも巻き添えになるんだからさ」
大人になれと、俳優になれと、諭された。
間違えれば、奈落の底に真っ逆さまに落ちる。
がけっぷちにいるのだ、自分は。
「・・・善処する」
「ああ。死ぬ気で頑張りな」
クラークを激励したところで、ミカはちらりと視線を外す。
「さて。ヘレナが寝付いてくれたことだし、解散しようか」
ストーブの前では小さな少女がフェンリル犬の毛皮に埋もれて眠っていた。
本当は、まだ本調子ではなかったのだろう。
「今日は、あんたにお嬢様を寝室に運ぶ権利を上げるよ。現状把握にちょうどいいしね」
くいっと顎で示されて、クラークはヘレナの傍らに膝をついた。
パールもネロも彼の気配にゆっくりと目を開き、様子をうかがっている。
「・・・あんたらのご主人様を運ばせてもらうよ」
黒猫は大きなあくびを一つしてヘレナの膝から降りた。
白犬は瞼をくいっと上げて上目遣いにクラークを見つめる。
「よっ・・・と」
背中と膝裏に腕を回して抱え、立ち上がりながら驚く。
「・・・小さいな」
たった数日で二年分くらい大きくなったはずなのに。
軽くて、細い。
「そうだよ。それがヘレナだ」
ミカが先に立ち扉を開けると、パールとネロはすいっとクラークの先を歩いた。
彼らはお供するつもりらしい。
「小さすぎて、怖いくらいだ」
無邪気な寝顔。
子どものような浅い造作の小さな顔。
呼吸のたびにかすかに上下する身体。
腕の中の命に、恐れを感じてしまった。
「じゃ、よろしくね」
「ああ」
先導するミカの背中を追いながら、クラークは少女のつむじに唇を落とした。