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執事であること



「・・・ウィル」


 少しかすれ気味の声で、彼は、甥の愛称を口にした。

 緩慢な瞬きを繰り返しながらも黒い瞳は、しかとウィリアムを見つめている。


「叔父上。お加減はいかがですか」


 バーナード・コールは寝台に横たわったままで白髪交じりの黒髪も乱れているが、昨日の夢の中をさまよっているかのようなぼんやりとした表情ではないせいか、執事として精力的に仕事をこなしていたころの顔つきに幾分戻ったように思われた。


「・・・悪くない。いや・・・。今までで、ずっと良い」


 もつれ気味だったはずの言葉も、それが嘘のようにはっきりとしている。


「バーナード様・・・」


 ウィリアムの隣でジョセフが息をのんだ。


「びゃう・・・」


 バーナードの枕元で丸くなって寝ていた黒猫が目を覚まし、あくびをしながら伸びをする。


「な゛―う」


 少しかすれ気味の鳴き声にバーナードはふと笑みをこぼし、甥に尋ねた。


「この猫の名は?」


 ウィリアムの手を借りて身体を起こし、ジョセフから受け取ったグラスをきちんと自ら口に運び喉を湿らす。

 もはや手元が狂うこともなく、毅然とした振る舞いが見て取れる。

 ほんの短い間で劇的に変化していくバーナードの姿に周囲の者は驚きを隠せない。


「ネロと言います。伯爵家から連れてきました」


「そうか・・・」


 その小さな頭を撫でるバーナードの所作も、昨日よりもずっと的確に見える。


「ネロの飼い主は、ヘレナ様です。・・・ひと月ほど前にリチャード様の名義上の妻となられました」


 ウィリアムが叔父の状態を試すために補足説明をすると、彼の瞳に強い光がともるのをはっきりと感じた。


「もしや、昨日、この猫を抱いておられた方か」


「叔父上。あの時見えて・・・いえ、覚えておいででしたか」


 バーナードはいったん目を閉じる。


 黒髪の小さな少女。

 前髪から覗く瞳が印象的だった。


「ああ。全てはぼんやりとしていて夢かと思ったが・・・」


 満足げにゆるりと尻尾を振る猫の艶やかな背中を撫で、手のひらの感触を味わいながら話を続ける。


「この猫がそばにいるということは現実なのだと・・・」


 胸の奥から沸き立つ興奮をなんとか抑えながら、ウィリアムは深くうなずいた。


「はい。ヘレナ様は本日はお越しになられませんでしたが、こうして今も同行してくださっているお二人とともに、私は昨日、叔父上を訪ねました」


 少し離れたところに佇んでいた二人の魔導士へ手で指し示し、ウィリアムは紹介する。


「ヘレナ様のとりなしで、魔導士庁のお二人が昨日も叔父上のために色々とご尽力くださいました。改めてご紹介します。サイモン・シエル様とリド・ハーン様です」


 前日は意識がもうろうとしていたため、紹介することもままならなかった。


 しかし、今のバーナードは二人をしっかりと認識しているのがわかる。


「こんにちは、バーナード・コール様。私はサイモン・シエルと申します。昨日、我々が診察した限りではこれといった病気は思い当たらず極端に衰弱している事しかわかりませんでした。一切の原因は不明で、念のために毛髪の一部を頂き、研究員に解析を頼んでいるところです」


 一礼した後、濃灰色の長い髪も艶やかなサイモン・シエルがまず口を開く。


「ですが、深夜になって病巣が見つかり、治療魔法を施してみました。端的に言えば、薬物中毒によって心肺及び血液循環が悪化し、それに伴い脳にも障害が起きていたのだと思われます。全てが正常になるには今しばらく時間がかかるかと思いますが、この様子だとかなり回復したように見えます。いかがでしょう?倦怠感がずいぶん解消されたのではないですか」


 彼の説明の最中に金色の綿毛のような短い髪の魔導士がにこりと笑ってベッドのそばに跪き、細い指先でバーナードの手首を探って脈を確認し始めた。


「・・・うん。ほぼ問題なし…と思う。昨日とぜんぜん違う」


 どこかあどけない顔立ちの青年は、少し不満げに口を尖らせる。


「失敗したな・・・。まさか一晩でけりをつけられちゃうなんて思わなかったし」


「え・・・?」


 バーナードが首をかしげると、シエルがその魔導士の頭をくしゃっと雑にかき混ぜて苦笑いを浮かべた。


「すみません。ハーンは都合でその治療に立ち会えなかったので、今朝からずっと拗ねていまして」


 そこへ、黒猫がぴょんと跳んでハーンの肩に乗る。


「ネロ・・・。このうらぎりもの・・・」


 ハーンの恨み節もどこ吹く風で、ぐうぐうと喉を鳴らし、まるで宥めるかのように彼の頬に頭を摺り寄せ始めたため、和やかな空気が流れた。


「まだ解明されていないこともありますし、初手を繰り出しただけで、まだ完ぺきとはいいがたい状況です。今は、栄養のあるものを食べ、ゆっくりと休まれるのが何よりの薬となるでしょう。本日は確認のみのつもりでしたので、我々はこれで失礼しようと思います」


 シエルがいとまごいを口にすると、黒猫はハーンの腕の中に納まり直し、ウィリアムも居住まいを正して叔父に黙礼する。



「叔父上。実はゴドリー家の使用人たちには内緒で来ているのであまり長居ができません。今日はこれにて帰りますが、明日また伺いますので・・・」


 すると、バーナードは顔色を変え、手を伸ばし甥の袖を掴んだ。



「ウィリアム・・・、少し・・・少しだけ。今時間をくれないか」


 焦っているような、ただならぬ様子に、ウィリアムをはじめ、全員驚く。


「叔父上?」


「預けたいものがある」


 何かを探すように視線を巡らせ、見つからなかったのか家主を振り返った。


「ジョセフ。懐中時計を知らないか。あの・・・。祖父から贈られた・・・」


 みなまで聞かずとも、すぐに合点がいった元家令は頷き部屋の外へ向かって歩き出す。


「ああ、はい・・・。別室で保管しております。少々お待ちください」


 速足で去るのを見送ったウィリアム困惑した。


「叔父上、どうなさったのですか。ご愛用の懐中時計は私も覚えています。しかし・・・」


 甥の言葉をバーナードは遮る。


「私の体調が明らかにおかしくなったのは、今から二年ほど前だ。お前たちの赴任についていった使用人たちが戻り、留守を預かる体制がようやく落ち着いたころ・・・」


 額に当てる指先が、小刻みに震えていた。


「叔父上。まだ本調子ではないのです。どうか無理はおやめください」


 ウィリアムが叔父のやせ細った肩に手を伸ばすと、決して強くないが断固とした意志で振り払われる。

 木切れのようになってしまったその手はとても冷たい。


「今日は、調子が良いが、明日もそうとは限らない。私はそんな日々を繰り返しているうちに、頭の中がどんどん霞がかっていった・・・!」


 何事にも動じない。

 何があっても声を荒げることはない。

 そんな姿を見せ続けてきた執事の、悲痛な叫びだった。


「何かがおかしい。そう思っても、深く考えることができない。このままでは、ゴドリー伯爵家に不利益な何かが起きるに違いない事だけは分かっていた。だから・・・」


 ぜいぜいと肩で息をしながら続きを言おうとする叔父の背中を、ベッドの脇に跪いてゆっくりと撫でる。


「わかりました・・・わかりました、叔父上。だからどうか・・・」


 かける言葉が見つからず、声を詰まらせるウィリアムを見て、シエルはヘレナの作ったブランケットをベッドカバーの上から取り、バーナードの身体を包んだ。


「大丈夫です。大切なお話をする時間なら、まだ十分にあります」


 そして今度は、ハーンの腕の中からネロがまたするりと抜け出し、バーナードの頬をざらり舐め、ひと鳴きする。


「びゃおー」


 猫の舌からの刺激に我に返ったのか、バーナードの呼吸も落ち着いてきた。


「・・・正気を保てている間に、魔道具師を訪ね、ありったけの金を渡した」


「え・・・?」


 ウィリアム、シエル、ハーンの三人は目を交わし合う。


「たしかに・・・。叔父上の所持金が・・・あまりにも少ない・・・とは思っていましたが」


 バーナード・コールは十五歳の時にゴドリー伯爵家へ送り込まれ、以来、二十年にわたり働き続け、執事にまで上り詰めた。


 しかし、ウィリアムが叔父の持ち物を整理してジョセフの元へ送る時、それに見合う資産が全くなかった。

 出てくるのは、小銭ばかり。

 認知機能が落ちているところに付け込まれて散財したか、盗まれたのだろうと、思っていた。


「仕掛けをほどこしてもらった・・・あれに」


 あれ、とは。

 まさしく、懐中時計のことだろう。


「あれの中に・・・。ゴドリーの、重要書類が・・・」


「な・・・!」


 ウィリアムは息をのんだ。


「すべて、隠した。・・・奪われる前に」


 思考も尊厳も。

 全て奪われる。

 それに気づいた時。


 残された力でできることは、あまりにも少なかった。



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