第十九話
「なんで、お前が」
目の前に立っていたのは、東雲由々であった。 その白い肌を寒さの所為で若干赤くし、東雲由々はそこに立っている。 桐沢自身でも分かるほどに気持ち悪い言葉を浴びせてしまった彼女が、そこには居る。
そんな彼女は桐沢の状態を目で追って確認した。 顔、手、足、服、そしてまた顔。 本来であれば、ここで東雲が言うべき言葉は「どうしてこんなところに」というものだろう。 だが、東雲が発した言葉はまるで違っていた。
「少しでも元気が出るようにと、コロッケを」
少し笑い、小さな両手で抱えていた紙袋を上げて見せる。 その意味は、すぐに分かった。 前に一度、好きな食べ物として自分が口に出していたそれだ。 東雲はそれを覚えており、わざわざそれを買いに行っていたということなのか。
「宗馬くんの方こそ、どうしてこんなところに……それに、その格好は」
「……俺は」
東雲は真っ直ぐ、こちらを見ている。 その視線が怖くなり、桐沢は一瞬視線を逸らす。 が、彼女はその視線を決して外さない。 答えるまで、待つつもりなのだろう。 数秒の間、二人の中を沈黙が包み込む。 やがて観念したのか、桐沢は口を開いた。
「俺は、逃げたんだ。 神藤さんたちが東雲を探していて、それを聞いた俺はお前がエドワーズのところに行ったと思ったんだよ……! はは、あはは! それで、それで俺は逃げ出した。 お前を助けに行くでも、神藤さんに何か伝えるわけでもなくッ!! 全部から逃げ出したんだよ!!」
「……なるほど、ささっと行ってささっと帰ればバレないと思いましたが、駄目だったみたいですね。 ちょっと携帯を借りても良いですか?」
意を決した言葉であった。 どのような目で見られ、どのような言葉を浴びせられても構わないという意志は少なくともあった。 だが、東雲はそれを聞き、一人納得し、そう言うと桐沢へ近づこうとする。
「――――――――来るなッ!!!!」
「……宗馬くん?」
「お前を、見捨てたんだぞ。 お前は、お前は馬鹿みたいに俺の好物なんか買って、俺を元気づけようとしてたってのに、そんなお前が死ぬかもしれないって分かってて、俺は見捨てたんだぞ?」
顔に無理矢理笑みを貼り付け、桐沢は言う。 それを見た東雲は伸ばした手を引っ込め、口を開く。
「わたしがエドワーズのところに行っていて、それを宗馬くんが知って、逃げたというお話ですが……そこに宗馬くんの非はありますか? 宗馬くんがわたしを助けに行く理由はないかと」
「……は? お前、何言って」
「……誰でも、死ぬのは怖いと思うんです。 わたしも、宗馬くんも、夏井さんや神藤さんだってそうだと思います。 櫻井さんも、そうだったかと。 だから本当に申し訳ないと思っているんです、本当に、本当にごめんなさい、宗馬くん」
頭を下げた。 茶色の髪は前に垂れ、東雲の顔を覆う。 その表情が見えなくなった。
「できれば、宗馬くんがどこへ逃げようとしていたのか、教えて頂いても良いですか」
「なんでだよ……俺がどうしようと、お前には関係ない」
櫻井吹雪という、唯一無二の友人を失った。 敵は思ったよりも強大で、凶悪で、醜悪だった。 その恐怖に足が竦み、あのとき自分は何もできなかった。 そしてその結果、櫻井吹雪は殺された。 自分が殺したようなものだと、桐沢はそう思っている。 今更ながらに、そう思っている。 何もかもが手遅れ、それが桐沢宗馬という奴なのだ。
救えたはず、助けられたはず、きっと自分が動いていれば、櫻井は今も自分の横に立っていたかもしれない。 そう思うと、怖かった。
「数日……宗馬くんは数日寝ていたのですが、わたしは宗馬くんを見ていました」
「……お前なら分かるだろ、俺の気持ちは」
「分かりますよ。 わたしも妹を殺されたとき、自分の無力さを痛感し、恥じ、後悔しました。 諦めそうにもなって、足が崩れそうにもなって、後ろを振り向きたくもなりました。 けれど、後ろに歩いたとしてもそこにはもう、弥々は居ないということに。 亡くなってしまった人たちは、絶対に生き返ることなんてないと」
「だったらなんだ、俺がこうして逃げたところで、櫻井には会えないって言いたいのか。 だから戦えって言うのか、東雲ッ!! 俺の文字が必要だからだろ? 俺の文字が強いからだろ? お前に必要なのは俺の文字で、俺じゃない!!」
妄想では、誰からも尊敬され誰からも信頼され誰からも期待される。 しかし、現実では違う。 いざというときに立ち上がれない、そんな情けないのが自分であった。 感染者になり一ヶ月少しですぐさま理解し、だからこそ東雲の目的は自分ではないのだと感じた。 その考えもまた情けないものだと分かりながら、それでも口を突いて出てきてしまう。
だが、東雲は言う。
「言いません」
静かだが、力強い言葉だ。 それを聞いた桐沢は、若干だが目を見開き、その否定された言葉を尚も押し続ける。 それを否定されてしまえば、自分の考えが、読みが、間違っているということになるという自己中心的な考えからだ。
「そういうことだろ、東雲。 お前のそういうやり方が、なんでもお見通しって態度が、俺は、俺は……ッ!」
言ってはならない言葉だと、分かっている。 だが、その勢いに流され、桐沢は東雲に言葉を乱雑にぶつける。 また、同じことを繰り返す。
「――――――――大っ嫌いだッ!」
言葉は刃となり、東雲の心を切り裂く。 きっとそれは痛みを伴い、東雲はそれを受け一瞬だけその顔に影を落とした。 だが、下は決して向かない。 視線は真っ直ぐ、桐沢のことを見ている。
「言いませんよ、それは無責任です。 命を賭けろだの、戦えだの、それは他人が告げて良い言葉ではありませんから。 わたしはただ、今はただ宗馬くんと話がしたいだけなんです」
「話? 俺に? はは、あはは! なんだよそれ、俺に恨み言でも言うってのか!?」
「宗馬くん、わたしは宗馬くんに感謝こそしますが、恨みなどしていませんよ」
「……俺がお前に何を言ったのか覚えてないのか? 東雲」
桐沢は、櫻井の死を東雲に押し付けた。 東雲が的確に動いていれば櫻井は死ななかったと、東雲に当たり散らした。 絶対にそんなことはなかったというのに、そこに逃げるしかなかったのだ。 そしてお前が死ねば良かったと、言ってしまった。
「覚えてます。 わたしに当たってくれて良かったと、そう思っています。 だって宗馬くん、もしも宗馬くんが独りで抱え込んでいたら、それはきっと辛かったんじゃないでしょうか。 一人で抱え込むことの辛さは、知っていますから」
「……お前、まさか」
東雲は小さく笑って、そう言った。 もしやと思い、桐沢は口を開く。
もしも、あのとき自身が言葉をぶつけたとき、無表情だった東雲がそれこそ望んでいたとしたら。
もしも、東雲が傷つくことによって自身を助けようとしていたら。
もしも、矛先を東雲へと向けることで助けようとしていたら。
「……なんでだ。 東雲、なんでお前はそこまで俺に」
「宗馬くんは言いました。 話し、握手をし、一緒に遊べばそれはもう友人だ、と。 友人のために何かをするのは変でしょうか? 助けたいと思うのはおかしなことでしょうか? 宗馬くんは、わたしにとって大切な友人なんです」
「……違う、違う違う違う! 俺の言葉なんて、真に受けてんじゃねえよ! 俺はお前が思ってるより立派な奴じゃねえ、矮小で、惨めで、腐りきった男だ!」
「そうかもしれません、けれどそうではないかもしれません。 まだ分からないことも沢山ありますし、わたしは宗馬くんの全てを知っているなど、当然そんなことは言えません。 でも、それでも宗馬くんが人のために動ける方だということは、知っています。 他でもない、この目で見たことなので」
「それは、俺が演じていただけだ! 櫻井が居て、櫻井のために動いていて、櫻井から良い印象をもらえるように、周りの奴らに「立派だ」って思われたいだけで!! 俺はそんなことを一々気にするような、最低の奴なんだよ!」
「……何故、宗馬くんはそのことをまるで悪いことのように言うのですか? 他人からの評価を気にするのは、悪いことでしょうか? 他人に認めて欲しいという願望は、蔑まれるべきものですか? わたしは違うと思います。 だって、わたしも宗馬くんも人間ですから」
心底不思議そうな顔で、東雲は桐沢の顔を見ていた。 まるで、信じられないといった具合に。
「何故……って。 当たり前だろ、そんなのは。 お前が持ってる理想の俺なんて、本当は存在しない偶像だ! 本当の俺はただただ妄想に恋い焦がれる馬鹿な男で、理想だけが高くて、努力も度胸もない奴なんだよ! 俺の手は何も掴めない、伸ばしても握ろうとしても何も掴めるわけがない! 人間だったときも妄想しかしてこなかった、頭も良くねえし運動だって得意じゃねえ! 馬鹿みたいな妄想に囚われて、馬鹿みたいな夢を見ているだけで、なんにも俺には出来やしないんだよッ!! 俺は人間じゃねえ、感染者だッ!!」
ただ、周りに認められたかっただけに過ぎない。 感染者というものに理解を示して、人間と感染者は分かり合えるものだと言って、周りの意見に流されないことそのものが格好良いことだと思っていた。
「人間と感染者が分かり合える? そんな馬鹿げたこと、できるわけがないだろ」
それを言えば、全てが終わるとは分かっていた。 その果てしない夢を必死に追いかける東雲に対する、最大の侮蔑だとも分かっていた。 だから桐沢は楽な方へと逃げていく。 最早話し合うつもりはなく、今はただ東雲に全ての気持ちをぶつけ、軽蔑されたかった。 見捨てられたかった。 疲れ切り、親友を亡くし、世界の全ては桐沢にとってどうでも良いものだった。
「……全部、嘘だったということですか? 宗馬くんが機構に来た理由も、わたしに一緒に夢を叶えようと言ってくれた言葉も」
「ああ、そうだよ」
否定は、しない。 全部終われと、もうどうでも良いと、そうとしか思わない。 櫻井吹雪という親友が居なくなった時点で、どうでも良い。 全てを話し、全てが晒された。 それを東雲は知り、きっと今からぶつけてくる言葉は綺麗なものではないはずだ。
自らの汚さ、醜悪さ、愚かさ、惨めさ。 それらを東雲は知ったのだ。
「そうだとしても、宗馬くんがいくら言おうとしても、人間ですよ。 ですが……それは、ちょっと困りましたね。 だとすると、違う目標を探さないとですね」
「……何を。 東雲、何を言ってるんだ」
「宗馬くんの、次の目標ですよ。 人として何かしら生きる目的、目指すものはあった方が良いかな、と」
「そうじゃない、そうじゃないだろ。 なんでお前が、そんなことを考えてるんだよ」
「それは」
桐沢が言うと、東雲はそこまで返し、言葉に詰まる。 だが、その様子は『言葉が見つからない』といった様子とは違った。 それはまるで『言いづらいことを言おうとする』というものであり、視線は右往左往に動いている。
「それは」
もう一度、同じ言葉を繰り返す。 東雲は意を決し、その言葉の続きを紡いだ。
「――――――――宗馬くんと一緒に居たいと、そう思うからです」
どうしてか、なぜか、東雲の心の中など桐沢には到底分からない。 分かるはずがない。 ただ一つ、たった今この状態で分かることは、自身の頬を流れる一筋の涙だけだ。 己の意思とは無関係に、己の気持ちとは無関係に、きっとそう言われたことが嬉しくて、どうしようもなかった。 誰かに言われたからではない、東雲にそう言われたことが嬉しかった。
「ちが、違うだろ、違うだろ東雲ッ! お前には夢があって、それを果たすために機構に居て、それなのにっ!」
「……そうですね、だから困ってしまうんです。 わたしの夢と、宗馬くんのしたいことが食い違ってしまっているので」
言いながら、東雲は自らの右手と左手を言葉と共に合わせる。
「それが一緒だったら、きっと素敵なことなんでしょうけど……食い違ってしまうものは仕方ないので、そこはわたしが折れるべきだと思うんです」
「だから、さっきから何を……」
「これから先、宗馬くんは感染者ですので、都会というのは難しいかと。 なのでできれば田舎に逃げるのが良いでしょうね」
「東雲ッ!!」
「……嫌ですか? わたしと一緒は」
その言葉にはいろいろなものが詰まっている気がした。 東雲は、自身と行動を共にする気だということも分かった。
どれだけ酷い言葉を浴びせたと思っている? どれだけ突き放したと思っている? どれだけ失望させたと思っている?
しかしそれでも、東雲由々は挫けない。 決して逃げず、立ち向かう。 その一歩一歩は力強く、弱まることはない。
「なんでお前はそこまで……そこまで俺に関わろうとするんだよ……ッ!! こんな俺の力なんて要らないだろ!? そこまで俺の評価を得て何になる!? 得なんて絶対にしねぇ! お前にとっては損ばかりだッ! 人間は利益がなければ動くはずがない、お前の目的はなんなんだよッ!!」
「そうですね」
東雲は優しく笑った。 そして一歩、一歩、桐沢へと近づく。 まずは目の前で、口を開く。
「宗馬くんは、わたしの手を綺麗だと言ってくれました。 実はあのとき、廊下でこっそり盗み聞きしてしまったんです」
笑顔のまま、東雲は少々恥ずかしそうに手の平を見せる。 傷だらけで、暖かそうな手を。 しかしその表情は誇らしげだった。
「宗馬くんは、わたしと世間話をしてくれました。 この時期は、シシャモが美味しいんですよね」
少し自慢げに、東雲は言う。 いつか話した、他愛のない世間話のことを。 まるで自分の知識のように、自信あり気に言う。
「宗馬くんは、わたしに街を案内してくれました。 識別機に見つからないかヒヤヒヤしてましたけど、とても楽しかったです。 櫻井さんの教えもあって、というのが大半を占めていそうですが」
世間知らずな東雲に、街を案内したある日のことだ。 そのときのことを思い出しているのか、視線は海の方へと向いている。 流れる風を受け髪を抑え、東雲は目を少し細めた。
「宗馬くんは、わたしが怒りで抑えきれなくなりそうだったとき、頭を撫でてくれました。 いきなりで驚きましたが、実は嬉しかったんですよ」
砕けた笑顔になり、右手を胸の前で握り締める。 その感覚を思い出すかのように。
「宗馬くんは、わたしを叱ってくれました。 無茶はしないでくれと、わたしを心配してくれました」
視線を下に、反省しているような素振りだった。 何気ない言葉の一つ一つを東雲は覚えている。 まるで宝物のように、心に仕舞っている。
「宗馬くんは、わたしを頼ってくれました。 どうやったら強くなれるのか、どうすれば戦えるのか、宗馬くんの努力はわたしが一番よく知っています。 手にある傷も、体にある傷も、それは絶対に嘘ではないと」
両手を顔の前に。 手を暖めるように息を吐き、その息は白く、真っ暗な周囲へと溶けていく。
「宗馬くん、わたしは宗馬くんに沢山もらいましたよ」
東雲は言いながら、桐沢の手を握る。 そして、自らの手を掴むように桐沢の手を動かした。
「ほら、掴めました。 宗馬くんの手は、わたしの手を掴めるということですね。 宗馬くん、人は大切なもののためなら、利益なんて求めずに動くものではないでしょうか? 少なくとも、わたしはそう思います」
「お前は、どうして……っ! どうして、そんなに俺に優しいんだよ……! 俺はお前に、どれだけ酷いことをしたと、思ってるんだ……!」
顔を歪ませ、桐沢は言う。 涙の所為で、東雲の言葉たちの所為で、心が不安定だ。 言葉が言葉として成り立っているか不安で、東雲に言いたいことが伝わっているかどうかが不安だ。 何もかもが、不安だ。
「確かに少し、落ち込みました。 でも、宗馬くんがわたしにくれたものは、それ以上に嬉しかったんです。 宗馬くんからしたら何気ないもので、ただその場凌ぎだったかもしれない、その言葉たちも嘘だったかもしれない」
「違う、違うんだ! 少なくとも、お前に向けた言葉は……!」
「……嘘ではない、ですか?」
目を若干見開き、東雲は桐沢の顔を真っ直ぐに見て尋ねる。 それに対し、桐沢は首を大きく縦に振って肯定した。
「そう、ですか。 でしたら……わたしは今、とても幸せですよ」
今まで見たことのない笑顔で、東雲はそう言った。 嘘偽りない本心だということは、桐沢にもすぐに理解できた。 東雲由々は、心の底から幸せだと感じている。 ただそれだけなのに、どうしてこうも気持ちが落ち着くのだろう。 ただ一人が幸せだと言ってくれただけで、どうしてこうも安らぐのだろう。
「と、いうことは……宗馬くんは人を幸せにさせる力を持っているということになりますね。 ええっと……人の手をしっかりと握れる、人を幸せにできる、今分かったのはこの二つですけど」
東雲は両手をパンと打ち、わざとらしく言う。 しかしそれは、今桐沢がもっとも欲しかった言葉だったのかもしれない。
「驚きました、人の手を握れて、人を幸せにできる。 それって、とても素敵な人だとわたしは思います。 そうなると、宗馬くんはとても素敵な方、ということにもなりますね」
「なん、で……お前は俺に、怒ってないのかよ」
「……本音を言うと、宗馬くんに拒絶されるのが怖かったりします。 だから、わたしは怒らないのかもしれません」
「……怖い? 俺に、拒絶されることが?」
「そうですよ。 だって」
一度黙り、東雲は視線を下へと向けた。 数秒、数十秒、そうした後、ようやく東雲は顔を上げる。
「だって、わたしは宗馬くんのことが好きですから」
「……そんな、そんな言葉は聞きたくねぇ。 俺に人に好かれる価値なんて、ない」
震えた声で、桐沢は言う。 それでも東雲は言葉を返す。 桐沢の言葉に、返事をする。 ひとつひとつ丁寧に、東雲は言葉を重ねていく。 他人から見たら無意味な積み重ねだとしても、東雲にとってのそれは、何より大切な言葉の積み重ねであった。
「確かにそうかもしれません。 百人に聞いたら、百人がそう言うかもしれません。 千人に聞いたら、千人がそう言うかもしれません」
「……ああ、そうだよ」
行動も、言動も、最低で最悪だ。 だから東雲の言う通りであり、それはきっと妄想ではなく現実だ。 どうしようもない奴というのが自分であり、どうしようもできないというのが自分なのだから。 主人公でなければ格好良い奴でもない。
妄想での自分は格好良く、最強であると同時に全ての物事がうまく行っていた。 櫻井は当然死なないし、どんな強敵相手でも怖気づくことはなく、果敢に立ち向かっていく。 当然挫折もあり、苦悩もあり、完璧ではない部分も少なからずあった。
現実での自分は脆く、すぐに逃げ出しすぐに怯え、全ての物事がうまくは行かない。 恩人で、友人で、家族のようだった櫻井は死に、強敵を前にして無残にも怖気づき、背中しか見せない。 挫折し、苦悩し、しかしだからといって立ち上がらない。 折れた足はそのままで、地に付いた手はそのままで、顔はいつも下を向いている。 ひとつも完璧な部分なんて存在しない、現実の自分だ。
だが、それでも東雲は続ける。 そんな自分を見て、ただの一度も目を逸らさずに、真っ直ぐすぎる視線と想いをそのままに。
「それでも、一万人……いいえ、百万人に聞いたら一人くらいは好きだと言うと思います。 わたしは、そんな百万人の中の一人でありたい。 それでは駄目でしょうか、それでは足りないでしょうか」
「お前は……! 東雲は、どうしてそこまで……俺なんて好きになってもどうしようもねえだろ!」
「そうです、どうしようもないんです。 この気持ちは、どうしようもできないんです。 だからもう一度言います――――――――好きです、宗馬くん」
その言葉は、桐沢の心に積もり、ゆっくりと溶けていくのであった。