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深層墜とし  作者: Arpad
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第二章 深層世界と彼女は言う

 致命傷と巨漢、それらから笹木を助ける自信の無かった私は、他の悲鳴の主を捜す事にした。見つけたところで、どうにかなるというわけでもなかったが、座しているより多少はマシである。

 悲鳴が聴こえたタイミング的に、この場所に存在する脅威があの巨漢だけとは考え難い。気を付ける事に越した事は無いので、姿勢を低くしながら慎重に移動していく。推測では、悲鳴の主は上階に居るはずだ。

 どうにか無事に西校舎端の階段まで辿り着くと、胸を撫で下ろす暇も無いまま忍び足で昇っていく。このタイミングで気を抜いたりなんかしたら、二度と立ち上がれる気がしないからだ。なけなしの勇気を必死に奮い立たせながら一歩ずつ、踊り場に辿り着くのにも一苦労である。

「っ!? ・・・・・・ん?」

 突然、視界に人影が飛び込んできた為、つい身構えてしまった私。残念ながら、人影の正体は踊り場に設置された姿見に映り込む、自分自身の姿だった。我ながら、呆然自若とした酷い顔をしている。

 そんな自分を鼻で笑い、踊り場を通り過ぎようとした時、私は不可思議な事に気が付く。私が映り込んだ姿見の反対側、ちょうど合わせ鏡になる様に姿見がもう一枚設置されていたのである。

 これは不可思議だ。思い起こせば、学校の踊り場に姿見など、一枚も設置されていなかったのだから。

「・・・え?」

 合わせ鏡の只中に足を踏み入れた次の瞬間、片方の姿見の奥から何者かが駆け寄って来るのが見えた。それは、我が校の制服を来た女子生徒の様である。しかも、嫌に足が速い。私が、鏡の奥から人影が駆けてくるという異常さを理解するよりも早く、その女子生徒は姿見から飛び出してきた。

 だが実際に、彼女は姿見から飛び出る事は出来ず、鏡の表面を人型に引き伸ばす形で、私の鼻先にまで肉薄する。鏡の中から出て来られないので、代わりに鏡面を押し出してきたという感じだ。

 私は思わず、背後へ後退しようとした。しかし寸前のところで、後ろ髪に何かが触れた様な感覚に驚かされ、反射的に階段の手すりを掴んで身体をその場に押し留めてしまう。恐る恐る背後を振り返ると、もう一枚の姿見からは白枝の如き細い腕が無数に飛び出し、犇めきあっているのが確認出来た。

 あのまま後退していたら、この腕の群れに捕まって姿見の中に引きずり込まれていたのかもしれない。私は生唾を呑み、苦笑いを浮かべた。まさに前門の虎、後門の狼である。進退窮まったと思われたが、ふと手すりの上という第三の道を見出だし、どうにか上階へ辿り着く事が出来た。

「イヤ・・・オイテ、イカナイデ」

 背後から幽かに届く呻き声が、そんな風に聴こえてならない。

 今の化け物も、あの巨漢と同じ存在なのだろうか。姿形というか在り方はより奇っ怪であったが、命を狙ってくるという面からすれば同属なのかもしれない。ここから先にも、同じ様な化け物が待ち構えていると思うと、どうしようもなく気が滅入ってくる。避け様の無い化け物が出てこない事を、祈るばかりだ。


 姿見の化け物に襲われた階段は校舎端の為、向かうべき道は一つだけである。とりあえず私は、壁に背を預けながら廊下の様子を窺う事にした。今のところ、人影も化け物の姿も無い。この辺りで誰かが悲鳴を上げたはずなのだが、その痕跡も見当たらなかった。

 まさか悲鳴そのものが化け物の罠という可能性もあるのか、そんな救われない想像をしていると廊下に状況変化の兆しが訪れる。廊下中程の教室側から、何者かが匍匐で這い出して来ているのだ。化け物の類いかと警戒したが、その顔には見覚えがあった。笹木グループの片割れ、名前は判らないが捜し人の一人である。

 生存しているのは嬉しい限りだが、怯え切った表情で静かに匍匐しているのだから、まともな状況であるはずがない。きっと何かから逃れようとしているのだろう。私は伸ばした人差し指を口元に当てながら顔を覗かせ、こちらへ来る様に手招きをし始めた。

 向こうも私に気が付き、ギョッとした表情を浮かべたものの、必死に自らの口を押さえて頷き返す。声を出していれば、教室内に居るであろう化け物に気取られてしまっていたはずだ。良く耐えたと誉めそやすべきだろう。

 彼女は四つん這いの状態で、静かに此方へ移動し始めた。床に膝の皿が当たり、音が鳴らぬよう細心の注意を払っている。この調子なら、無事にこちらまで退避出来るだろう。ただ、その後はどうすれば良いのか。笹木が瀕死のまま連れ去られた事を伝えるべきか逡巡していたその時、悲劇は起きてしまう。

 こちらへ退避中の女子生徒が、妙な音を発ててしまったのだ。それは、床に肌が引っ掛かってしまった際の摩擦音、キュッと耳障りな高音が無情にも響き渡る。彼女は目に涙を浮かべ、絶望に染まった顔を私に向けてきた。助けを懇願しているのは解ったが、時既に遅しだ。私が動くよりも速く、教室側から黒い影が飛び出してきた。

 それは黒い、まさに夜闇の様な毛色をした犬だった。ただし、ポニーくらいの体高で、頭が2つも付いている化け物を犬と表現するのが正しいのかは判らない。化け物は猛スピードで背後から女子生徒へ飛び掛かり、身動きが取れない様に押し潰してしまう。その瞬間から、女子生徒は防犯ベルの如く甲高い悲鳴を上げ始めた。

 その悲痛な叫びが気に食わなかったのか、化け物の片方の頭が彼女の首筋に食らい付く。そして骨が砕け散る様な音と共に、彼女の悲鳴は完全に途絶えてしまう。その時、もう片方の頭はどうして居たかというと、私の事をジッと見据えていた。その壊れたオモチャの如く動き回る血走った目玉で実際に見えているのかは不明だが、遺憾ながら私は次の獲物に内定してしまったようである。

 化け物が此方へ駆け出すのを確認するや、私は階段に向かって踵を返した。踊り場には姿見の化け物が待ち構えているだろうが、気にしている場合ではない。廊下の角から階段へ移動する、たったそれだけの動作の間に、床を叩く爪の音と獣の荒い息遣いが背後に迫る。なりふり構わず駆け降りようとした次の瞬間、階段の出っ張りに爪先が引っ掛かり、私は階段に身を投げ出してしまう。

「・・・ぐっ!?」

 胸を強打するも咄嗟に手を突く事で、なんとか顔面から階段を転がり落ちるという最悪の事態は回避できた。しかし、不幸中の幸いと言うべきか、結果的には犬の化け物の突撃も回避していたらしい。あの化け物が、踊り場に着地するのが見えた。そして今、四つの眼が私を捉え、再び襲い掛からんとしている。

 早く逃げなければ、しかし脚力では敵わない。結局、食い殺される事に変わりはないのだ。風前の灯火であった気力が消え去り、私は立ち上がる事さえ出来なかった。立ち上がる為には理由が要る、まだ諦めてはいけない理由が。

「・・・ん?」

 化け物の横で、何かが動く。そうだ、奴は今、踊り場に居る。そう気付いた頃には姿見から腕の群れが湧き出し、犬の化け物に群がり始めていた。未だ私には、生き残るチャンスが残されていたらしい。

 姿見の化け物は、範囲内に入った存在を無差別に襲うようだ。とはいえ、捕まえたのが人間ではないと気が付けば離してしまうのかもしれないし、単純に犬の化け物の方が強力な個体で簡単に脱出してしまう可能性もある。不確定要素ばかりの状況、だからこそ足留めされている時間は、一秒たりとも無駄にしてはいけないのだ。

 一筋の光明によって四肢に力が甦り、私は自分でも驚くスピードで腑抜けた体勢から飛び起き、全速力で階段を駆け上がっていった。角を曲がり、血溜まりに倒れている女子生徒の容態をすぐさま確認する。

 出血が酷いのは予想していたが、首があらぬ方向に折れ曲がってしまっていた。私が何をどうしたところで生存は絶望的、僅かに息が残っているのが憐れでならない。

「・・・ごめん」

 適当な理由付けと謝罪を残して、私はその場から逃げ出す事を選択した。哀しいかな、心中するほど親しくもなく、良い印象も持っていなかったのだ。無事なら協力し合いましょう、それくらいにしか考えていなかった私は、冷淡なのかもしれない。

 犬の化け物が拘束されている時間が不明瞭な以上、私はむやみやたらに走り続けた。他に未知の化け物が居ようと、あの犬に背後から一瞬で肉薄される恐怖に比べれば、まだ弱い。とにかく、追って来ない事を祈りながら走り続け、追跡から逃れようと階段を目指していく。もう、校舎から脱出しようという算段だ。


 南校舎の中央階段を駆け降りようとするも、やはり各踊り場には姿見が在り、虎視眈々と獲物が飛び込んでくるのを待ち構えている。先程の如く、絶対に出てくるとは言い難いが、出て来られても困るので手すりから飛び降りて踊り場は避けていく事にした。そうして一階まで辿り着いたら、昇降口から校庭へ一直線に駆け出していく。上履きから外履きへ履き替えていないが、こんな状況では些末な問題だろう。

 霧煙る校庭を駆け抜け、私は校門を目指していく。案外、学校の外へ脱出できたりするかもしれないからだ。霧のせいか、記憶以上に遠く感じる。

「・・・そっちに行っては駄目だよ」

 この霧も化け物の一種なのではないか、そんな一抹の不安が過り出した頃、どこからともなく誰かの声が響いてくる。周囲に目を凝らすと、手招きをする人影が存在する事に気が付いた。最初に教室から見えた人影、それと同じものなのだろうか。

「・・・そっちは危ない、帰ってこられなくなるよ」

 とにかく、校外へ向かう事に対して注意を促してくる謎の人影。本当に危険が待っているのか、それとも先に進まれては困るのか。私は迷った挙げ句、校外へ向かう事にした。吉と出るか凶と出るか、どちらにせよ自分の目で確かめておきたかったのだ。

「やっぱり、行くよね・・・だったら、足下に気を付けて!」

 足下に気を付けろと、人影は忠告する。必死に止めてくると思っていたが、強制はしてこないようだ。そうなると、本当に危険が待っているのではと不安になってきてしまう。あの人影、化け物の見せる幻影という可能性は捨てきれないが、足下から目を離さないようにしておいた方が良いのかもしれない。

 半信半疑だが足下に注意しつつ、私は遂に校門へと辿り着く事が出来た。ここまで何事も無かったではないか、肩透かしに内心、胸を撫で下ろす。そして、校外へ足を踏み出そうとした瞬間、私は警告の意味を理解するのであった。

「そんな・・・何で?」

 校外へ踏み出そうとした足が、地面を捉えられずに空を切った。校外の道だけがえぐり取られたかの様に紛失し、クレバスの如き断崖絶壁と化していたのである。気を付けていたから、どうにか校門の端に掴まる事で難を逃れられたが、知らなければ真っ逆さまに墜ちていっただろう。底知れぬ、途方もない闇の中へ。

 ここから近くの民家や遠くの街並みを確認する事は出来るが、そこへ至る為のあらゆる道が寸断されているようだ。実質、校外への脱出は不可能である。この闇の中へ飛び込むという、奇をてらった脱出方法でなければ。

「・・・・・・よし」

 私は意を決し、断崖絶壁を覗き込む事にした。無いとは思うが、下へ降りられる起伏があるかもしれないからだ。もちろん、覗いたところでそんなモノは在るはずがない。代わりに見つけたのは、闇の中に蠢く巨影であった。

「あれは・・・こっちに・・・来る!?」

 巨影は真っ直ぐ、闇の中から急速に浮上してきていたのだ。巨影は私の鼻先をかすめながら直上へと舞い上がる。驚いた私は後退り、そのまま尻餅を突いてしまった。だが視線だけは、巨影の後を追い続けたままだ。

 それは耳をつんざく鳴き声と共に、体高と同程度の両翼を羽ばたかせている。その風圧で僅かに霧が晴れて露になった姿は、怪鳥と呼ぶに相応しい猛禽のそれであった。どんなに小さく静かな獲物でさえも見つけ出すと定評のある鷹の目が、顔の側面いっぱいに巨大化し、私の存在をジッと捕捉している。間違いなく獲物として認識されているのを、肌のヒリつきが教えてくれていた。

「っ・・・くそっ!?」

 私が立ち上がりつつ昇降口へ駆け出すのと、怪鳥が咆哮を発しながら天高く舞い上がったのは、全く同時の事であった。猛禽は急上昇からの急降下で、獲物を瞬く間に捕獲するのが十八番だったはず。足の鉤爪でキッチリ仕留めてくれる事もあれば、獲物を生きながら啄む事もあると聴いた事がある。今回が後者なら、私は世にも悲惨な死に様を晒す羽目になるのだろう。

 そうならない為にも、今は全速力で走るしかない。だが、ずっと走り徹しで思ったよりも速度が出せずに居る。しかし、校庭の中程まで来たところで、セスナ機が墜落して来たかの如き風切り音が直上から迫ってくるのが判った。

「痛みを恐れないで、前に飛ぶんだ」

 声が聴こえた。出所は不明だが、私は素直に言うことを聞いていた。走り幅跳びの要領で地面を踏み切り、前方へジャンプしたのだ。直後、背後でけたたましい衝突音が鳴り響き、次いで地面を捲り上げる程の衝撃波が来襲し、私の決して小さくはない身体をも容易く吹き飛ばしてしまう。

 私は地面をバウンドしながら転がり続け、最後は校舎内の壁にぶち当たる事で静止する。身体中に擦過傷を負ったものの、腕でカバーした為に頭部に損傷を負うことはなかったようだ。

「ふぅ・・・酷い目にあった」

 満身創痍の身体を起こし、私は砂埃が充満する昇降口へと、足を引きずりながら移動し始めた。怪鳥が飛来する直前に聴こえた声の主を捜す為に。あれは確かに、校門へ近付かないように忠告してくれた声と、同質のものであった。私の他に生存者が居るのなら、会って一言でもお礼を伝えたい。そして相手が、まだ安否の判らない笹木の友達という可能性もあるのだ。

「げほっごほっ・・・誰か、居るの?」

 声を掛けたが、返事が無い。さらに昇降口へ近付いた私は、砂埃の向こう側を目の当たりにし、息を呑んだ。

 それは昇降口を蓋する様に存在する、大きな猛禽類の眼だった。怪鳥が片眼を昇降口に寄せ、私を捜していたのである。怪鳥が退くのと、私が踵を返したのは全く同時の事であった。直後、昇降口は突き込まれてきた嘴に容赦なく掻き乱され、私は這う這うの体で東校舎の方へと逃れていった。あれではもう、私に助言してくれた人も、近くにはいないだろうから。


「・・・・・・くっ」

 廊下の壁を支えに進んでいた私だったが、急に強打した胸が痛み出し、不覚にもその場でへたり込んでしまった。色々と無理を通してきたが、その皺寄せが押し寄せてきたらしい。呼吸する度に激痛が走り、呼吸は乱れ、額を脂汗が占拠する。これほどの激痛、現実でも経験した事の無い類いのものだった。

 現実、現実とは何なのだろうか。五感があるから現実なのか、朝日が昇るから現実なのだろうか。激痛に息が詰まる今は、本当に現実ではないのだろうか。私は本当に、何をしているのだろうか。

 袋小路に陥った思考は、際限無く問いを繰り返すばかりで、答えを出してはくれない。常識という名のOSでは、この辺りが限界なのだろう。ならば、より柔軟な思考に身を任せるしかない。

 私は、現実に近い妙な世界に迷い込んでしまったのだ。きっと此処で死ねば、現実でも死んでしまうのだろう。フィクションでは、ありがちな展開である。

「ふふっ・・・なら、諦めるわけにはいかないな」

 大抵、自暴自棄になった者に次いで、諦めた者は惨たらしい最期を迎えるものである。どのみち、この場所から脱出できないのであれば、全ての化け物の襲い方を吟味し、自らの最期を定めようではないか。

 出来れば、一思いに殺ってくれるのが望ましい。私もだいぶ、常軌を逸してきたと見える。私は苦笑しながら立ち上がり、壁に手を添えながら廊下を進み出した。やがて、西側校舎へと移る角を曲がった時、私は目が覚める様な光景に出会す事になる。

 廊下の先では、小さな人だかりが出来ていた。小さなというのは規模ではなく、その体高だ。多くの子ども達が集っていると言うのが、解り易いかもしれない。問題なのは、人だかりの中心に在るのは鮮血にまみれた中高生くらいの遺体である点、そして人だかりを形成する子ども達が口の回りを赤く染めた腐乱死体の様であるという点だ。もちろん、子ども達も私の存在に気が付いている。

 すぐ逃げなければ、最期を定めようなんて思考は、寝言に他なら無かったのだ。昇降口の方へ逆戻りする私の後を、ビチャビチャと不快な音を立てながら小さな腐乱死体達が追い掛けてくる。ある者は自らの頭部を抱え、ある者は自らの腕をもいで私に投げ付け、そしてある者は血の滴るハサミを愉快そうに振り回す。見様によってはユーモラスかもしれないが、決して捕まりたくはなかった。無邪気な残虐性ほど、恐ろしいものは無いのである。この子らは、あの犬より恐ろしい追手と言えるだろう。

 余りにも子ども達に目を奪われていたせいで、私は昇降口の辺りで破壊された下駄箱(ロッカー)の残骸に足を取られ、盛大に蹴躓いてしまった。すぐに立ち上がろうとしたが、左足に新鮮な激痛が走った事で失敗してしまう。

 確認すると、いつの間に追い付いたのか腐乱死体の1体が左足に組み付き、木製のペーパーナイフを脹ら脛に突き刺していたのである。実に愉快そうに笑う下手人を右足で蹴り飛ばしたが、その隙に腐乱死体の群れは目前まで迫ってきていた。

「万事休す、か・・・」

 脳裏に先程囲まれていた遺体の状態が過る。外傷だけではなく、手前勝手に解体されていた。もしかしたら、逃げ回った挙句に最悪の死に方を引き当ててしまったのかもしれない。

 それでも、最期まで抵抗しようと脹ら脛から突き刺さったペーパーナイフを引き抜いた次の瞬間、目の前の腐乱死体の群れの先頭集団が、あっという間に細切れにされてしまうのを目撃する。

 よく判らないが助かったのか、そんな淡い希望を打ち砕く様に中央階段の方から、それは現れた。御立派な銘が付いていそうな和甲冑に身を包んだ武者が、抜き身の太刀を手にしながら姿を現したのだ。

 腐乱死体の先頭集団を粉砕したのは、この武者なのだろう。怒り狂った子ども達が赤備えの武者に襲い掛かる。これは、犬の時と同じチャンスではなかろうか。私は出血する左足を庇いながら、なんとか立ち上がる事に成功し、廊下の角まで片足跳びで移動してみせた。

 さて、どんな調子かと戦いの様子を窺うと、既に腐乱死体は敗走に陥っており、そっちを追えば良いものを勝利した武者が私の方へ向かって来ているのが見える。

「何でだよ、もう・・・」

 泣きたくなる様な無慈悲さ、ここ数時間に及ぶ理不尽な仕打ちと現状に怒りを覚えた私は遮二無二、東校舎端の階段を目指した。

 何が何でも、生き残ってみせる。もはや意地と化した生存本能であったが、1ーA教室に差し掛かったところで、それも立ち消えてしまう。東階段から、あの犬の化け物が鼻を鳴らしながら姿を見せたのである。まさか、私の臭いでも辿ってきたとでもいうのか。

「これは・・・詰んだよ」

 前方の犬と後方の武者、まさかのブッキングに私は両膝を床に突いてしまう。残された逃げ道と言えば教室だが、袋小路という点には変わりない。私が恨めしげな目を教室のドアに向けた直後、そのドアが勢い良く開放された。

「さあ、こっちだ」

 唐突に現れた女子生徒にむんずと腕を掴まれ、私は教室内へと引きずり込まれてしまう。

「ちょっ、何を!?」

 女子生徒は、慌てふためく私の唇に自らの人差し指を押し当ててきた。静かにしろという事だろうか、彼女はゆっくりとドアを閉めている。

 こんな事をしても、ドア開けられたら終わりではないだろうか。そんな疑問を問い質せないまま、武者の足音がドアの向こう側で止まった。警戒しているのだろうか、太刀を構えているであろう姿が磨りガラス越しに見受けられる。

 終わった、私が目を閉じてから程なくして、蹴飛ばされた犬が出すような悲痛な鳴き声が響いてきた。それから、床を爪が叩く音と甲冑がぶつかり合う音はそれぞれ別方向へと遠ざかっていった。察するに、犬の化け物と武者が敵対し、武者が犬を打ち負かしたのだろう。そして、獲物である私を見失い、何処かへ去っていったのだ。

 信じ難いが、やり過ごせたようだ。事態が呑み込めずに呆けていると、唇から押し当てられていた人差し指が離れ、代わりに肩に手を置かれた。

「いやいや、無事に切り抜けてくれて良かったよ」

 私が校の生徒の様だが、面識の無い顔立ちである。もちろん、笹木の友達の片割れでも無い。おそらく、腐乱死体に襲われていたのが、そうなのだろう。

「ふむ・・・私の事を訝しみながらも、違う事を考えているね。君は、どちらが知りたいんだい?」

 面識が無いのに、どこか馴れ馴れしい態度、なのに苦では無いから変な感じである。昔から知っていた様な、強い既視感に教われるのだ。

「君と・・・どこかで会った事、あるかな?」

「無いよ、初対面さ・・・・・・ごめん、誘っていたのかな?」

「いや、違うけど・・・君の、名前は?」

「人に名前を聞く時は自分から・・・だけど私は、あえて答えよう。御南花君依(みなげ きみよ)、それが私の名さ」

「御南花、君依さん・・・? えっと、駒井瓢です」

「ごきげんよう、駒井君」

「その声・・・校庭で話し掛けてきたのって、御南花さん?」

「ああ、そうだよ。君は忠告の甲斐無く、あの化け鳥に絡まれに行ってしまったね。あれに大いに笑わせてもらった」

「えぇ・・・笑ってたの?」

「だって君、何と言うか地雷源で埋設された地雷全てを踏み散らかして様な感じだったからね。地でエンターテイメントな道を行くものだから、もはや笑うしかないのさ」

「死にもの狂いで逃げ回ってたんだよ・・・ところで、御南花さんは何時からこの世界に?」

「それはもちろん、君達が墜ちてくるより、ずっと前からからさ。言わば、先輩サバイバーだね」

「なるほど、だから怪鳥が潜んでいる事も知ってたのか・・・というか先輩だったんですね、すみません」

「良いよ、別に気にしなくても・・・おや、こんな美人な先輩サバイバーに出会ったというのに、浮かない顔をしているね?」

「え? いや、その・・・そんな先輩が居るという事は、やっぱり脱出って出来ないんですか?」

「いいや、出来ると思うよ?」

「そうなんですか? でも、だったら・・・」

「脱出可能だと言うのに、私という先輩サバイバーが存在している。その矛盾について説明する前に、先ずはこの場所について話そうか」

「・・・はい」

「矢継ぎ早に質問してこないんだね、助かるよ・・・さて、これから話すのは私の経験に基づいた推論であって、真実とは異なるかもしれない。それでも良いかな?」

「お願いします」

「では、しばし耳を傾けてもらおうかな・・・ここはね、悪夢の中なんだ。ユングの分析心理学は知ってるね? あれに、人と人は潜在意識で繋がっているという理論があるでしょう? ここは、人間が共有する意識の深層、恐怖のイメージを共有する深層心理世界なんだ」

「ああ・・・・・・うん?」

「ピンと来なかったかな? まあ、フィーリングで認識してくれたら良いよ。先刻から君に襲い掛かってきた異形達は皆、誰かの恐怖心で形作られた存在なんだ」

「えっと、つまり・・・今は、悪夢の中に居るって事?」

「そうだね、明晰な悪夢といった感じかな。悪夢というのはある種の刺激を受けた意識が、この深層まで一時的に降りてきてしまった時に見るものなんだけど・・・君達の場合、深層まで墜ちてきてしまったから起きるのに少し時間が掛かるんだよ」

「墜ちてきた・・・んですか?」

「もちろん、比喩表現だよ? 普通の悪夢を見る人は、フワッとした半透明の姿で降って来て、自分の恐怖心に嚇かされたらワッと驚いて表層意識まで帰っていく希薄な存在なんだけど・・・時折、実体と同じ情報量を持って、まさにドスンッと墜ちてきてしまう事があるのさ。死にかけるとか、泥酔しているとか、脳に尋常ならざる負荷が掛かっていると墜ちてきてしまうみたいだよ。この状態だと、例え死ぬほど痛い思いをしても、目覚める事が出来ない。もちろん、死ぬこともね?」

「えっと・・・つまり下手を打てば、現実と夢の悪いところを掛け合わせた様な世界で、永遠に苦しむ事になると?」

「そうだね、目覚め方を知らないと、そうなるだろうね」

「ふぅ・・・やっと、先輩サバイバーの由縁が聴けるわけですか?」

「ああ、待たせたね。墜ちてきた人が、この深層から脱け出す方法は一つだけ・・・この世界で、眠る事だよ」

「眠る? こんな化け物が徘徊する場所で?」

「有るんだよ、最適な場所が・・・それが、此処さ」

 御南花さんは、自慢気に両手を広げてみせた。彼女は、この教室が寝るのに最適な場所だと嘯いている。教室が安全とは、いったいどういう事なのだろうか。

「異形達はね、ドアの閉まった教室には入って来られないんだよ。何故か判らないけど、効果はさっき君を助けた事で証明済みさ」

「でも、化け物が教室から出てくるのを見ましたよ?」

「確かに、例外も存在する。でも、君は大丈夫。君は、ここから脱出する事が可能だ」

「はあ・・・そうなんですか、良かった」

 何故そこまで言い切れるのか、気になる点ではあるが、私は御南花さんの言葉を素直に受け止めていた。彼女は正しい事を述べていると、心が訴えているのだ。

「信じます・・・俺は、どうすれば?」

「寝るんだよ、これからね? さあ、机を動かそうじゃないか」

 御南花さんと共に、私は6個の机を動かし、長方形に集約させた。そして今、その上に仰向けになって寝転んでいる。胸部と刺された脹ら脛が痛み、とても眠れる様な状態ではなかった。

「やっぱり、未だ気が荒ぶっているみたいだね」

 御南花さんは苦笑しながら私の頭の横に腰掛け、熱でも測るかの如く額に優しく手を載せてきた。気恥ずかしいが、不快ではない。

「君が眠るまで、私が傍に付き添っているよ・・・心配しなくても、直ぐに眠たくなるさ」

 彼女の言う通り、段々と瞼が重くなってきた。腹の膨れた昼下がりに訪れる様な抗い難い眠気が、どこからともなく押し寄せてくる。これは本当に、眠ってしまえそうだ。

 意識が遠退いていく中、私は脳裏に浮かぶ疑問をただただ口に出す様になっていった。対する御南花さんは、真摯に解答してくれる。

「・・・俺の他にも、墜ちてきた人が居ます。あの子達は、どうなるのですか?」

「残念ながら、彼女達は自らの恐怖心に捕まってしまっている。少なくとも死にはしないけれど、自然に意識が表層へ戻る事は無いだろうね。君は、あらゆる異形から見事に逃げ延びた、だからこうして表層に帰せるのさ」

「そんな、俺だけだなんて・・・・・・そういえば、御南花さんが未だこの世界に残っている理由を、聴いてませんけど?」

「ああ・・・・・・単純な話だよ、私には帰る場所が無いんだ。事故に遭った衝撃で墜ちてきたのだけれど、私が帰るより先に肉体が力尽きていたというだけの、つまらない話さ・・・ところで、君はどうして墜ちてきたんだい?」

「・・・毒を、打たれたんです。たぶん、それのせいかと・・・」

「毒か、穏やかではないね・・・何者かの手によるものなら、その手段を奪っておくべきだ。二度とこの場所へ戻ってこない為にも。ここは本当に、危険な場所だから・・・」

「・・・手段を、奪う・・・」

「まあ、無理しない程度にね・・・おやすみ、駒井瓢」

 額に載せられていた御南花さんの手がスライドし、私の瞼が強制的に降ろされる。閉幕を告げる、緞帳の様に。怖い事は終わったのだと、慰められる様に。私は程なくして、意識を失った。

 意識を失ったと判るのは、もちろん後に意識を取り戻したからである。

「うっ・・・!?」

 電気ショックでも叩き込まれたかの如く、または階段から落ちる夢を見た後みたいに、私は身体を弾ませて目を覚ました。

 直後、身体中から生体情報が濁流の様に流れ込んでくる。先ずは呼吸、どうしようもなく息苦しかった為、鼻と口で可能な限りの空気を取り込む。次に肌、信じられないくらいに寝汗をかいており、寝具が冷たく湿気っている。最後は視界、目覚めた場所は私の部屋で、時計によると倒れた時からおそらく30分も経っていない事が判った。

「夢・・・だった?」

 あの場所で、私が体験した事は全て、脳が編纂した幻だったのだろうか。針で刺された手の甲を見ても、瘡蓋はあれども肌色は正常に戻っていた。

「やれやれ、思い過ごしか・・・」

 針に毒が仕込まれていたとか妄想を膨らませ、自ら悪夢を紡いだというのなら、とんだ笑い話としか言い様が無い。私は自嘲気味に小さく笑いながら、喉の渇きを癒すべく、起き上がろうとした。

「ふぅ・・・・・・痛っ!?」

 上半身を起こした瞬間、胸部に激痛が走り、驚いて力を込めた左脹ら脛にも筋肉痛とは別種の痛みが感じられた。不安になって各部位を改めたが、外傷や内出血なども見られず、痛みも一瞬のピークを最後に弱まってきている。まるで、あれは本当に体験した事なのだと、肉体から教えられたかの様だ。

「あれは・・・紛れもない現実、だったのか?」

 私は確実に、現実と夢の境界線を見失い始めていた。

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