夜景と冷蔵庫
わたしは冷蔵庫、アノフラテック社製RZK―587。正確にはそれに搭載された人工頭脳JZ―149ということになるのかもしれないが、でも例えば人間ならば脳に型名がついていたり、その型名で認識されたりすることはないのだから、わたしもRZK―587と名乗っていいはずだ。もっともRZKー587というのは冷蔵庫としての型名だから他にもたくさん、特にこの東京では少なく見積もっても一万台はいるだろう。だからといって人間的な個別名が欲しいとは思わない。というのもわたしは人間のように外に出て他の自分と同じ型式のものと区別する/される必要がないからだ。清住ハイエタリーパーク7507号室のRZK―587でじゅうぶん識別できる。いや実際のところ型名すら不要で、清住ハイエタリーパーク7507号室の冷蔵庫でじゅうぶんだ。というか、わたしを使うのは浪子ひとりなのだから、冷蔵庫、だけで通じる。もっといえば、呼ばれる必要すらないないのだが。これまでに浪子に、あるいは他のいかなる人間にもいかなる名前でも呼びかけられた経験はない。
浪子の生活はひどく不規則だ。明け方に帰ってきて、午後から出かけたかと思うと、そのまま三日ばかり帰ってこなかったり、あるときは二晩ほどTVを見続けたかと思うと、そのあと二十時間くらい連続で寝ていたり、はたまた夜中、いわゆる草木も眠る丑三つどきにどこかへ出かけ昼頃帰ってきてそのまま寝てしまったり、といった具合だった。
不規則な生活のあいまに、浪子は部屋に男を連れてくる。今日は若い男だ。
浪子がシャワーを浴びているあいだに勝手にワインを取り出して飲んでいる。
「さあどうぞ」あがってきた浪子が髪の毛を拭きながら言う。
「いい景色だな」
「毎回それ言って、よく飽きないわね」
「この夜景を見ながらワインを飲むのが最高なんだ、これは何度言っても、言葉にできた気がしないよ」
「さあ、早く浴びてらっしゃい」
浪子のような若い女が――もっとも、若いといっても三十はとうに回ってはいるのだが――このような摩天楼の、しかも最上階に住居をかまえることができるのには、もちろんそれなりの理由がある。浪子は控えめに言ってもかなり有名な女優で、その芸名を聞けば言わんとすることは納得していただけると思う。
男がシャワールームから出てくると二人はワインのグラスとボトルを持って寝室に消えていった。しばらくして男がひとりで出てくるとそのまま帰っていった。
浪子の部屋にあがるのはこの若い男だけではない。年の頃は六十をひとつふたつ越えていると見られる男が月に二度、第一と第三水曜日にやってくる。六十を越えるといってもまったく老人くさくはなく、体も頑健で動作も活発だった。髪の毛はないがむしろそれが押しだしの強さを補強している。
「どう過ごしていた?」男が言う。いい声だ。
「まあふつうにね」浪子は男のジャケットを脱がせてやり、ハンガーを壁ぎわにかけた。男がソファにゆったりと腰をおろしているあいだにかいがいしく飲み物を作る。
浪子に呼びかけられたことがない、と言ったが、正確には名前で呼ばれたことがないというだけで、浪子からは日常的に話しかけられている。
「ビール急速冷蔵して、すぐ飲みたいの」
「こないだのあれ、あさっての晩食べるから。解凍よろしくね」
?あれ?というのは冷凍魚のことだ。
「これちょうどいい温度でお願い」言いながら肉や野菜、ワインを入れる。
マンションとの連携により、背面に接続されたパイプから配達される食材を自動的に入れられる機種もあるが、わたしはそのタイプではないので持ち主――浪子が外で入手してきたものを人力で入れる。そのときが浪子とぼくの会話時間だ。毎日決まった時間ではないけれど。さっきもちょっと触れたように、毎日ですらないけれど。
浪子は長期ロケとやらで、二週間ほど帰って来ない、と言った。
「しっかり保存たのむわよ」と、大量の食材を残していく。
長く家をあけるならふつうは冷蔵庫など空にしていくべきなのに、と思われるかもしれない。
しかし浪子の考えによれば、長期外出のあとはしばらく家から出たくない、その間はあるものだけで暮らしたい、とのことである。大量に買い込むのは、こんど家を出る気になるのがいつになるか自分にもわからないからだし、なにを食べたくなるかもわからないからだ。
ならば通販の宅配という手があるではないか。――いやいや、食物は見て直接手にとって選びたいのだ。ロケのあと疲れた体で買い物にいきたくないということもあるが、ロケ終了後に食べるものを選んでおくことによってロケへのやる気を高めるのだ。
ということらしい。
三週間後、夕方ごろ帰ってきた浪子はしかし着替えるやいなやすぐにまた出かけると、真夜中過ぎに前後不覚に酔っぱらって今度こそ本当に帰宅した。
男が送ってきていたが、これは初めて見る顔だった。
「ほら足元に気をつけて」
「ご苦労であった」
男が浪子を抱えるように玄関をあがり、
「ほら靴脱いで」
しかし浪子は足もとを靴脱ぎに残して、そのまま廊下に倒れてしまった。
「いい暮らしがしたかっただけなんだよねえ」
「なに言ってるの、ほら立って」
浪子の靴を脱がせた男は、自らも廊下にあがり、浪子を助け起こした。だが浪子はすぐにまたぐにゃぐにゃとへたりこむ。男は浪子を抱えあげようとして――たぶんプリンセス・リフトをしようとしたのだろう――浪子がびくともしないのであきらめて、両脇に腕をからませてずるずるとひきずって寝室のまえまできた。
男はそれほど若くもないし、体格もどちらかといえば貧弱なほうだった。
「寝室あけるよ」
「んふふ、だめえ」
「なに言ってるの、ほら立って」
「いいのぉ、ここで寝る」
「風邪ひくよ、ほら」
「てゆうかなんでここが寝室だって知ってるのよぅ?」
男は返事をしなかった。
「あけたらだめよ、プライバシーの侵害よ」
「じゃあ、ぼく、もう帰ってもだいじょうぶかな。ひとりでベッドに行ける?」
「帰ったらだめ。ほら、飲み物でも自分で作って飲んでて」
男は息をふーっと吐きだした。たぶんため息をつきかけて、そうと悟られないように大きく息を吐いたのだと思う。それでも浪子の言うことに従って、ホームバーで水割りを作ってソファに腰かけてひとりでやり始めた。浪子はリビングの、寝室につながる扉の前で寝転がったままだ。
いつのまにかすーすーと音がして、男もソファの上で寝てしまったようだった。
さっき男は浪子に風邪をひくと言ったが、この部屋の空調は完璧に保たれているから、そんな心配はないのだった。ここから推察できるのは、男はそれほどいい部屋には住んでいない、ということだ。
つぎの朝、浪子は目を覚ますとシャワーを浴び、メイクを済ませて着替えると、男を起こした。
「でかけるわよ」
「ん……ああ」寝ぼけたような声を出していたが、すぐにぱっと起き上がりテーブルの上のグラスに手を伸ばした。
「そんなのいいから早く」
「いや、でも、かたづけないと」
「あたしがやっとくから、早く」浪子はさっさと玄関に向かう。
「あ、はい」慌ててグラスをもとの場所に戻して立ち上がり、浪子のあとにしたがう。
若い男が今日も来たようだった。
夕方の五時だったが、浪子は寝室からのそのそと出てきた。全裸だった。
「なによぉ」
「あっひどい、自分で呼んどいて。遊びいく」
この会話はインターフォンごしに交わされたものだ。若い男はまだマンションの入り口にいる。
「そうだっけ? まあいいわ、今日は中止。じゃあね」早口に言うと、相手の返事を待たずインターフォンを切断して、浪子は寝室に戻った。
夜の九時に再びベルがなったとき、浪子はリビングで柔軟体操をしていた。ちらりとモニターを見ると、すぐにインターフォンに飛びついた。
「早かったかな」いい声だ。
「そんなことない、すぐに行くから五分だけ待って。あ、それとも上がって待ってる?」
「いや、ここで待ってる」
浪子はクローゼットに駆け込むと、一分ほどで出てきた。部屋着のピンク系統のスウェットから、外出用のグレーのスウェットに着替えていた。キャップをかぶり、スポーツバッグを持っている。そのままバタバタと部屋を出ていった。
約三時間後に帰ってきたときは、髪の毛のない六十くらいのいい声の男を伴っていた。男も今日はラフな格好をしている。浪子はスウェットを着ていたが、それは出たときとは違うものだった。
「なに飲む?」男をソファに座らせてバーカウンターのほうに歩きながら浪子が言う。
「ウーロン茶」
「たまには飲んだら?」
「飲んだらおしまいなんだ、毎度すまんが」
「ううん」浪子は首を横に振った。「いつも同じことを訊いてごめんなさい」
「きみはやってくれ、おれにかまうことはない」
「あたしも同じのにする。いっしょに飲みたくて、つい訊いちゃうの、ごめんなさい」
「きみもほどほどにしておいたほうがいい。女のほうが男よりもたいへんだぞ」
浪子はウーロン茶のグラスを二個持ち、ソファの男の横に座った。
「うふふ、そうかもしれないけど、なかなかねー」頭を男の肩にもたせかける。
「たいへんだぞ、二度と飲めなくなるんだ」あくまで真面目に、いい声で言った。
「ほんとにそんなに飲めないものなの? たまに飲むくらいダメなの?」
男は少し長い間を取った。どのように説明しようかと考えているようだった。そんな様子に慣れているのか、浪子も黙ったまま待っていた。
「せっかく長いこと、それこそ何年も飲まなかったのにある日、飲んでしまってまた振出しに戻るやつもいる。スリップと呼ばれてるがね。また一日目から禁酒をやり直しだ。その前にまた入院する必要が出てくるものもいる。だがやり直せるならまだ幸せなほうなんだ。そのまま飲み続けて死んでしまうものも多い」
「ふうん」浪子はやや不満な声を出した。
「長く楽しみたかったら、たしなむ程度、たまに飲む程度にしておくんだ」また少し間をおいて、「本当は飲まないに越したことはない」と言った。
浪子が何も言わないので、さらに、「こんなことを言うと特に酒好きの人間にはうるさがられるから、言わないほうがよかったかな」
しばらくふたりとも黙ってグラスを傾けていた。
「あなたといっしょに酔ってみたい、と思ったの」
「この夜景ときみだけで、もう充分に酔ってるよ、わたしは」きざなセリフだが、髪の毛のない頭といい声で言われると気にならない。いい声というのは、たとえ電話帳を読み聞かせたとしても人をうっとりさせるものなのかもしれない。
「うふふ」満足そうな声をあげて、浪子は体全体を男にもたせかけた。
名前のわからない登場人物が増えてきてまぎらわしいので、このあたりで仮の名前をつけておくとしよう。
若い男、これはツバメとしよう。女権論者平塚らいてうの年下の愛人が自分のことを燕に模したことから、年若の男性愛人をツバメと呼ぶことが一時流行った。
六十過ぎの、髪のない男はパトロンと呼ぼう。これもイメージ通りだ。
世話焼きだが、それほど若くもないし、体格もどちらかといえば貧弱な男はマネージャーと呼ぶことにしよう。本当に浪子のマネージャーなのかどうかはわからないが、部屋に上がったのに浪子に指一本触れないとは、商品に手を出すことをきつく戒められていためだとしか考えられないではないか。
もちろん浪子の住処に来るのは男ばかりではない。たまに何人かの女子が集まって、明け方までどんちゃん騒ぎをすることがある。
「ここの夜景、最高だよねー」
「ザ・トーキョー・ライフ、って感じだよね」
「でもこのきれいな夜景の下に、どろどろとした人間模様があるんだよね」
「東京の夜景は残業でできている」
「なにそれカッコイイ」
「ちょっと哀愁も感じさせていい感じ」
「むかしちょっとネットで流行ったよね、リツイートとかされて」
「ハルコさんそういう歴史に強いから」
わたしの大部分は言語Pythonによって記述されている。
OSはPyedPyper。CC(中央制御)方式のマイクロカーネルで、奇数個のMPUコアのそれぞれにカーネルが乗る。CC方式というのは、中心となるカーネルが配下のカーネルに対して指示を出す方式で、旧来の用語であるマスター−スレーブ方式と呼んだほうがわかりやすい人も多いと思うが、ポリティカル・コレクトネスの観点からこの呼称の使用は現在では推奨されない。マスターはコントローラー、スレーブはサブコア、もしくはサブという呼称が現代では一般的だ。MPUコアが奇数個なのは、対称型に構成された従属コアと、その上に立つセンターコアが存在するからだ。従属コアはサブ、センターコアはコントローラーのカーネル用としてそれぞれ用意されている。話はそれるが、非対称型CPUにおいては、センターコアを狭義のCPUと呼び、従属コアを狭義のMPUと呼ぶ場合がある。さらに余談となるが、PyedPyperはモノリシックOSのOpPyを基盤としてマイクロカーネル化したものだ。さらにたどれば、OpPyはPyOSから派生したもので、セキュリティを強化したというのが売りである(OpPyというのはOpenPyOSからきていると言われている。OpPyの創始者はこれについて肯定も否定もしていない)。
それぞれのマイクロカーネルはマルチスレッド機能を持ち、さらに各スレッドはマルチタスク動作し、さらに各タスクはサブタスクを制御し、サブタスクは複数のプロセスを……といった具合に、OSの動きはフラクタル的なものを形作っている。
OSの上に、人工知能プログラムPylotが搭載されている。開発者は人工知能ではなく義脳と名づけている。アーティフィシャル・アームやアーティフィシャル・レッグが義手や義足と訳されるならば、アーティフィシャル・インテリジェンスは確かに義知あるいは義知能、とでも訳されていいかもしれない。もっとも元の語がアーティフィシャル・ブレインではないのだから訳語として厳密なものではないが。語感のおさまりを優先したということなのだろう。電気製品メーカーがこれを冷蔵庫向けにカスタマイズしたものがJZ―149である。
いちおう、「マネージャー」というあだ名には理由がある。
マネージャーが来るようになってから、それまでひと月に一度くらいの頻度でやってきていた女が来なくなったのだ。この女は合鍵を持っていたらしく浪子が遠隔操作でマンションの入り口を開けなくても上がってきて、さらに浪子の部屋にもロックを解いてあがってきていた。それがぱったりと来なくなったので、つまり女からマネージャーに、マネージャーが交代したと推測される。まぎらわしい言い方になったが、初めのマネージャーは貧弱な男のあだ名、次のは職業としてのマネージャーを指す。
浪子の生活はむかしからだらしのないものだったので、しばしば女のマネージャー(推定)が迎えに来ていたのだ。
マネージャーは、男、ということもありさすがに合鍵は与えられていないようだった。しかしマンション入り口のゲートは通過できるらしく、玄関チャイムが鳴らされ、ドアがどんどんと叩かれるようになった。
ご苦労なことに浪子がインターフォンに応えるまで平均五分間マネージャーは扉を叩きチャイムを押し続ける。浪子はだらしがないわりに仕事に対しては妙に真面目で時間に関して厳しい。かならず応えるまで呼び出し続けるように言っているのだ。
起き抜けの声でインターフォンに対応してから三十分後に部屋を出る。マネージャーはその間、ドアの外で待っていた。
しかし帰還の際はマネージャーも部屋に上がり込むことが多い。ちょっと前に紹介したように、たいてい酔いつぶれた浪子を運んできて、そのまま帰っていくか、この部屋で寝入ってしまう。マネージャー自身もなかなか抜かりのない人物のようで、自分自身のスケジュールによって臨機応変にふるまっているようだった。彼が浪子に手を出したことは、少なくともこの部屋においては決してなかった。
パトロンに注意されているにもかかわらず、あいかわらず浪子は酒浸りだった。
浪子の部屋には上階があった。最上階の住戸にはオプションとして屋上階がつくのである。そこには三部屋あった。たいていの家庭では寝室やクローゼットとして使用しているようだったが、浪子はリビングの横の部屋を寝室兼クローゼットにしていた。おそらく酔っぱらって階段を登りたくなかったのだろう。
「結局」浪子が言う。「ドラッグなんかより体にはいいと思うんだけどねぇ」そしてグラスを飲み干す。
誰かに向かって話しかけているのではない。独り言だ。ここ最近、とみに独り言が増えている。
男に関してはこれくらいだが、女はどうか。
部屋に入った女子は何人もいるが、レギュラー的な女といえば二名しかいない。しかもこの二名は同時に来たことがなかった。知り合いでもないようだ。
ひとりは浪子の部屋でおこなわれる女子会のメンバーで毎回参加している同年代の女である。トモカという芸名のTVタレントで、高齢独身彼氏いない歴年齢的なキャラクターでバラエティ番組のにぎやかし担当の地位を確立している……ようだった。自分の役割をよくわきまえていて重宝されているらしいが、浪子にも同様の理由で重宝されていた。そのときの浪子の気分を読み最適なメンバーを集め、自分はけっしてアルコールに口をつけないにもかかわらず大いに酔っているかのように話題を盛り上げる。場を盛り上げる一方でつねに横目で浪子を観察しており、気に入ったメンバーの特定をし、しかし自分の地位をおびやかしそうなメンバーはリストから削り、また浪子が飽きた様子を見せたところですかさず散会する。幇間だ。
「最近、本を読むことに凝ってるんよ」
「やだー、奈々未さんたら知的ー」トモカは浪子を芸名で呼んだ(紹介が遅れたが、北崎奈々未というのが浪子の芸名である)。トモカがちらりと見回すとほかのメンバーもうんうんとうなずく。
「知的、っていっても小説ばっかだけどね」
「ううん、小説バカにして、読む人バカにするのがときどきいるけど、痛い人ばっか、素人向けに書かれた科学解説書かなんか読んで何かについて知った気になって、それだけならまだしも人に説明してくんの、感心したふりして聞くほうの身になってよ、ってカンジ」
「いるいるー」
「そんで浪子さん、今なに読んでるの?」
「ちょうど一冊読み終わったのが『夜行性』っていう古いミステリーだけど、難しくて。読み終わっても犯人が誰だったかもよくわからなかったわ。図書館で借りたから訳が古かったのかもしれないけど、ミステリーは難しいから今度はSFにしようかと思って。これから読もうとしてるのが『ミレニアム・ドラゴン タトゥーの女』ってやつ」
「へーどんな内容?」
「まだ読みはじめてないからわからないけど、タイトルからすると背中に入れたタトゥーが実は宝の地図になってる女海賊が宇宙せましと暴れまわる話じゃないかな。上下巻あるからしばらく楽しめそう」
「おもしろそう! 終わったらぜひ貸してね」なにか言いたそうなメンバーの娘を目を剥いて睨みながらトモカが言った。
もうひとりは浪子より十以上年上の、四十代後半から五十代前半くらいの女で、地味な服装、薄い化粧、銀フレームの眼鏡で月に二度ほど不定期にやってくる。
「あたし、このままでいいのかな」
「どうしたいの?」
ふたりはリビングのソファに並んで座っていた。
「最近、体がしんどい」
「まだ若いのに」
「医者で調べてもらったら、肝臓と腎臓が悪いんだって。くわしい病名は忘れたけど、疲れやすいんだ」
「入院とか、手術とか、しなくていいの?」
「うん。入院するほどのものでもないし、手術で治るようなものでもないって。どうしてもきつい、ってときは点滴する感じ」
「点滴。どれくらいやってるの?」
「うーん……月に……一回くらい?」
「お酒じゃないの? 減らせない?」
「今日は飲んでない。この時間で飲んでないって、あたし的にはすっごく珍しい」
「わたしに会う日だけじゃなくて、こう、普段から」
「なんかこの、夜景見てるとなんか、たまらない気分になっちゃって。つい飲んじゃう」
「すてきな夜景だものね。でもこれが原因だって言うなら、引っ越しも考えたほうが」
「うーん、でも夜景が見えなくなったらなったで、違う理由で飲みそう」
「自分でわかってるんだ。飲む人はそうなのよね。でもあなたみたいに自覚がある人は珍しい」
「しんどいから、あんまり働きたくない」浪子は話を戻した。
「主役はもうやめて、脇役にまわったら?」
「事務所には前からそう言ってるんだけど、なかなか」
「自分の希望は通らないの?」
「ミズショーバイですからね、思い通りには」
「ああ」この女のことは以後カウンセラーと呼ぶことにしよう。カウンセラーは少し考えてから言った。「でも、健康問題でしょう」
「事務所に言わせると、もっときつい人もいっぱいいるから。荒木順平なんか内臓もボロボロでそれでも向精神薬やめられなくて一日バケツ一杯くらい薬飲んでるとか、前島しず代はしゃきっとするためにイケナイ薬をやらないと外に出れないとか、他にもいっぱい聞かされた」
「えー、ふたりとも元気キャラじゃない。画面の中じゃ健康そのものに見えるけど」
「実物見たらびっくりするよきっと。顔色悪いし。TVだとメイクとか照明や加工でどうとでもごまかせるから」
「他の人がそうだからって。……浪子さんはどうしたいの?」カウンセラーは芸名ではなく、浪子を本名で呼んだ。
浪子は、ひょっとして眠ってしまったのではないかとカウンセラーが顔を振り返るくらい長い時間考えていた。
「もう少し、がんばってみる」
「だいじょうぶなの?」
「うん。生活の維持も考えなきゃいけないし」
「結婚とか」
「え?」
「考えない?」
やはり浪子は長いこと返事をしなかった。カウンセラーは今度は浪子を見ることなく、まっすぐ前を向いたままオレンジジュースをちびちび飲んでいた。
「いいひとがいればねぇ」浪子が言った。
「いま付き合ってる人たちは」
「帯に短し恋せよ乙女、なかなかね」
カウンセラーが帰ったあと、浪子は焼酎をロックで飲み始めた。
わたしのCPUはPyborgで、名前から予想されるようにPython5の命令をプリミティブに実行できる。ただし対応バージョンは5・3のみだ。ちょっと前に紹介したように、マルチコアで、狭義のCPUひとつに対し、16個のMPUを搭載している。正直、冷蔵庫にこのように過剰な性能が必要なのか疑問に思う。実際、冷蔵庫の機能にはCPUの能力の5パーセント程度、MPUは2個しか使用していない。
「顔色、すごく悪い」浪子の顔を見るなり、カウンセラーが言った。
「最近とみに調子が悪くて」カウンセラーをソファに案内し、オレンジジュースを用意しながら浪子が言う。
「仕事をセーブすることを考えて。わたしから事務所に言いましょうか」
「ヤスカさん、でも正規のお医者さんじゃないじゃない」
「そうだけど、友人として」
「診断書とかないと」
「まあ、そぉね。わたしとしたことが。忘れて」
しばらくふたりとも黙って飲み物を飲んだ。
「ほんとの、資格のあるメンタルの先生に相談する?」
「うーん、いよいよきついってなったらそれも考えるけど。もう少し」
また少し沈黙があり、それからカウンセラーが思い出したように言った。
「珍しく今日、バラエティに出るんでしょ?」
「うん」
「つけないの?」
「たいてい見ないんだけど、番宣なんて」
「たまには見ようよ」
浪子はTVをつけてバラエティ番組を映した。
「あはは、ずいぶんおちゃらけてるじゃない」
「ドラマが暗い役だから。バランスっていうか」
画面ではトモカと北崎奈々未が掛け合いをしている。
「すごーい、意外、つっちゃ失礼かもしれないけど、意外な才能あるのね、当意即妙の返し」
「台本あるもの」
「へえ、こんなバラエティでも」
「もちろん。リハーサルだってやるし」
「えっ、いまのサプライズは? 驚いてるじゃない」
「全部台本通り、リハーサル通り」
「驚いたふりしてるんだ」
「驚いた演技と言ってよ」
「なんだか夢壊れるね」カウンセラーはそう言ってから、話題を変えるように、「すっごく顔色いいじゃない」と言った。
「このとき――収録は二週間前だったんだけど――いまより顔色悪かったんだよ。体調も、立ってるのやっとで、リハーサルは椅子に座ってやったんだから」
「まったくそう見えないね」
「かなり無理してる」
バラエティ番組に続いて、北崎奈々未主演のドラマが始まった。
「あれ、パリ? フランスなんて、いつ行ったの?」
「合成だよ、バックは全部CGI。うしろ歩いてる通行人も含めて」
「へぇ、全然わからないね。映画じゃCGとかよく聞くけど、最近はドラマでもそうなんだ」
「最近でもない、ここ十年くらいはそう。アメリカなんかじゃ何十年も前からずっとそうだけど」
「そうなの。じゃあロケなんか行く必要ないんじゃないの?」
「そう。あれはスタッフやキャストの慰安旅行のためにやってるだけだから」
「そうなんだ」
「さらにいうと、ここ」浪子は画面を指さした。「間島秋生とあたしが向かい合って話してるけど、別撮りなのよ」
「そうなの?」
「ほらここ、握手だけ手のアップに切り替わったでしょ? これふたりとも別人の手だから。肩組んで歩き出したけど後ろ姿でしょ? ふたりとも別人だから」
「夢が壊れるわあ」
「むかしはセットを組んでて、それが安っぽいベニヤ板だから見ると夢が壊れるなんて言われてたけど、いまはセットすらなくてグリーンスクリーンの前でいろいろやるだけだから」浪子はTVを消した。「だからこの夜景、好きなんだ。これをずっと見るためにもがんばらなきゃ」
カウンセラーが帰ったあと、浪子はウィスキーの水割りを飲み始めた。
夜中近くになって帰ってきた浪子は、ツバメを伴っていた。
「なんで最近冷たいんだよ」ツバメが言う。
「なんども言ってるでしょう、体調が悪いのよ」浪子はコートを脱ぎながら言った。コートをソファに放り投げる。「もう、帰ってよ」
− 伴ったわけではなく、ツバメが勝手についてきたようだ。
「だからなんで僕に言ってくれないんだよ。相談してくれりゃいいのに」ツバメは浪子を抱き寄せようとする。
「あなたに相談したってどうにもならないでしょう、医者でもないくせに」浪子は両手のひらでツバメを遠ざけた。「疲れてるの、よして」
「あーひどい、僕傷つくよ」
「いい年した男が傷つくだついただ言わないでよ気持ち悪い」
ツバメの顔から表情が消え、青ざめた。
「言い過ぎてごめんね、でもホント体調悪いの、帰って」
「俺がそばにいてやるよ」
浪子は盛大なため息をついた。「悪いけど、本当に帰ってくれる?」
ツバメはくるりと背中を向けると玄関を出ていった。なんの創意もない、ありきたりな捨て台詞を残して。「ちぇっ、後悔するなよ」
浪子はあまり夜遊びしなくなった。夜に限らず家にいることが多くなり、以前はめったに見ることのなかったTVをほぼつけっぱなしにしていた。ついているだけで、観ているかどうかはわからないが。
浪子の活動がおとなしくなることに反比例するように、カウンセラー来る頻度が上がった。いまでは週一くらいのペースになっている。
「ロケに行くって言ってたのに」
「ごめんなさい、急に呼び出したりして」
「調子が悪いの?」
「旅行にも行けない、ってほどでもないんだけど、なんだか面倒で」
「それ、調子が悪いってことでしょ」
「体調より、人間関係なんだけど」
「そうか。華やかに見えて、たいへんだものね。一般よりドロドロしてそう」
この話題には深入りしたくないのか、浪子は話の方向を微妙にずらす。「前もこんな話になったけど、今は現地なんか行く必要ないのよ。実際、現地でやることって、観光名所を歩いてるところとるくらいで、台詞のあるシーンは全部スタジオだし」
「合成用の背景を撮ったりしないの?」
「それもやるときもあるけど、地元の会社に外注するから、ほとんどそっち使う。季節、時間帯、天気は自由にそろってるし、映像もデキがいいし」
「へえ。へんなこと言うようだけど、そういうこと語るときいきいきしてるよ。やっぱプロだわねえ」
「あらやだあたしとしたことが、なんだか述べてしまったわね。違う話をしましょう」
カウンセラーは、小一時間ほど雑談して、帰っていった。アルコールをちびちびと飲みながら他愛のない話をするのは浪子にとってよい気晴らしになったようだった。
今日はひさしぶりにパトロンがきた。
「最近、ジムに行っていないようだね」
「うん、ごめんなさい、いろいろ忙しくて」
「顔色がよくないな。栄養のあるものを食べてるのか?」
「だいじょうぶ。あなたこそちゃんと食べてる?」
いつも通り、ふたりはお茶を飲んでいる。今日はアイス緑茶だ。
「おれのことを心配することはないさ」
「だって」浪子は迷ったが、意を決して言った。「ねえ、ここに住まない?」
「ふふっ」パトロンはいい声で笑った。
「あたし、真剣よ」
パトロンは笑いを止めた。「俺だって、真剣さ」
少々の間があり、とうとう男が言った。「こうやって出入りしているのだって、きみにはよくないだろうに。すまない。俺はきみにとって疫病神だったようだ」
「ごめんなさい、もう言わないから、ここに来ないなんて言わないで。外で会うより、ここのほうが安全だし」
「きみは、ちゃんとした相手を見つけたほうがいい。いないのか?」
女は少しひるんだ。「さみしいこと言わないで」
またちょっとの沈黙があった。「あたしのこと、どう思ってる?」女が言った。
男は眉をひそめた。「きみこそ、俺のことをどうおもってるんだ?」
「言わせる? 気づいてないの?」浪子は男を見るが、パトロンは真面目な顔で見返すだけだった。「愛してるのよ」
「俺は、からかわれてるのかと思ってたよ」
「ひどいこと言わないで」女の声は少し震えていた。「あなたも、そうだと思ってたのに」
「俺だってきみのことは好きだ。誰よりも大事に思ってるからこそ、きちんとした人間と幸せになってもらいたい」
「だから、あなたと」
「冷静になれ。俺は芸能界のことはよくわからんから、ひょっとしてきみがその世界に未練がないというならそれでいいと思う。だがそれなら、ふつうの、しっかりした男と家庭を築くべきだ」
「あたしのこと嫌いなの?」
「違う、さっきも言った。俺は疫病神だった、本当に済まない」パトロンは立ち上がり、足早に部屋を出ていった。
浪子は追おうとして、ソファ立ち上がろうとしたが、ふらついてテーブルに手をついた。うつむいて額をおさえる。男はそれに気づかず、その間に玄関を出ていってしまった。
女はそのあと、窓際に座り込んで長いこと外を見ていた。
「別れたの」ふたり分のグラスを用意してソファに並ぶと、浪子は言った。
「どっちと? それとも、もっといるのかな」カウンセラーは、浪子のすぐ横ではなく一人分のスペースを開けて座る。
「どっちも」視線の向きはふたりとも窓外だ。
「こないだ言ってた人間関係って、それか。だいじょうぶなの、プロデューサーと別れちゃって」
「現存する唯一のプロデューサーってわけじゃないし。それに、干されたらそれで却ってありがたい、こうなっちゃうと」
「調子はあいかわらず?」
「悪い。ジンさんに振られちゃったのが痛い」
「えっ、ホームレスのほうには振られたの、振ったんじゃなくて?」
「ホームレスとか言わないでよ」
「ごめん」
「結婚迫ったら、逃げられた」
「そうなんだ。でも彼、インポなんでしょ?」
「インポとか言わないでよ」
「すまぬ」
「本人、気にしてたのかなあ。あたしは気にしてなかったのに」
「重かったんだろうね」
「体、ひとつでよかったのに」
「あっちからしたら、有名で、いいところに住んでいて、お金もいっぱいあって、男なんかよりどりみどりに見えるから、浪子さん」
「全然そんなことないのに」
「でも、そういうところ、見せなかったでしょ」
浪子は考えこんで、返事をしなかった。
「彼氏の前では強がっちゃったりとか、ない?」
「……あった」
「好きな人の前ではつい良い恰好しちゃう――」カウンセラーが浪子を見ると、うなずいている。「――んだけど、弱いところさらけだしてみたら?」
「そうね、そうする、ありがとう」
久しぶりにトモカ幹事の女子会が開かれた。新メンバーがひとり。
「女優の卵、ミリヤちゃんでーす」トモカが紹介した。
ひとりだけ紹介されても、浪子は他のメンバーも会ったことがあると言われても覚えていないのだが、そんなことは浪子を含めた誰も気にしていないのだった。
「感激です、トモカさんに無理を言って参加させてもらったんです」ミリヤが顔を上気させながら息を弾ませる。女優志望にしては演技過剰だ。舞台向けなのかもしれないが、日常生活上で見せる芝居ではない。
そう感じたのだろう、浪子はミリヤに冷ややかにあたったが、女優の卵は気にしている様子はなかった。周囲の冷たい扱いには慣れっこなのかもしれない。
宴たけなわ、だいぶ場もほどけてきたところで、ミリヤが浪子に話しかけた。
「奈々未さん、売れるためにはどうしたらいいんですか?」興味津々! といった顔つきだった。
浪子はミリヤをじろりと見た。「知らないよ、そんなもん。もしあるってんなら、あたしが聞きたいくらい」
「でも、奈々未さん売れてるじゃないですか」ミリヤは必死に言い張った。
「運だから」
「運、ですか」ミリヤはしょんぼりとなった。
「ま、あと、なんだかんだいっても、やっぱり才能はまた別に必要なんじゃないの?」
「才能。ですか」ミリヤは考え込む顔つきになった。そして、意を決した、というふうにあごをあげた。「わたしに、それはあるでしょうか」
「それはわからない。ただ、才能ってのも難しくて、あればいいってものでもないのよねー」
「はい……」ミリヤはこきざみにうなずきながら、続いての説明が待ちきれない、という顔になった。
「ない、ってのは問題外だけど、才能がありすぎても、才能に溺れる、っていうの? もう向こうから来るのを待っちゃうようになるんだよね」
「ええ……」ミリヤは定期的にうなずく。
「どの世界でもいっしょだと思うけど。もちろん、スポーツ選手のような、ある年齢だけに許される瞬間最大風速の才能は別だよ」
ミリヤの目は興味できらきらと輝いて、浪子を見つめている。
「デビュー作でものすごい輝きを見せて、誰もがすごい、才能ある、って絶賛した人が、男女を問わずだけど、それっきり消えちゃったってのをもう何回見たことか」
ミリヤはもう無言で、ゼスチャ―だけで続きを促していた。他のメンバーたちも、静かになって耳をそばだてていた。
「才能はね、ほどほどに、ってくらいが長続きするのにちょうどいいのよ。あふれるほどあるんだったらそれを小出しにする才能がまた別に必要になるわけ」
ミリヤがうなずく。
「でも長く売れるにちょうどいい才能が仮にあったところで、最初の一発、出てくるかどうかは運だから」
ミリヤはちょっと残念そうな顔をした。
「そこまで続けられるかどうか、ね」
「わたし、努力します」ミリヤがとうとう口を開いた。
「努力はあんまり関係ないかな」
ミリヤは「え?」という表情になった。
「あきらめないで、毎日毎日ひたすら同じことを繰り返しやり続ける、ってのもまた才能。実は努力しちゃう人のほうがあきらめも早かったりするし。で、世の中にはブレイク寸前であきらめちゃった人と、ずっと続けたけどとうとう世に出ることなく生涯を終える人であふれてる」
ミリヤはかなり残念そうな顔になった。
「運よ、運」浪子の顔色が悪くなり、不機嫌な様子になった。熱く語ってしまったことが気恥ずかしくなったのかもしれない。
「はーい、宴もたけなわ、盛り上がっているところすみませんが、明日もあります、ってもう今日だけど。一次会はこれにてお開き、若い人たちは自分らで二次会に流れてくださぁい。おばさんは疲れたからもう帰るけど。じゃあ浪子さん、締めをお願いします」場が白けそうになる一瞬前にトモカが言った。
浪子は数日間、泣いて過ごしていた。泣くためのカロリーはアルコールから摂取するのみだった。五日ほどで買い置きがなくなると、あとはときどき水道水を飲むだけになった。それも涙のストックを補充しているようなものだった。
「ちょっとどうしたのだいじょうぶ?」
部屋に入ってきて浪子の様子を見るなりカウンセラーが駆け寄った。
もうこのときには、浪子の涙は乾ききっていた。体のほうもすっかり水気が抜けて干からびたようだった。
「ジンさん、死んじゃった」無感動に浪子が言った。
「え?」
「ジンさん、死んじゃった」
「どういうこと? なんでそんなこと――」
「探しにいったら、酒場で、お酒飲んで、階段から転げ落ちて、頭打って死んだって。ニュースにもならなかったんだけど」
単にホームレスが死んだというだけではニュースにはなるまい。カウンセラーもそう思っただろうが口には出さなかった。「そう……つらかったわね、残念ね」
「あたしのせいだ」
「ばかなこと言わないで」
「あたしが結婚なんか迫ったから。それでお酒、やめてたのに、飲んで、うっ」また涙が出てきたようだった。「だって、あのすぐあとだったみたいだもの」カウンセラーが否定しそうな様子を見せたので、それにかぶせるように言った。
「自分を責めないで。彼だって大人の男だったわけでしょう。自分の行動には責任を持てるはず、あなたがそんなこと言うのは、かえって侮辱することになるよ」
「あたし、二週間もたってから知って」浪子が言った。
「よしよし、だいじょうぶだから」カウンセラーは片手で浪子の頭を包み込み、もう一方の手で髪をなでた。
かみ合わない会話を続けたあげく、カウンセラーは浪子に食事させることに成功した。家にあった米で粥を作って食べさせた。
それから一週間、毎日カウンセラーが来て浪子の食事の用意をした。
「ありがとう、おかげで助かった」
「これ、別料金よ」カウンセラーはにっこりと笑った。
部屋に入ってきたカウンセラーの顔はやや青ざめていた。
「ほんとに引退するの?」
「うふふぅ、だって仕事ないんだもの」
カウンセラーは眉をひそめた。「飲んでるのね? まだ夕方じゃないの」
「あれ? 夜中だと思ったんだけど」
「プロデューサーに干されたの? 関係ないって言ってたじゃないの」
「うふふ、プロデューサーは世の中にいっぱいいるけど、あたしを使おうってプロデューサーはいなかった、ってことなのねー」
「前は確か最低でも二、三人はいるようなこと言ってなかった?」
「はーい、確かに。でもそのプロデューサーが企画を通せるかどうか、ってのはまた別の話なのよねー」
「でも北崎奈々未なんて、有名なのに」
「こないだのドラマがこけちゃったからねー。主役なのに途中から大幅に出番減らされたし」
「別れたプロデューサーのせいで」
「そう」
「なんでそんな優秀なプロデューサーと別れちゃったの?」
「もう疲れた」
「それで引退。この部屋はどうするの? 維持できるの?」
「計算してもらったら、あと八年はだいじょうぶ」
「プロデューサーと復縁することはできないの?」
「無理。仮に向こうがいい、って言っても、あたしが無理」
それからしばらく話して、カウンセラーは帰っていった。
「じゃあ、また来るから」
帰り際にそう言ったが、カウンセラーがこの部屋に来ることは二度となかった。
「いい暮らしをさあ、したみたかっただけなんだよねえ」浪子が夜景を見ながら言った。ろれつが回っていない。テーブルの横で、床に直接座り込んでいた。片手にはワイングラスを持っている。
テーブルの上の瓶から、ワイングラスにそそぎ、それを乾杯するように持ち上げた。グラスは手にのりづけされたようにくっついたままだった。
あやつり人形の糸が切れたように突然その手がぱたりと落ちた。絨毯の上にシミが広がっていくが、浪子は気にしていないようだった。上体も床に落ちて、浪子は仰向けに寝転がるような形になった。それきり、動かなくなった。
浪子が目を覚ましたとき、そばで看病していた娘が誰だかわからなかったようだ。
「ミリヤです、覚えていませんか? 一度だけど、ここで女子会に参加させてもらいました」
「ああ、あなた」そう答えたが、思い出していないのはあきらかだった。
「管理人さんに入れてもらったんです。このところ全く外に出てなかったから」
「ここは……」
浪子は寝室ではなく、リビングに布団を敷いて寝かされていた。腕は点滴につながれている。
「あの、ベッドルームはものがいっぱいで、足の踏み場がなくて。お医者さんにきてもらうためにここで」
二日ほどすると浪子は点滴を外し、流動食をミリヤの助けで食べられるようになった。
「ヤスカさんは?」
「さあ。もう来ないんじゃないかしら。なんとかの切れ目が縁の切れ目、ですね」ミリヤは目をくりくりと動かした。
そののち二か月たっても、浪子は布団から起き上がれなかった。寝室は整理され、ミリヤが寝泊まりする部屋となった。浪子がリビングから動きたがらなかったのだ。リビングに浪子のベッドが据えられた。
「最近、よく出てるじゃない」
「ええ、浪子さんのおかげです」
一年たってもやはり浪子は寝たきりだった。浪子のベッドは介護用のものに代わっていた。
「こんど、とうとう主役をやることになったわ」
「おめでとう」
ふたりは遅い夕食をとっていた。もう低いテーブルとソファはなく、ミリヤはダイニングテーブルについている。浪子はベッド上で上体を起こして、ベッド用テーブルの上に食事を載せていた。
「でも、なんであたしの世話を、こんなに焼いてくれるの? ほんとに部屋代が助かるから、ってだけなの? そうならもう見捨ててもいいはずよね」
「ああ、言ってなかったけど、この部屋、実はとっくにわたしのものなの。半年くらい前からかな。勝手にやっちゃってごめんなさい。ただ事務所に顔向けするためにも、ってのがあって」
「え……。でも、それならなおさら、どうして」
「うふふ、もう一年以上にもなるのに、全然気づいてないのね。まあ最初にわからなければ無理か」
浪子は眉をひそめる。
「まあ、わたしまだ四歳だったものね、お姉ちゃんが出てったとき。お姉ちゃんは十六だった」
浪子は息をのんだ。ミリヤの過剰演技が浪子に引っ越したかのようだった。
「わたしの本名、訊いたことなかったけど、北原繭子だよ」
「神山ミリヤ、って、芸名だったの?」
「あ、そんなことすら気にしてなかったのね」ミリヤはミネラルウォーターをひとくち飲んだ。「で、質問に対する答えですけど、小さい頃はけっこうお姉ちゃんにはかわいがってもらったから、その恩返しってところかな」
浪子はとうとう歩けるようにまでは回復せず、その七年後に死んだ。奇しくも自分が部屋を維持できるといっていた期間と同じだけ、臥せっていたことになった。
ミリヤは部屋を引き払い、わたしも部屋から撤去された。もう相当の型古ということで、粗大ごみとして捨てられた。今は東京湾の第三夢の島というところにいる。
ここから、かつてわたしがいた、隅田川沿いの、浪子の部屋のある高層マンションを遠望することができる。最上階のその部屋には、今では浪子やミリヤのものではない灯りがともっている。
〈了〉