閑話 あるメイドの思い出
アッカネン伯爵家でメイドを勤めているクロエは領内の宿屋の娘だ。
領主の邸で働くのに貴族に対する憧れがなかったとはいえない。
クロエはマリッカお嬢さまと同様のこの国特有の量産型美少女であった。
他のメイドと、なんなら下働きの女たちとなんら変わることのない平凡な容姿だった。
なので伯爵様の客として邸に逗留していた隣国の男爵から「愛妾にならないか?」とコッソリ言われた時は舞い上がってしまった。
興奮のあまりメイドだまりで仲間に話していたのをマリッカが聞いていたのに気がつかなかった。
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マリッカは記憶力に優れていた。
平凡な自分にとっては唯一の特技と思っていた程である。
邸の図書室に分厚い貴族名鑑が何冊かあり、周辺諸国のものも含めすべて暗記していた。
貴族名鑑は各貴族家に関する情報が網羅的に記されたもので社交の基礎知識みたいなものである。
なので逗留している男爵の家業についても知っていた。
クロエの話で気になったことがあったのでお母様に聞きに行った。
伯爵夫人は伯爵邸内を仕切る女主人であるのでメイドは管理範囲であった。
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クロエは伯爵夫人の呼び出しということで執事に応接室に連れていかれた。
一介のメイドが女主人から名指しされることなど聞いたこともないのでビクビクしていた。
「連れてまいりました。」
「ご苦労さまでした。」
「さて、当人が来ましたのでお尋ねしますね、男爵様。」
「なんなりと、奥方様。」
「このクロエに愛妾の勧誘をされたとか?」
「はい、間違いありません。」
他の貴族の使用人を引き抜くのはマナー違反ではあるが、当人が納得ずくであれば基本的には認められるものである。
場合によっては違約金が発生するが貴族同士で解決すればよい話なので、男爵にはここにクロエがいる意味が分からないでいた。
「ときに男爵様は娼館を経営されていらっしゃいますね?
もしかして愛妾ではなく愛娼の間違いであったりしませんか?」
痛いところを突かれた男爵。
北の妖精を娼館に並べられたら結構な儲けが見込めるという思惑でスカウトに来たのだが収穫がないまま帰国することになり、この際旧知の伯爵の邸の使用人でもいいかと声をかけたのだった。
いきなり娼婦というのはまず断られるというのは身に染みたので、とりあえず妾ということにして帰国の道すがら説得するつもりでいたのだ。
娼婦とはいえ通常の雇用契約でナンバーワンともなれば相当な収入だ。
そしてこの娘の容姿なら十分期待できる。
悪人ではなかったが平民には横暴だろう。
断って知らない土地に放り出されでもしたら生きていけない。
そんな状況に置かれては断ることなど出来なかっただだろう。
もちろん、そんなことも計算尽くである。
これが貴族の普通の考え方なのだからしたかない。
「そ、そうですね。聞き間違えられていたなら申し訳なかった。愛娼ということでひとつ来てくれないだろうか?」
ただの娼婦を愛娼とは言わないが社交的な気遣いとしてありがたく使わせてもらった。
「娼婦…は無理です。済みません。」
「行き違ったのね。ありがとうクロエ、戻っていいわ。
男爵様もお気になさらずゆっくりしていってくださいな。」
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クロエは命拾いした思いだった。
妾なら身分は低くとも貴族なみの生活と愛があるだろう。
それが娼婦とは…思わず身震いした。
執事のセバスチャンがご苦労さまと肩を叩くとようやっと力が抜けた。
「マリッカお嬢さまがな、気がつかれて奥様に相談してくれたんだよ。本当に聡いご令嬢だよ。」
まるで自分の孫のように自慢する初老のイケオジ。
クロエは頼みこんでお嬢さま付きにしてもらった。