第十八話
機構アジト内が騒がしい。 先ほどから部屋の外の廊下を人が慌しく走っており、それは塞ぎ込む桐沢の耳にも届いていた。 何かが起きているとなんとなくは分かった。
が、だからといって桐沢は動くことはしない。 全てがどうでもよくなり、全てが終わったのだ。 櫻井吹雪という友人の死は、乗り越えられるものでも乗り越えるべきものでもない。 今のこの状況になった瞬間、文字通り全ては終わったのだ。 だとすれば、自分が何かのために動くことはない。 何かをするために立ち上がる意味もない。
東雲に関して言えば、彼女には悪いことを言ってしまったという気持ちはある。 だが、それも既に手遅れであり、きっと東雲は幻滅したことだろう。
いや、それよりも。
「……元よりするほど、か」
そうなのかもしれない。 元より幻滅するほど自身に対する信頼など、彼女は果たしてしていただろうか? 出会って一ヶ月と少し、たったそれだけの短い期間で、彼女は自分を信頼していただろうか?
答えは明確だ。 していなかった。
彼女が自分を頼った理由はなんだ? 誇大妄想という文字があったからだ。 それがあったからこそ、人権維持機構に、その目指すための道のりに、手を貸して欲しいと言われたのだ。 自身の力が必要だと言われたのだ。
ならば、元より桐沢宗馬という人物に対しては、なんの感情もなかったのだろう。 先ほど部屋に来て話しかけ、立ち直らせようとしていた行為こそそれを表している。 親友を失い、悲しみに暮れる奴に悔しくないか、協力して倒そうなどと言える奴がどこにいるだろう?
その理由も、自身の文字が目当てならば合点が行く。 人権維持機構にとって、東雲にとって、誇大妄想という文字はなければならない武器だ。 だから東雲は時間を割いて自身に付き合った。 だから東雲は自身を励ました。 だから東雲は思いやる振りをした。
――――――――そうに決まっている。
桐沢は思う。 すると絶望感よりも、沸いてきたのは東雲に対する怒りであった。
東雲もよく言っているではないか。 交渉というのは常に対価があってこそ、と。 それは人間関係でも一緒だ。 桐沢宗馬という一人の力を借りるのに、何もしないでただ協力を仰ぐのは難しい。 だからこそ東雲は近づいた、笑った、己との距離を詰めてきた。 人間は利益がなければ動かない、少なくとも自分はそう思っている。
ならばどうする、自分はどうする。 期待されているのは文字で、自分ではない。 なら、ならそうだ。 自分が持つこの文字を消してしまえば良い。
「俺の、俺の妄想で消しちまえば……あいつらの考えが分かる、裏を掻くことができる」
自身が持つ文字で、自身が持つ妄想で、その文字自体を消してしまえば良い。 そうすれば、東雲が欲している自身の力というのは消えてなくなる。 東雲が自身に関わる理由もまた消えてなくなる。
そう思い、桐沢は目を瞑る。
結論から言えば、その妄想は決して現実にはならない。 いくら桐沢の文字が強大で、妄想を現実に変える力と言えど、その文字自体を消すことは叶わない。 感染者とV.A.L.V、そして感染者と文字は一心同体であり、何をしようとも断ち切れない因果がそこにはあるのだ。
だが、桐沢宗馬はそれにすら気付くことができず、気付ける域にすら辿り着けない。
「――――――――畜生、畜生畜生畜生ッ!!」
その妄想をするのが、怖くなった。 折角手に入れたその力を失うのが、嫌だった。 消せば二度と手に入らない、絶対の力。 故に桐沢はその妄想をすることができない。
髪の毛を掴み、ベッドに顔を埋める。 情けない、自分はそれすらもできないほどなのか。 すべきことは分かっているはずなのに、その一歩が踏み出せない。
失いたくない、弱くなりたくない、怖い、恐ろしい、力を失うのが――――――――嫌だ。
その思考で脳内は埋め尽くされる。 だが、その一歩が踏み出せない自分の弱さもまた、理解した。 だからこそ、踏み出せないことと自身の弱さの二つが脳内を延々と回り続ける。 踏み出せばきっと楽だ、踏み出してしまえさえすれば、楽だ。 東雲に対してはああも軽々と一線を超えられたというのに、自分のこととなるとその一歩は果てしなく重い。 そしてその矮小さが、余計に自分を惨めにさせる。
「……はは、あははは! 俺は結局、何もできねぇ」
いいや、それは違う。 何もできないのではない、こんな自分にでも出来ることはあった。 それは、人を傷付けるということ。
きっと、自分の言葉は東雲を深く傷付けた。 想像できないほどに悍ましい言葉を浴びせ、それを省みるどころか自分がしたことは更なる追い打ち、そして逃げだ。
こんな自分にも出来ること。 それは、人を傷付けること。 人を不幸にすること。 差し伸ばされた手を刺し殺すこと。
たった、それだけなのだ。
そのとき、室内に冷たい空気が入り込む。 今更気付いたことだが、室内には簡易式のストーブが付けられている。 一時間に一度、灯油を補充しなければならないストーブが。
誰がそれを管理していたのか、そのことも桐沢には理解できた。 だが、その思考を振り払うように声がかかった。
「起きたか、桐沢。 後はここくらいだと思ったが……ここにもいねえか」
声の主は、神藤総司だった。 動き回っていたのか、額には汗が浮かんでいる。 息遣いも多少荒く、その姿から何かが起きているということは明白だった。
「……何か、あったんですか」
「ああ、ちょっとな。 東雲を見なかったか? あいつ、この時間に一体どこ行きやがったんだ……外出許可も出てねえのに」
桐沢の様子は明らかにおかしかったが、神藤とて桐沢が先の戦いで失ったモノを知っている。 特に何も言わず、いつも通りの調子で会話をするのは彼なりの気遣いなのであろう。
だが、それよりも神藤の発言には桐沢を動揺させるひと言があったのは言うまでもない。 その言葉を聞き、桐沢は体をびくりと反応させる。
自分だ。
自分の所為だ。
東雲がどこへ行ったか、すぐに検討は付いた。 自分が浴びせた言葉、そして東雲由々という少女の性格。 それらを考えれば、答えは一つしかない。
彼女は、東雲由々は――――――――責任を取りに行ったのだ。
「俺と夏井、冬馬とミーニャでこれから東雲を探す。 お前はまぁゆっくり休んでれば良いが、何か分かったら教えてくれ」
「……俺は、何も知らないっすよ」
「分かったらでいいんだよ。 東雲と一番仲良いのはお前だからな」
「え?」
桐沢は言うも、神藤は急いでいるのか扉を閉め、廊下を走っていく。 神藤が発したその言葉は、あまりにも単純で分かりやすい言葉だ。
自分としては、決してそんなつもりはなかった。 ただ話をすることは多かったが……。
そこで、一つ思い当たる。 最初にこのアジトを訪れた時、夏井に言われた言葉だ。
『東雲くんは、人との距離の測り方を知らないんだ』
その理由は、生まれてこの方このアジトで大半を過ごしたからというもの。 接するのは皆、年上の大人たち。 唯一歳の近かった妹は、既にこの世を去っている。
そこに現れたのが、歳の近い自分と櫻井であった。 櫻井曰く、東雲は櫻井ともよく話をしていたらしい。
だと、すれば。
東雲が櫻井に対して感じていたものは、自分が櫻井に対して感じているものとそうは変わらないのかもしれない。 友達、友人……きっと、それらの類だ。
そして、残されたもう一人の友人。 それが自分で、その自分は先ほど東雲のことを罵倒した。 これでもかというほど、口汚い言葉で。
「俺、は。 俺は、俺は俺は俺はッ!!」
違う、違う違う違うんだ。 そんなつもりじゃなかった、そうさせたいんじゃなかった。 分かるだろ? ただ一時の気の迷いで、一時の言葉の綾で、本気でそんなことを思っているのではなくて。
『知ってるか? 魚って空を飛ぶんだぜ』
『本当ですか? 是非、見てみたいです』
『……いや冗談だけど』
『な……それならそうと、予め言ってくれなければ分かりません』
――――――――ああ。
ああ、そうだ。 東雲は、きっとそれすら考えない。 東雲の性格からして、生き方からして、自身が発した言葉は全て、そのまま、ありのまま受け入れたのだ。
それを冗談だと言うのは烏滸がましい。 少なくとも、自分はあのとき……冗談だというつもりで、あれらの言葉を発したのではないから。
「ぁぁあ……!」
東雲は、エドワーズを探しに行ったはずだ。
自分が言った言葉。 お前が死ねば良かったという、その言葉を受けて。
「やめろ、やめろ……やめろッ!! 違う、俺の所為じゃない、俺は……俺はッ!!」
部屋を飛び出る。 ここに居ては駄目だ、ここに居たら疑われる、ここに居場所はもう、ない。
彼は、彼が思う以上に弱い。 そこで桐沢の取った行動は、東雲を探しに行くでも、神藤に経緯を話すでも、東雲を助けに行くでもない。
彼の取った行動は、ただの逃避だった。
どれほど歩いただろうか。 どれほど逃げただろうか。 素足に薄着で、桐沢は冬の寒さの中をただひたすら走り続けていた。 これからどうなるか、それを知りたくないがための逃避。 東雲の結末を聞きたくないが故の逃避。 東雲が無残にも殺されたという言葉をもしも聞いてしまえば、その責任は間違いなく自分にある。 それを受け入れたくないための逃避だ。 最早、自分の情けなさに笑いが込み上げてくる。 笑いと、そして涙だ。
足の皮は擦り切れ、手足の感覚はなくなっていく。 喉が乾燥し張り付き、掠れた声が漏れていく。 心臓は痛いほどに脈を打ち、足は疲労から棒のようになっていく。 このまま自分は野垂れ死ぬ、どうしてかは分からないがそんな気はしていた。
「く……はぁ……はぁ……」
しかし、それすらも体が許さない。 足が止まり、その場に手を付いた。 脳が休めと体に言っている、それに逆らう意志が彼にあるわけもなく、桐沢は地面を覆う土を握り締める。
いつの間にか、海沿いまで来たようだ。 冬のこの時期は流氷が流れ着いており、夜であってもそれは見えた。 海鳴りの音はなく、まるで世界が止まったかのように辺りは静まり返っている。
「……宗馬くん?」
声が、聞こえた。 聞こえるはずのない声は、辺りがしんと静まり返っているおかげか、ハッキリと桐沢の耳に届いた。
ゆっくりと、振り返る。 そこに立っていたのは、東雲由々だった。