ネロ、渾身の一撃
夢の中の出来事を洗いざらい話したシエルは物憂げにため息をつく。
「前から貴方のお母様の出身であるカドゥーレのことが気になっていました。しかし集落の人々に直接尋ねたところできっと答えられないでしょうから、ここからは推測です」
ヘレナがこん睡状態に陥った後、彼はハーンとカドゥーレについて秘密裏に調べて回った。
その間、ミカとネロとパールがヘレナの側につきっきりで、交代要員としてミカの母であるマーサも駆り出されていたらしい。
またもや多くの人の世話になってしまったことをヘレナは申し訳なく思った。
「おそらくカドゥーレの民は中央の権力者たちに長年使い捨てされ続けていたのではないでしょうか」
領主や教会によって施行法はまちまちだが、この国では十歳前後の頃に魔力の検査が行われ、記録される。
しかし、この百年余りカドゥーレにおいて能力の高い子供を見出されていない。
いずれも微弱魔法か皆無。
古い記述をたどれば、数百年前には聖女を多く輩出し、秘境の聖地と称され大聖女降臨伝説まで存在するにもかかわらずだ。
しかし二百年あまり前の聖女協会の台帳を閲覧して気づいたことがある。
中央へ召し上げられた聖女たちはいずれも下級の使用人扱いで数年もしないうちに様々な理由で除籍された上に、その後の足取りが消えていた。
故郷に帰る事すら許されず、存在そのものを消された可能性が高い。
しかし、今回シエルたちが介入するまで誰かが調査した形跡は皆無。
つまりは辺境の民に権力者たちと戦うすべなどなく、泣き寝入りが長く続いたということだ。
「その悲劇を繰り返さないためにいつからか自衛を覚えたということだと思います。その一つが外界には『生活魔法程度の能力しかない』と思われるように、親が早いうちに子どもの能力封じを行う慣習ができた」
ヘレナの母であるルイズ・ショアも故郷で習った作法を生まれた子供たちに施した。
全てを封じることもできたが、時には心身にゆがみが生じる危険があり、さらに夫を取り巻く環境から『もしも』の時のための切り札は必要だと考え、一部を残すことにしたのだろう。
熟考の末、ヘレナは生活魔法とカドゥーレの女性特有の裁縫の力、クリスは戦闘や身体能力増強を中心としたもの。
魔力量が多いと目を付けられるので『少し』に設定した。
それらを『糸』で封じ、なんらかのトリガーで適宜開放される仕組みだった。
「あの夜の夢の中で、そのトリガーに私とネロが触れてしまったのでしょう。ただ、ネロがあれから何も教えてくれないので、あくまでも推測の域でしかないのですが」
ちらりとシエルがネロに視線をやるが、彼は熱心に前足の肉球をじゅぶじゅぶと舐めている。
話の最中に大きな耳はくりくりと動いていたので、聞いてはいるがシエルを助ける気はない、ということだろう。
「・・・母は、どうして何も言ってくれなかったのでしょう」
呆然とヘレナがつぶやいた。
「一つは、『ご学友』に漏れる危険性があったからでしょう。カドゥーレの秘密がよそに漏れた場合・・・」
「大変なことになりますね。私はまだ十二歳でしたし」
「そうです。彼らがそれをネタに金を手にする可能性がありました。本来ならば能力もそのままで、一生知らないままが良いと思っていらしたかもしれませんが、そういうわけにもいかなくなった」
「・・・ですねえ」
この数か月で事態が急変した。
過去にもそれなりに危ない目にあったつもりではあるが、今の方がずっと複雑で何が起こるかわからない。
「私が思うに、今回の件はネロとシエル様のせいではないと思うのですよね。生え変わる直前の歯のようにすでにトリガーはぐらぐらだったのではないでしょうか」
色々なことが積み重なって、とうとう一つ目の糸が切れた。
それだけのことだろう。
「なんにせよ、私のこの状態、皆さん驚かれるでしょうね」
ほんの五日で長く伸びた髪を両手で掴んでため息をつく。
自分ですらどうかと思うのだ。
しかもまだ身体は成長し続けているのか、なんとなく節々がまだうずく。
「たしかに、ちょっとびっくりするかもねえ」
ミカが相槌を打ったところで馬の蹄の音が聞こえてきた。
「あれは執事さんだな」
耳ざとい彼女はさっさと席を立ち、出迎えるために部屋を出ていく。
彼女のにぎやかな声が聞こえ、明るい調子にほっと息をついた。
あの様子なら、コール叔父甥の状況は良い方向へ向かっているのだろう。
「そろそろお疲れではありませんか」
見上げるといつの間にかシエルが傍らに立ち、いたわるようにショールを肩にかけてくれた。
「ありがとうございます。夢の中でも、そのあとも。シエル様がいらっしゃらなかったらどうなっていたことか」
こうべを垂れると、ぱらりと前髪が落ちていく。
「お顔を上げてください、ヘレナ様。私は多くのことを知っているつもりでしたが、そうではないことを今回思い知りました」
彼の苦しげな声に、視線を上げた。
「私の浅慮で貴方を危険にさらしてしまったことを思うと、身の縮む思いです」
シエルは手を伸ばして繊細な指先でヘレナの髪をかき上げ、濃紺に染まる瞳を瞬かせる。
「いいえ。シエル様とハーン様は知り合って以来、私をたくさん助けてくださいました。せっかく魔導士庁へ所属されたのに、これでは・・・」
ずいぶん前から気になっていた。
彼らはヘレナに関することに多くの時間を割きすぎている。
魔導士庁職員として勤務怠慢の咎めを受けるのではないかと。
「ああ・・・。そういえばきちんとお話していませんでしたね。ところで、ここに座っても宜しいですか?」
シエルが手で指し示したのはヘレナの膝のあたりのベッドのへり。
「もちろんです。どうぞ」
「ありがとうございます。失礼します」
一礼したのち彼は軽く腰掛け、ヘレナと向き合う。
正直、背の高い彼を見上げ続けるのがつらくなってきていたのでありがたい。
とはいえ、それでも彼の顔は高い位置にあるが。
ただ、ネロはなにかが不満なのか、右の前足を振りかぶってはぱしぱしと彼の膝を叩いている。
「まずご懸念のことですが、ヘレナ様に関することは魔導士庁において業務内であると早い段階で決まっていました」
「は」
一個人にかまけることが仕事のうちとは、いったい何が起きているのか。
ヘレナには到底理解できない。
「ご存じの通り、魔導士庁はストラザーン伯爵家とのご縁を大切したいのです。決して追従しているわけではなく、知識や人脈など得ることが多いからです。そのような事情から私たちは半分あちらに所属しているような感じになっています。御用聞き窓口というか。派遣されているというか・・・」
「ごようききまどぐち」
追従しているわけではないと言った口で。
「それに、まあ・・・。その。ここの敷地を勝手にじわじわと占拠し魔塔の出張所及び魔改造実験場とさせて頂いておりますし・・・」
そこは、自覚アリだったのか。
そんな気がしていたが、やはり確信犯だった。
「さらに言うなら、実践と修練の面でも学ぶだけでは決して考えられないことが次々と起こり、魔導士庁関係者一同、全面協力を惜しまないが一番と・・・」
魔道の研究者たちとは、『そういう人』ばかりなのだろうか。
でも、助かっているのは事実。
心強いことには変わりない。
「・・・ええと。本邸にバレなければ、もう、持ちつ持たれつでありがたいです」
いのちだいじ。
いきてなんぼ。
心の中で長年の呪文を唱える。
「ありがとうございます。ヘレナ様本人にきちんと許可をとらず申し訳ありません」
「いえ。許可も何も・・・。何もかも、私に都合の良いことばかりです」
首を振ると、シエルはほろりとほどけるように笑った。
「そう言って頂けると、とても嬉しいです」
つられてヘレナも温かな気持ちになり、自然と唇がほころぶ。
「ヘレナ様」
「はい」
シエルがゆっくりと長身の身体を軽くかがめて顔を寄せてくる。
何か密かな話があるのかとヘレナは待った。
近づいてくる彼の顔はずいぶんと見慣れたはずだが、整いすぎていてまるで絵本に描かれている精霊のようだ。
濃灰色の髪は司祭時代の偽装の名残なのか不揃いに伸ばされ、前髪も目元にかかるほどほどであるにもかかわらず、美貌が損なわれることはなく、むしろ野性味が少し足されようやく人間味を帯びる。
ぼんやりと差し出された彼の長い指を見つめていると、肩に流れるヘレナの黒髪をひと房、救い上げられた。
「ヘレナ様」
シエルは手にしたヘレナの髪にゆっくりと口づけた。
「私にとって、こうして貴方の傍にいられるのは、何よりの幸いです」
ラピスラズリの瞳で上目遣いに見つめられ、ヘレナは石と化した。
なんか、近い。
声も、なんか甘いような。
いつになく。
いったいどうした、サイモン・シエル。
「・・・あの」
その瞬間、寝室の扉が勢いよく開く。
「あーっ。シエルさん、それ以上は禁止ね。ヘレナはそれでも一応、人妻だから」
仁王立ちでびしっとシエルを指さすミカの後ろで、荷物を抱えたウィリアム・コールが目を丸くしていた。
その驚愕はどっちだ。
この微妙な状況か、それともヘレナの形態変化か。
「うわ、痛・・・っ」
シエルが小さく声を上げた。
「びーやう」
低い唸りがヘレナの耳に届く。
ネロの繰り出した渾身の一撃が、サイモン・シエルのローブに包まれた膝にぷすりと刺さっていた。