僕らの爛れていない性生活 第一話 「Wanting attention」
「お邪魔しまーす」
小さい玄関で靴を脱ぐとほんの数センチ先の角を右に曲がる。
「おー、やっぱ広いですね!」
「散らかってるけどねー。あんま気にしないで。あ、それと聞き忘れてたんだけど」
犬って大丈夫?
もう既に奥のほうへと消えていった先輩が本当に今更ながら尋ねてくる。
「全然大丈夫ですよ。昔よく行ってた友達の家にも来客をめっちゃ噛む犬いたんでぁわぁ⁉」
大丈夫という声が聞こえたと同時に柵をあけたのだろう。
フローリングの床をカタカタ慣らしながら栗色の犬が一目散に駆けてきた。
そして、立った。
「え、なになに⁉」
戸惑いながら叫ぶも犬は離れない。
しっかりと二本足で立ちあがった後、僕の太ももに足をかけハーハー言ってくる。
僕が少したじろいで後ろに下がると足を再び地面につけて、僕の足の間をぐるぐるとくぐり始める。
そしてまた立つ。
「何がしたいんだ君は⁉」
また太ももに足を置かれてくすぐったさに悶えているとようやく先輩がやってくる。
「ポッキーだよ。あ、てか漏らしてんじゃん」
「え、マジ⁉」
僕は犬、改めポッキーから素早く距離を取った。
「最初から漏らしてた?」
「ううん、たぶんお客さんが来て興奮しすぎちゃったんだと思う」
最初にポッキーが立ち上がった場所がおおさじ2杯分くらい濡れていた。
先輩はポッキーを抱きかかえてその小さい水たまりをまたぐと、リビング横の和室にポッキーを移動させる。
僕もしょんべんをよけてリビングへ行くと、和室のポッキーがすぐさま柵の前で立ち上がる。
「こいつ立ちすぎでしょ。こんな立つの?」
先輩の笑い声が後ろでするが、僕はこの犬の強烈な圧力から目をそらすことができない。
幸いポッキーはおりこうさんな犬のようで、置くだけの簡単な柵でもそこに体当たりしたり足をかけて超えようとしたりはしてこない。
ただ柵の前で立つ。
そして目力で訴えかけてくる。
何かを。
何かは分からないけど。
強力に。
僕は何とかその圧力から逃れ、ふすまで和室からは見えない場所に移動する。
「とりあえず荷物置いたら?」
「はい」
素直にうなずいてそこに荷物を置かせてもらう。
来ていたコートは例の水たまりの始末を終えた先輩がハンガーにかけてくれた。
「来る人みんな驚きません?高木さんとかどうでした?」
「ん?高木さんはきたことないよ?でもそうだなー。驚く人は驚くかも。今の高梨君みたいに」
大葉先輩はそう言っていたずらっぽく笑った。
肩下まで伸びるその艶やかな茶色の髪を見てやっぱりきれいだなと思う。
「・・・なんかする感じじゃなくなっちゃいましたね」
「そう?私はそうでもないけど。まぁ、とりあえずお茶にしよっか」
大葉先輩はバイト先の先輩で、綺麗で愛想がよい。
そして21の若さで既婚者というとってもインパクトの大きい人だ。
普段から、年齢が近いというのと、シフトに入る時間が重なりやすく、そのシフトの時間が夜で閉店間際には暇になりやすい関係でよく話していた。
家がお店から近くて徒歩で通っているのは前から知っていたが、結構暗い道を通っていると聞いてから深夜までかかるときは家まで送るのが習慣になっていた。
今日もいつものごとくマンションの前まで送り、そのまま駅に帰るつもりだったのだが。
「ねぇ、今日旦那いないんだけど・・・・・上がってかない」
とっても静かに誘われた。
いつもはにこにこしている大葉先輩が、うつむき加減にぽつりとつぶやいた言葉は、その上気した頬とともに先輩がそういう気分なのだと伝えてきた。
「いや、さすがに女性一人の家に男上げるのはまずいでしょ。遠慮しときますよ」
「分かってるでしょ。そういうことよ」
「・・・・気まずくなりません?」
「高梨君次第でしょ」
エスカレーターで7階のこの部屋に上がる間、お互いの興奮した雰囲気にお互いに充てられて、ともすれば玄関につくなり始めてしまいそうな勢いだった。
あくまで紳士的であろうと努めてよかったと心から思う。
「ちょちょ!?な、なんなんだよ本当に!?」
こんな雰囲気でできるわけない。
お茶してる間にもポッキーはずっとこっちを見てクークー鳴いていた。
その視線があんまりにもあんまりだったので柵をどかしていいか聞いたら、キッチンに入れなければ構わないとのことだったので和室から解放してやったのだが。
「おい、そこはだめだ!」
股間に前足を置かれて思わず叫ぶ。
「あはは。近所迷惑だよー。高梨君」
「・・・すいません」
椅子に座っていようが立っていようが関係ない。
とにかく前足を載せてくる。
腕だったり脚だったり。
そして首を伸ばしてこちらを見つめて、カマッテとばかりに鳴く。
「なんていうんでしたっけ?」
「うーん?だからポッキーだよ」
「いえ、品種です。えーとゴールデンレトリバー?」
「高梨君って犬全然知らないんだねー。トイプードルね」
いたずらっぽいニヤニヤ笑顔。
普段よりもオフな感じがして一層綺麗だ。
なでてやると途端に寝転んで腹を見せるポッキーのお腹をさすってやりながら大葉先輩の笑顔に見とれる。
そろそろ本題に入ろうとして、出されたコーヒーに口をつける。
少しだけ眠くてぼんやりしていた頭が冴えわたるようで、ふたたびポッキーが載せてきた前足が余計にくすぐったくなる。
ぶんぶんという音がしそうなくらいに、というか実際少し音が鳴っているしっぽを見て思ったまま先輩に聞いてみる。
「こんなおもちゃありませんでしたっけ?こんなぶんぶん振れるやつ」
「何急に下ネタ?バイブのこと?」
「先輩もうする気ないですよね?そうなんですよね?」
「えーごめんって。ムード作りだったの?」
「いや、そういうつもりで言ったわけじゃないですけど・・・」
ポッキーの体は意外と固い。
もちろん鉄とかみたいな固さじゃないけど、毛並みの下にはクッション性の低そうな肉がついているだけなのだと思うと、そのほんのちょっと重たい足を無理やり外したりとかはできなかった。
小一時間ほど先輩とおしゃべりしながら撫でてやったりとぽつぽつ相手していると、だんだん疲れてきたのか床に寝そべって動かなくなった。
「やっと静かになりましたね」
「そんなに嫌がってなかったくせに。あんまりかまってくれないから座ってる間は諦めたんだね」
「そうですか」
先輩の瞳がすっと細くなる。
こちらの奥を覗き込むようにじっと見つめられて、不自然に目をそらしてしまう。
ねぇ、しない?
そう聞いているのだと、何となく理解して。
そっとテーブルの上に置かれた大葉先輩の手に触れる。
ゆっくりとおそるおそる手を伸ばしたのに、僕の手が先輩の指先に触れた瞬間、大葉先輩はバッと手を起こして自分の指と僕の指を絡めた。
お互いに手を探り合いながら、テーブル越しに顔を近づける。
額が触れて、唇が触れそうになる。
「・・・ポッキーもいるし、場所移さない?」
僕の唇にその長くて細い人差し指を当てて、熱い吐息でささやく。
とろんとした視線に充てられて、僕は熱に浮かされたようにふらふらと立ち上がる。
先輩も立ち上がって僕の腕の中にそっと潜り込む。
「キスはするんですね」
僕の精一杯の強がりを妖艶な微笑一つでいなすとそっと目を閉じて、おとがいをあげる。
先輩の小さくて柔らかい体を抱きしめて、そのぬくもりに包まれたまま顔を下げる。
「・・・・・うへっ」
「・・・・・った」
ポッキーが僕のおしりにタッチしていた。
「疲れたとか嘘じゃないですか。立ち上がったらめっちゃついてくるじゃないっすか」
「えーあたしそんなこと言ったっけ?座ってる間は諦めたって言っただけだと思うけど」
「・・・・そうでした」
一人で勝手に先走ってしまったらしい僕は都合のいい解釈をしてすっかりポッキーのことを失念していたらしい。
よくよく思い返してみると僕が席を立った時点であの特徴的なカタカタ音はしていたような気がするし、なんなら足元を駆け回っていた気もする。
あの時はそれよりも重要なことが目の前にあって集中し切っていたので意識の外だったが。
ソファで並んでテレビを見ながら、僕たちは肩を寄せ合う。
先輩は膝にポッキーを載せてその背中をゆったりとしたリズムでさすっている。
「なんか普通にただの恋人みたいっすね」
言ってからしまったと思って、いやポッキーがいるせいで普通にくつろいでるだけじゃないっすかとポッキーの憎まれ口を叩こうとすると。
「それじゃ、いや?」
僕の言葉を遮って、大葉先輩が見上げてくる。
「・・・・・いえ、ちょっと思ってた展開と違ったっていうか」
「ふふっ、なにそれ盛りすぎでしょ」
「先輩が誘ったんじゃないですか⁉」
したかったというよりも、愛してほしかったのかもしれないと、少しだけ大葉先輩がかわいそうになって。
「ポッキー、お前がいたらできないよな?」
ひじに濡れた鼻をくっつけてきた犬に謎の問いかけをする。
日付を跨ぐまでそうしていて、テレビの番組が静かで味気ないものに変わってきたところで僕らはリビングを出て順番にシャワーを浴びた。
ポッキーは普段はもう寝てしまっている時間らしいのだが、来客が来た興奮で今日はまだまだ元気ハツラツと言った体だったが、寝床である和室のクッションの上に運んで僕らはポッキーにお休みを言った。
柵を超えないときにも思った通りポッキーはおりこうさんの犬なようで、しっかりとふせの指示を守ってクッションに寝そべった。
これできるなら最初からしてほしかったと先輩に言うと、まぁまいいじゃにゃい、と誤魔化されてしまった。
結局僕らはほんの数回だけ肌を重ねて、一緒に大葉先輩の狭いシングルベッドで眠った。
「ベッドやっぱり、二人だと狭いですね」
「狭いおかげでこんなにくっついていられるんだよ?」
感謝してよとばかりにかわいらしいどや顔をする先輩がいつもより数段魅力的で、らしくもなく満たされた気持ちだった。
これは人によるのかもしれないけれど、彼女でもない人と寝た後の朝は少しだけ気恥ずかしい。
けど気まずくないのはきっと先輩のおかげだ。
朝、夢現の状態で目をあけたとき、綺麗なその顔が、まるで愛しい人を見るように、甘い声でおはようと囁いた。
昨日はいい夢見れた?あ、正確には今日か。
昨日がまるで何も間違っていなかったようなそんなけろっとした態度でいてくれたからだ。
でもやっぱり裸なのは少し恥ずかしかった。
先輩もそこだけは恥ずかしそうにしてさりげなく隠してたし。
朝、大学に行く僕は先輩の家で朝食をごちそうになって帰ることになった。
最後まで大葉先輩自身のことは話さなかったし聞かなかった。
帰り際、朝から元気なトイプードルことポッキーはまたしても僕の太ももに前足を置いてきた。
せっかくだしと思ってポッキーを抱いていいか聞いてみる。
「え、獣姦?私そういうのはちょっと・・・」
「分かってて言ってますよね⁉」
快く許可してもらえたので、その想像以上に暖かくて繊細そうなお腹に触れて持ち上げてみる。
足がバタバタと震えていたけれど、そんなに嫌がるそぶりはなかった。
見よう見まねでおしりに腕を当てて体を支えてやる。
「もっとね、抱えるようにしてあげるの」
先輩がアドバイスしてくれる。
ただよく分からなかったので、とりあえず片手で小脇に抱えてみる。
「うわっ、ごめんよ。嫌だったか」
瞬間、急に暴れ始めたポッキーに謝って地面におろしてやる。
「あはは、違くてね。こう」
とてとてカタカタ動き回るポッキーを再び捕まえて大葉先輩がお手本を見せてくれる。
しっかりと頭の中でそれを整理して今度こそと地面におろされたポッキーに手を伸ばすと、さっと逃げられてしまった。
「相当嫌だったみたいだねー」
ドンマイと肩を叩かれた。
ポッキーが逃げて寝そべったところにたまたま僕の荷物が置いてあったので、それを取ろうとして近づくそぶりを見せただけでポッキーは一目散に逃げだした。
「あんなにカマッテカマッテって来たのに・・・」
「あははは・・」
残念ながら最後の最後に嫌われてしまった僕は、部屋でポッキーにさよならをしてお家をおいとました。
「わざわざ出口まで送ってくれなくても大丈夫ですよ」
「いいからいいから。無理言って来てもらったわけだし」
そんなことはない、と言おうとしてやめた。
なんか恋人みたいで気分が良かったからというのもあるし、大葉先輩がそうしたいように思えたからというのもある。
マンションの出入り口で、先輩は手を振ってくれた。
「ほんとにありがとね。また来てよ」
「それって・・・・・・いえ、はい、その」
ちょっと俗っぽいことがよぎったけれど、そういう雰囲気じゃないことくらいは分かったので茶化すことはしなくて。
かわりになんて言うのか分からなくてどもってしまう。
ただ、あの衝撃的で、瞳の奥にカマッテという狂気すら感じさせる犬に嫌われたままなのは寂しいかもしれない。
「・・・・・ポッキーに会いに来ます」
「・・・・・ぷっ。大好きになってんじゃん」
最後に大葉先輩は、花の咲いたようなとびっきりの笑顔を見せてくれた。
どうも初めまして。初投稿になります。
友達の家に遊びに行ったら強烈な犬がいたので書いてしまいました。
まだまだ拙い文章ではありますが、楽しんでくだされば幸いです