死際
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ときは今天が下しる五月哉
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その日、俺は本能寺で見張りの当番をしていた。まあ、見張りとはいっても、暇なものである。
すでに、畿内には、上様の敵は無く、武田・本願寺は我らが軍門に敗れ去り、毛利・上杉・北条といった有力大名たちの命運もすでに決まったも同然である。
さらに、上様の側近中の側近である惟任様が、畿内で目を光らせている。俺たちにとっては、暇な見張り時間になるはずだった。
「外が騒がしいな、力丸」
同僚の小姓が、異変に気がついた。
「なあに、どうせ雑兵どもの喧嘩だろうよ」
考えられる可能性は、それくらいしかなかった。天下人、織田信長公の宿の前で命知らずの連中である。
「そうには違いないが、一応、見てくるよ。不備があって、折檻でもされたらたまらんからな」
「そうだな」
上様は、とても厳しい方である。
職務上で失敗でもしようもなら、どうなるか分からない。俺たち小姓はそれに怯えながら、いつも働いている。
同僚は、門のほうに歩いて行った。
そして騒ぎは収まるはずだった。しかし、現実はそうならなかった。
大きな銃声が、夜の京都に鳴りひびく。同僚が門の前で倒れている姿が見える。境内に緊張が生まれた。
≪敵襲≫だ。
銃声とともに、周囲に旗が並び立った。
≪桔梗紋≫
キキョウの美しい花を形どった家紋だ。それが、この周囲を包囲しているということは……。
俺は、兄者の寝室に駆け込んだ。
「兄者、起きてくれ。惟任様、いや、明智光秀、謀反」
兄者は見たこともない、形相になって飛び起きた。すぐさま、二人で、上様の寝室に駆け込んだ。
上様は、布団から起きて、刀を見つめていた。
「是れは、謀反か。如何なる者の企てだ」
荘厳な口調だった。こんな状況下においても、一切の焦りもない。これが、いくつもの修羅場を乗り越え、ここに辿り着いた天下人“織田信長”なのか。
「明智の者と見えます」
兄者は短く状況を説明した。
少しだけ上様の眉間が動いた。
「是非に及ばず」
全てがそこに集約された言葉だった。諦めと闘争本能が同居した矛盾を含む一言だ。
上様は、女子たちに逃げ出すように命令し、槍を持った。
我ら小姓も続く。
部屋の外は、すでに戦闘が始まっていた。
いくつもの槍と弓矢が宙を舞い、少しずつ境内に火が回り始めている。
「ふさわしいな」
上様は鬼のような顔で笑っていた。
境内に詰めている戦闘要員は、百人に満たない。対して、明智兵は数千から一万はくだらないだろう。
我らは、ひたすらに槍を奮った。
雑兵どもが、崩れ落ちていく。
短い空気音が聞こえた。その空気音は、おれの横を通り過ぎて横にいた上様の肩に向かっていく。
「ぐっ」
痛みをこらえた鈍い声だった。
「上様」
兄者が声をかける。
「気にするな。掠り傷だ」
苦悶の声だった。
「力丸、お主は上様を護衛して、奥に戻れ」
「しかし、兄者は……」
「気にするな」
「……」
兄者の目はすべてを意味していた。
≪どうやらここまでのようだな≫
そんな清々しい顔だった。
「上様、こちらへ」
「うむ」
俺たちは、一度寝室に戻った。
「上様、大丈夫でございますか」
「うむ」
いつものように我が主は、短く答えた。
「のう、力丸。少し付き合え」
「は?」
上様は、寝室に戻ると、今までに見せたことのないような慈愛のこもった表情に変わっていた。
隣室より、茶器を二つ持ってきた。俺でも知っているような、名器だった。
左手には南蛮より献上された真っ赤な葡萄酒を持っていた。
「名器をこう使うのも、なかなか風情がある」
そう不気味に笑うと、茶器に葡萄酒を注いだ。茶人が見たら卒倒するような光景だった。
「ほれ、力丸。お主も飲め」
そう言われて、葡萄酒を注いだ茶碗を俺にも差し出した。
二人で、葡萄酒を飲み干す。一気に飲み干した。
葡萄酒、独特の苦みが口に広がった。
「これも食え」
そう言うと、小粒の菓子を手渡された。
「≪金平糖≫という南蛮菓子じゃ」
二人でぼりぼりと菓子を食べる。口の中で葡萄酒の苦みが、強烈な甘みで中和された。
酒の肴として、こんなものがあるのかと俺は驚く。
上様は、酒に酔ったのだろうか。上機嫌な顔で笑っていた。
「どれ、儂の最期の舞を見ておれ、力丸よ」
「御意」
「この舞で始まり、この舞で終わる。おもしろき人生であった」
上様は満足げにそう語った。それは、全てから解放された安堵感に満ちていたように思えた。
そして、どこかに後悔を感じられた。
――
人間五十年
下天の内をくらぶれば
夢幻のごとくなり
一度生を得て
滅せぬ者のあるべきか
――
天下人は火に包まれた。