第一章 斯くして私は墜された
どうせひた隠すのなら、自意識なんて棄ててしまえば良い。
自分の価値観など打ち捨てて、その場の最適解だけを実行していく。一度失敗した私は、そう在るべきだと己に課している。今日もまた、それを実践すべき時が来た。
「駒井瓢です、唐突な転校生ですが、よろしくお願いします」
私は、満面と微笑のちょうど中間点に位置するアルカイックな笑みを努めて浮かべつつ、斜め45度に頭を下げた。それが、時期外れの転校生として一番無難な仕草だと考えたからだ。
「というわけで、男の子が転校してきました。珍しいからといって、揉みくちゃにしない様に・・・駒井君、窓際一番後ろに席を用意しておいたから、そこに座ってください」
担任の女性教諭に促され、私は仕方なく頭を上げた。すると嫌でも、20人強のクラスメイト達の顔色を捉えてしまう。ほとんどの者が興味津々、肉食獣の様な眼でこちらを見据えてきている。
ここ蕀ノ坂学園は、元来女子高であり、共学となったのは少子化の煽りを受けてからというスロースタートだった為、男子がクラス平均2名しかいない事が災いしているのだろう。そして我がクラスに、在来の男子が居ないという事実を私は、つい数分前に知らされたばかりである。
彼女たちの名誉の為に弁明しておくと、別に盛っているのではなく、新しいオモチャを壊れるまで遊び倒したいといった具合に、イベント事に対して飢えていたというわけだ。
自席の隣に座るクラスメイトが私に目を向けていないのがせめてもの救いか、教室から逃げ出したいのをグッと堪えながら指定の席へと腰を降ろす。
「話はしてあるので、判らない事があれば矢継さんに聞いてくださいね・・・それでは、ホームルームを終了します」
担任が、矢継という名を口にしたその時、隣の席に座る無関心ガールの耳が僅かに反応する。彼女が、その矢継さんである可能性がグンッと高まった。出来れば、そうであって欲しいものだ。
「起立・・・礼!」
日直の号令で担任を送り出した後、堰を切った様にクラスメイト達が私の机を包囲し始めた。ここからが、本当の戦いである。
「どこから来たの?」
定石とも言える質問、以前の学校を答え、暇人に過去を探られても困る為、都内だよと暈しておく。
「何で、転校してきたの?」
デリケートな問題を、よくもまあ明け透けも無く聞いてくるものだ。親の転勤が理由だと丁寧に説明したが、それは嘘である。転校してきたのは、1年間通った高校に居辛くなったから。それに、家族と認定されるのは後見人の養父くらいで、今は一人暮らしをしている身の上だ。
「趣味は何ですか?」
一番無難な答えは読書だが、そこにランニングというアクティブさを添えて答えてみた。読書だけだと何を読んでいるのか掘り下げられた上、インドアの烙印を押されかねないが、ランニングを付け加えておくだけで中和されると考えての事だ。
「好きな食べ物は?」
定番とはいえ、まさか聞かれるとは考えていなかった。口をついて出たサラダチキンは、予想外の好評を得てしまったが。
その後も槍衾の如く襲い掛かる質問により、猫に戯れで殺されそうになる土竜の様な気分に陥っていると、隣席の彼女が大きく咳払いをした。
「授業、始まるんだけど?」
その一言で、場は何とも形容し難い微妙な雰囲気となり果て、私に対する包囲網は瞬く間に瓦解していった。なぶり殺しに遭っていた私に、助け船を寄越してくれたのだろうか。周囲の反応が気に掛かるが、感謝する事に変わりはない。
「ありがとう、えっと・・・矢継さん?」
「・・・別に、何の事?」
無関心ガールの矢継さんは、こちらに目もくれず、次の授業の用意を行なっている。不用心にもお礼を言ってしまったが、ここで彼女が惚けてくれていなければ、先程の質問責めを私が嫌がっていたと暗にほのめかした事になってしまっていた。あえて塩対応をする事で、こちらを気遣ってくれているのは明白だ。ならば、私も芝居を打つ必要があるだろう。
「何と言うか、その・・・隣の席の人が、親切な人で良かったと思ったんだ」
「勘違いされると迷惑だから言うけど・・・さっきのは、隣で騒がれて不快だったから。それだけの事、だからお礼とか止めてくれる」
「実は、教科書が無いんだ」
「・・・・・・はい?」
「急な転校だったせいか、発注ミスがあったらしくて・・・教科書が届くの、明日なんだよ」
「・・・呆れた、教科書を見せて欲しかったから、媚び売ってたってわけ?」
「あはは・・・困っちゃうよね、本当に」
「あははって・・・先生に言えば? 教科書の予備くらい有るでしょう」
「もちろん、相談したよ? だけど、予備は既に貸し出してるみたいで・・・品切れなんだって」
「はぁ・・・・・・必要な時、貸せば良いんでしょう?」
「ありがとう、助かるよ♪ ・・・おっと安心して、筆記用具とノートはちゃんと持ってきてるから」
「・・・いや、それは当然だから」
ぎこちなさは拭えないが、親切な隣人と交流を結ぶ事に成功した。このお目付け役の様な隣人は、これから円満な学校生活を送る上で、防波堤として大いに役立ってくれる事だろう。故に、これが生涯でも指折りの悪手だったなんて考えもしなかった。
昼休みになる直前、やる事は終わって後は時が過ぎるのを待つばかりの授業中、私は矢継さんに借りていた教科書を返しながら同時に質問も投げ掛けた。
「お昼を静かに食べる、ナイスなスポットとか知らない?」
「・・・何、藪から棒に?」
矢継さんは、受け取った教科書を鞄にしまいつつ、私にやや侮蔑のこもった視線を向けてくる。
「ほら、また包囲網とか敷かれたら大変だから・・・ね?」
「ふぅ・・・幾つかあるけど、初心者は屋上じゃない」
「屋上、出られるんだ・・・って、矢継さんは上級者か何かなの?」
「・・・割りと、昼休みは逃げ回っているから」
「逃げ・・・? よく分からないけど、一緒にどう?」
「・・・あまり、絡んで来ないでもらえる? 私は迷惑だと思っているし、遠からず駒井君もそう思うようになるから」
「迷惑掛けてゴメンね、未だ他に頼れる人も居ないし、先生に聞くわけにもいかなかったから・・・」
「はぁ・・・分かった、今日だけ屋上で」
「流石、ありがとう♪ 教えてもらえれば、明日からは一人で出来るから」
「・・・先に行ってて、私は用事があるから」
「うん、了解」
私は机に昼食を用意しておき、授業終わりに行なわれる教師への一礼と共に、教室を後にした。後は唯一屋上へと続く南校舎の中央階段をひたすら昇っていき、辿り着いた重厚な扉を押し開ける。そうして屋上へ出てみると、昨今危険視されている屋上が開放されている理由がすぐに見てとれた。
屋上全体がドーム状の格子で覆われ、落ちる隙を与えていないのである。格子だけだと鳥籠に放たれた様な気分になりそうだが、幸いにも格子には隙間無く薔薇の蔓が巻き付き、数え切れない程の紅い花を咲かせていた。こうなれば最早芸術作品、薔薇の棘で格子を登ろうとするバカも撃退出来るだろうから、一石二鳥と言えるだろう。
「凄いでしょう?」
私はどれくらい、木漏れ日の射し込む蔓薔薇のドームに見惚れていたのだろうか、声を掛けられるまで背後に矢継さんが来ている事に気が付かなかった。
「最初は皆、駒井君と同じ反応をする・・・でも、もう一度訪れようとする人は、ほとんど居ない」
「へぇ・・・どうして?」
「理由なんて知らない・・・たぶん圧倒されて、怖くなったんだと思う。もしくは、紅過ぎて落ち着かないのか。私だって、本当は長居したい場所じゃないもの」
矢継さんは天空の薔薇に睨み付けながら、屋上に設置されたベンチに腰を下ろした。私もそれに倣い、彼女の隣に腰を下ろす。隣といっても、二人とも両端に座っているので、程よい距離感である。
「何と言うか・・・それでも誘いに乗ってくれて、ありがとう」
「別に・・・人避けには最適の場所だから、ここ。普通の生徒は無意識に避けてるし、覚悟を持って来ても長居出来ないから。仮にここへ足繁く通える様な人が居たとしたら、きっとどこか病んでるよ」
そう言って矢継さんは、何故か持参してきた鞄の中からパック入りのゼリーを取り出し、無表情のまま飲み始めた。本当に、長居するつもりは無いらしい。
考えてみれば、一人に成れる場所が開放された屋上というのも可笑しな話だ。矢継さんに質問したい事があるなら、早急に投げ掛けておくべきだろう。
「えっと・・・この学校で、上手くやっていく上で、気を付けた方が良い事とかある?」
「・・・男子の事はよく判らないけど、3年生には気を付けた方が良いかも。男子を受け入れ出して、実際に入ってきたのは私達の代から成ってからだから、歓迎ムードじゃない人の方が多い」
「なるほど、気を付けよう・・・1年生は?」
「さあ、私達の代より男子は居るし、そもそも部活でも入らないと関わる事も無いから・・・何か入るの?」
「いや、特に考えてないかな・・・?」
「そう・・・」
そこで、会話は止まってしまい、ぼんやりとした時間が流れていく。案外、聞いておくべき事というのは思い付かないものである。これだと誘い出した意味が無いので、私が必死に質問を考えていると、屋上の扉が荒々しく開放された。
「・・・あらあら、今日は珍しいところに居るじゃない?」
屋上に姿を見せたのは、3人組の女子生徒だった。見覚えが無いので、おそらくクラスメイトではない。だが、この場所に知り合いが居る様である。矢継さんの表情を横目で窺ってみると、苦虫どころか毒虫を噛み潰した様な呆れ顔で、明らかな嫌悪感を表現していた。
「捜したよ矢継さん、屋上に居るなんて珍しい・・・というか、邪魔しちゃった?」
グループのリーダー格と思われる女子が、ネットリと嫌味ったらしい口上を述べてくる。私と矢継さんの事を茶化し、彼女の挑発したいらしい。
「・・・別に、この場所について聞かれただけ」
矢継さんは努めて平常心を装いつつ立ち上がり、足早に屋上を去ろうとした。
「・・・ちょっと待ちなよ」
リーダー格の女子が呟くと、残りの二人が矢継さんを背後から取り押さえた。この展開に馴れているのか、彼女は抵抗するものの、どこか諦めた様な達観した表情を浮かべている。
「っ・・・何をする気?」
「何って、そこの男子に薔薇よりも面白い事を教えてあげようと思ったの。それなら、貴女もこの場に居た方が良いんでしょう?」
「やっぱり・・・私じゃなくて、彼を辿ってきたのね」
「ええ、貴女のクラスに転校生が来たって聴いたから、御挨拶しておこうかと」
リーダー格の女子は、歪な笑みを矢継さんに向けると、次いで私の隣に腰掛けてきた。
「初めまして、私はC組の笹木。矢継さんとは以前、同じクラスだったの」
口角をひきつらせた様な笑みを向けてくる、笹木という人物。何かしらの激情を表情という仮面の下に隠し持っているようだ。こういう気味の悪い危険分子と関わりたくは無いが、変に波風を立てないのがベストだろう。
「初めまして、E組の駒井です・・・随分と穏やかじゃない雰囲気だけど、何事なのかな?」
「大した事じゃないのよ? 貴女の世話係がどんな人間なのか、彼女が見ている前で教えてあげたくて」
「ぶっきらぼうなのに、割りと面倒見が良いって事?」
「そうじゃなくて、本性の事」
「・・・本性?」
「彼女はね、教師と付き合ってるの。しかも、既婚者の愛人として」
「へぇ・・・・・・で?」
私は思わず、ポロッと本心を口走ってしまった。そんな果てしなくどうでも良い事を伝える為に、こんな限りなく無駄な行動をしているのかと思うと目眩すら感じる。
「で? って・・・事の重大さが解らないの?」
「事の重大さと言われても、解らないよ・・・何の先生?」
「現国の先生・・・もう居ないけど」
「居ない? 居ないなら関係無くないかな? 何かゴメンね、期待通りの反応出来なくて」
「いや、それは・・・」
笹木は面食らった様子で、必死そうに次の言葉を思案し始める。私が告げられた事実に驚き、倫理観を振りかざして自分と一緒に矢継さんを糾弾すると思っていたのだろう。倫理観など、疾うの昔にお亡くなりなっているというのに。
笹木のグループに動揺が拡がったその隙を突いて、矢継さんが拘束を振りほどき、校舎の中へと走り去っていった。
「あっ、待て!?」
笹木と仲間たちは、血相変えて矢継さんを追跡していき、私は屋上に独り取り残されてしまった。
「・・・ああ、ランチ食べないと」
色々あったせいで、昼食の事を失念してしまっていた。私が昼食であるコンビニの菓子パンを取り出した。
「・・・大丈夫かな、矢継さん」
笹木が矢継さんの本性とやらを暴露した瞬間、彼女の瞳は殺意に燃えていた。あれは、昨日今日始まった出来事ではないのだろう。今回はお茶を濁せたが、私は介入すべきなのか、それとも静観を決め込むべきなのか。次に備えて最適解を見出だしておかねばなるまい。
そんな風に思案していると、またもや屋上に来訪者が現れた。矢継さんか笹木達が戻ってきたのかと思いきや、今度も見知らぬ女子である。しかも上履きの色からして、3年生に間違いない。男子の事が受け入れ難い世代と警告されたばかりなので、図らずも身構えてしまう。
先輩は薔薇を見上げたまま、動く気配が無い。ただ薔薇を見に来たのか、しかし警戒しながらパンの袋を開けようとした事で、こちらの存在に気付かれてしまう。
私が蛇に睨まれた蛙の様に固まっていると、向こうさんは何食わぬ顔で歩み寄ってきた。
「貴方・・・・・・見ない顔ね?」
この学校の生徒は話好きなのか、普通なら一瞥して終わりだろうに、臆する事無く話し掛けてくる。やり辛いというのが、正直なところだった。
「はい、転校生です」
至近距離で先輩を無視するのも非常識なので、ちゃんとした答えを提示しておく。
「見ない顔って仰ってましたけど、やっぱり判るものですか?」
加えて質問を投げ掛け、根掘り葉掘り聞かれない為の牽制球としておく。
「ええ、今は未だ男子の数が少ないから、嫌でも覚えてしまうものなのよ」
やっぱり嫌なんだな、と私は苦笑するしかなかった。
「それはそうと、屋上から駆け降りて来た子達と擦れ違ったのだけど、何かあったの?」
この先輩は、矢継さんや笹木らのチェイスを目撃したのだろう。つまり、私が巻き込まれていたのは知らないはずである。
「ああ・・・よく判らないんですけど、何かトラブっていたみたいですね」
「そう・・・それは、よろしくないわね」
先輩は神妙な面持ちで独り言ちると、そのまま踵を返して校舎内へと戻っていった。確かに、屋上にはちょっと変わった人しか訪れず、長居しないものなのかもしれない。
斯く言う私も、屋上を離れる時がやって来てしまった。昼休みが終わる余鈴が鳴ってしまったのだ。結局、昼食は食べられなかった。まあ、食欲もどこかへ去っていってしまったので、問題はない。
ゆったりと教室に戻った私は、自席の上に午後の授業の教科書が置かれていた事で、矢継さんが早退していた事を悟った。やはり、先程の一件が原因だろうか。それでも律儀に教科書を置いていってくれたのだから、頭の下がる想いである。だから迷惑にならない程度に味方をしようと、私は授業中に決意するのであった。
翌日、矢継さんは登校してきていた。どこか、深刻そうな表情で俯いている。
そんな彼女に、私は借りていた教科書を返し、感謝の言葉を述べるに留めた。
「・・・そう」
矢継さんは、拍子抜けでもしたかの様に呟くと、またゆっくりと俯いてしまった。知り合って2日目の人間には、深追いしない事くらいしか出来ないのが、少々歯痒くはある。だが、歯痒さを晴らしたいという気持ちは所詮、自己満足でしかない。私が積極的に参戦することで、事態を悪化させるわけにはいかないのだ。
昼休み、矢継さんは鞄を持ち、何処かへ消えていった。また早退したのかと思ったが、自席前の南野さん曰く、いつもの事らしい。その理由はすぐに判った、笹木達が教室を覗いてきたのである。
教室に矢継さんの姿が無いのを確認するや、またすぐに去っていった。私の顔を見て、一瞬面白くなさそうな表情を浮かべたのが癪に触る。あの様子からして、教室に矢継さんが居ると、昨日私にしたように彼女の醜聞を言い散らかしていくのだろう。それが矢継さんに対してクラスメイトが妙な反応を見せる理由、そして独りになれる場所を知り尽くしていた原因というわけだ。
これが毎日続いていては心身共にもたないのでは、そんな危惧が現実になったのは、その日の放課後の事であった。トイレに寄ろうとした私は、女子トイレから飛び出してきた矢継さんと衝突してしまう。
「痛っ!?」
驚いたせいで少々オーバーにリアクションしてしまったが、左手の甲に矢継さんが持っていたであろう縫い針の様なものが突き刺さっていた。
「あっ!?」
矢継さんも私に負けず劣らずのオーバーリアクションで針を引き抜くと、呆然とした様子でぷっくりと顔を出した血の玉を見据えている。まるで、誤って誰かを刺殺してしまったかの様に顔面が蒼白だ。
「ごめんなさい、駒井君・・・私、そんなつもりじゃ!?」
「え? あ、うん・・・これくらい大丈夫だよ。ごめんね、ビックリして大きな声出しちゃって?」
「違う、そうじゃないの・・・これはーーー」
矢継さんは必死に何かを訴えようとしていたが、女子トイレから怒号が響いてきたせいで、そのまま走り去ってしまう。
「矢継・・・さん?」
いったい、何がどうしたというのだろう。程なくして女子トイレから現れたのは、やはり笹木達だった。
「ワッ!!」
「うわっ!?」
鉢合わせたフリをして大声を出し、私は笹木達の出鼻を挫く事に成功した。あとは、矢継さんが逃げ切る為の時間を捻出させるだけである。
「駒井君!? 今、矢継さんが出てきたでしょう? どっちに行ったか教えなさい!」
血相を変え、頭に血が昇った様子の笹木。これは女子トイレで、何か穏やかではない事が行なわれていたようだ。
「見たけど・・・何があったの?」
「矢継さんを拘束していたら、針みたいなもので刺されたの、私たち!」
笹木は上腕の、刺されたとおぼしき箇所を見せてきた。確かに、矢継さんは針を所持し、ついさっき事故ったばかりである。この証言、嘘ではないのだろう。だが重要なのは、そこではない。
「というか、何で当然の様に拘束してるのさ?」
「それは・・・・・・関係ないでしょう!?」
「確かに関係ないけど・・・そうだ、絆創膏いる?」
私は鞄を開け、持参している絆創膏を人数分取り出した
「ばっ、絆創膏!? くれるなら、貰うけど・・・」
驚きを超えて困惑する笹木達に絆創膏を手渡していく。
「よく判らないけど、同じ針で刺されたなら傷を水で流してから貼った方が良いよ?」
「なるほど・・・そうじゃなくて、矢継はどこへ行ったの!」
「え? あっちに行ったけど、矢継さんって足速いね、もう見えないや」
私は、矢継さんが走り去ったのとは逆方向を指差した。
「っ・・・早く言ってよ!」
笹木達は、憤然と明後日の方向へ駆けていった。私の言葉を鵜呑みにするとは、相当頭に血が昇っていたのだろう。つまり、牙を剥いたのは初めてというわけだ。
「・・・雲行き、怪しくなってきたな」
何の義理も無いが、矢継さんと話をすべきなのだろうか。私は左拳を握り締め、その甲に目をやった。針の刺さった箇所が、嫌にヒリつく気がしてならない。
その日の晩、私は酷い高熱を出し、朦朧としながらベッドに転がっている。風邪やインフルエンザとは別種の寒気が全身に走り、重力が2割増しにでもなったのか身体を動かすのが難しくなっていた。
左手の甲を見て、私は意味もなく口角を持ち上げる。針が刺さった箇所は紫色に変色し、それは周囲の血管にも拡がっているのだ。あの針には、何らかの毒物が塗られていた。そう考えると、矢継さんの奇行の理由も説明がつく。
矢継さんは、あの質の悪そうな連中を毒殺、または痛い目を見せようとしたわけだ。暴論かもしれないが、誤って刺してしまった私に顔面蒼白で謝罪していたのにも、針に毒が塗られていたと仮定すれば納得がいく。
「あはは・・・馬鹿だなぁ、俺は」
何も間違えない様、自意識なんて棄てたはずなのに。また、感情が先行した行動を取ってしまった。自分を殺し切れなかった代償として、毒殺という末路が待っていたというなら、もはや笑うしかない。
そうこう考えているうちに、四肢から感覚が消え失せていく。まるで、頭と胴だけの生き物になったみたいだ。
「・・・うっ」
小さな呻き声を最期に、私は意識を失った。
何故、意識を失ったはずなのに意識を失ったと判るのか。例えば、誰も自分が眠る瞬間なんて判らないが、次に目を醒ました際に、あの時だと当たりをつけられる。それと同じ様に、意識を失った後に私が意識を取り戻したから、呻いた直後に意識を失ったと断定出来たというわけだ。
「意識・・・取り戻したんだよね?」
気が付くと、私は学校に居た。正確には、教室の自席に独りポツンと座っている。これは、どういう事なのだろうか。教室が夕暮れ時の如く茜色、というか赤に染まっている点からして、実は教室で寝ていたという仮説が生まれてしまいかねない。
困惑したまま、窓の外に目をやり、私は仮説が間違っている事に気が付いた。教室の窓から見える遠景の町並みには、明かり一つ点っていなかったのだ。まるで赤い霧にでも阻まれているかの様に、ぼんやりとしたシルエットしか認知出来ない。
これはきっと、夢を見ているのだ。確信した私は、頬を引っ張ってみた。
「・・・・・・痛い」
私は、痛みを感じている。そう、よく夢では痛みを感じないと言われるが、痛みが伴う夢というのも確かに存在するのだ。夢で殴られ、起きてもその箇所に痛みが残っていた事が、これまで幾度か有る。
しかし、ここまで自由度の高い夢は初めてだ。夢は夢と認識した時から明晰夢に成るそうだが、今この状態は明晰夢なのだろうか。確か、起きようとすれば起きられるはずなのだが、上手くいかない。
「・・・ん?」
窓から見える校庭に、人影が見える。霧のせいで影法師の様だが、確かに誰かが立っているのだ。何故かは判らないが、胃がキュッと持ち上がった様な気がした。原始の勘が、正体不明の警鐘を鳴らしている。
私はその警鐘に急き立てられ、教室を出る事にした。よくよく考えると、薄暗い学校というのは不気味である。とりあえず学校を出よう、そう考えて教室の扉に開けたその先には、誰かが立っていた。
「フオッ!?」
「ひっ!?」
私が声を出して驚くと、相手も同様に驚いていた。鏡かと思ったが、身長が違う。目を凝らしてみると、それは見覚えの有る人物だった。
「笹木・・・さん?」
「・・・・・・駒井君?」
その人物とは、いじめっ子グループのリーダーである笹木だった。
「何で駒井君まで、私の夢に? ・・・納得いかない」
これは俺の夢だろう、そう口走ってしまいそうになったのを、私はどうにか呑み込んだ。確か、夢がリンクする事もあると何かで見た気がする。その場合、重要なのは誰の夢かではなく、誰が居るかではないだろうか。
「俺までって言ったね、他には誰が居るの?」
「誰って・・・気が付いたら、明見と静華が傍に居て、よく判らないけど誰の夢か議論になったの」
明見と静華、おそらく子分の二人の事だろう。どっちがどっちかは判別出来ないが。
「二人は、何処に?」
「さあ・・・結論が出ない事に苛立って、私は飛び出してきたから・・・あれ、私はどっちから来たんだっけ?」
混乱する笹木には悪いが、少し状況を整理してみよう。この変な学校には、少なくとも私と笹木達が存在しているらしい。校庭に居たのは、二人のどちらかなのか。
「あの、笹木さ――」
校庭の件について質問しようとしたその時、何処からか甲高い悲鳴が響いてきた。
「・・・何?」
突然の悲鳴を訝しむ笹木と共に、私は廊下へと足を踏み出した。悲鳴が響いてきたと思われる方向を見ても、廊下は赤い光と霧のせいで見通しが最高に悪い。
「何って、悲鳴だよ・・・君の友達の、どちらかじゃないの?」
「確かに、明見の声に似ていた気もするけれど・・・?」
「連絡手段、無いの?」
「無いわよ・・・格好は制服だったけど、他には何も持ってなかったから」
「こっちと同じか・・・とにかく、様子を見に行かないと。笹木さん、どうする?」
「い、行くに決まってるでしょう!?」
こうして、我々は悲鳴の主を捜す事になった。だが、移動を開始しようとしたその時、事態は思わぬ方向に転がり出してしまう。
「オイ」
背後から唐突に、声を掛けられた。即座に振り返った私は、自分が目にした存在を理解する事が出来なかった。笹木の背後に、常人の2倍はあろう身長の巨漢が、静かに佇んでいたのである。笹木も振り返り、言葉を失っていた。
「オイ、モウゲコウノジコクハスギテイルゾ。イツマデ、アソンデイルツモリダ。ハヤク、カエレ」
その巨漢は、聞き取り辛い低音のしゃがれ声で、念仏みたいに何かを伝えてきている。どうにか判別しようとした私と対称的に、笹木は悲鳴を上げて駆け出してしまった。
「ゴッルゥァア!!」
巨漢は、地を揺るがす程の怒号を発しながら、手にしていた大きな出席簿らしき物を振り上げた。
「ニゲルゥナアー!!」
巨漢は出席簿を笹木に投げつけ、そのまま逃げる彼女の背中に深々と突き刺さった。衝撃で蹴躓き、倒れ込んだまま痙攣を繰り返している。自分の身長と同じくらいの鉄板が猛スピードで突き刺さったのだ、残念ながら致命傷と言わざるをえない。
想定外の凄惨な光景に私が生唾を呑んでいると、巨漢はゆっくりとこちらに顔を向けてきた。剥き出しの表情筋と強く食い縛られた歯茎、そしてギョロギョロと動き回る一つ目。およそ人間とは形容し難い様相の巨漢は、お前はどうするのかと問い掛けてきているかのようだ。
「・・・・・・帰ります」
全ては聞き取れなかったが、この巨漢は下校時刻、帰れと言っていた。それに出席簿らしき物を携帯していた事から、教師のつもりなのかもしれない。故に私は、素直に従うという答えを、弾き出したのである。
「・・・・・・」
顔がさらに近付き、私の眼前でハンドボールくらいの一つ目が飛び出さんばかりに動き回っている。返答を間違えたのか、私は直立不動のまま動けずに居た。
「キオツケテ、カエリナサイ」
腐臭の如き吐息を残し、巨漢は私の眼前を通り過ぎていく。横目で以後の動きを追ってみると、笹木から出席簿を引き抜き、彼女の髪の毛を粗雑に鷲掴んだまま、廊下の暗がりへと消えていった。指導室がどうとか、呟いていた気がする。
巨漢の気配が完全に消えた頃、私はようやくその場に片膝を突く事が出来た。心臓が激しく脈動し、またそれに呼応して呼吸がどうしようもなく乱れている。これ程までに消耗したのは、1500メートル走を全速力で駆け抜けた時以来だろうか。
今の邂逅は何と言うか、目の前で誰かが無慈悲に射殺された後、その銃口が眉間に突き付けられた様な、今までに感じた事のない恐怖感があった。情けないくらい、膝が笑っている。
四つん這いの状態で、私は笹木の倒れていた場所まで移動していく。そこには血溜まりが出来ており、引き摺られていった跡が生々しく残されている。生きているとは思えない、見たことの無い出血量だ。
「・・・まったく、何て夢だ」
そう言いながらも、私はある可能性について考え始めていた。ここに居るのは、矢継さんに針で刺された者ばかり。もし全員が既に死んでいるのであれば、この場所は恐らく――。
そんな絶望的な考えを打ち払うべく、私がどうにか立ち上がったその時、また別の方向から甲高い悲鳴が響いてきた。
この悪夢は、未だ未だ始まったばかりなのかもしれない。