第九話
その昔、少女は平凡に暮らしていた。 二人の姉、そして母親と父親。 家族というものは暖かく、同じ時を歩む大切な人達であった。 朝起き、言葉を交わし、学校に行き、家へと帰り、ご飯を食べ、お風呂に入り、また話をして、布団へと入る。 なんでもないサイクルを過ごし、なんでもない毎日をなんとも思わずに過ごしていた。
そんな日常たちは平凡という言葉で括ることができる。 しかしそんな括った平凡の中には沢山の幸せがあるのだ。 少女は今更ながら、そんなことを思う。
「……よっし、今日も頑張らないと」
薄汚れた部屋の中、少女は痩せ細った腕で頬を叩き、自分に言い聞かせた。 最初は怖くて怖くて仕方がなかったここも、いつの間にか慣れてしまったものだ。 そして、いつか出してくれると約束をしてくれた研究員の人の言葉を信じ、頑張らなければ。 またいつか、そんなことを思うも、それが本当に叶う保証があるのかと問われれば、ないとしか言えないだろう。
「……頑張る!」
少女は小さい体で、精一杯の元気を絞り出しながら言う。 昔から前向きであることを多々褒められていたのだ、ポジティブさでは負けられない。
「二十三番、時間だ」
「……はーい」
小さな声で返事をした。 前に、わたしはこれでも元気だぞーっというアピールをしたら手酷い仕打ちを受けたからだ。 痛いのは当然好きじゃない。 だから気合いを入れるとしても、聞こえないような小さな声でという風になってしまっている。
「今回はこいつだ。 使え」
人と会うことはない。 自身は感染者であり、万が一にでも移る可能性があるとのことで隔離されている。 全ての指示はスピーカーを通して行われ、今は目の前にある液晶機械に写真が映し出されていた。 そして、使えというのは文字のこと。 もう、この流れには慣れてしまっていた。 千回を超えるサイクルは、段々とそのサイクルが当たり前かのように回り始めている。
けれど、自分自身が感染者ということを恨んだことはない。 そして自分が持つ文字も恨むことはない。 この文字のおかげで、今でもこうして心を平常に保っていられるのだから。
「心象風景」
言い、文字を使う。 傷だらけの手を握り締め、見えてきた景色を口にする。 そして、心の中で謝った。
ごめんなさい、と。 謝った。
「ケセラス医院って知ってるっすか? 獅子女さん」
「ケセラス医院? 聞いたことはないな」
獅子女が雀、アオ、桐生院に話をした次の日、アオはすぐさま情報をかき集め、提示した。 その速さは驚くべきものであり、獅子女が持っていた「生かされながら利用されている感染者。 年齢は獅子女よりも下」という情報だけで調べ上げてきたのだ。 数少ない情報から最大限の情報を引き出す、アオがもっとも得意とすることである。
「いや僕も情報屋からの仕入れなんで詳しくはないんすけどね。 まぁ見た目的には一般病院って感じっす、どこにでもありそうな」
アオは言いながら何枚かの写真をテーブルの上へと置いた。 それを覗き込むのは桐生院、そして雀だ。
その写真に映されているのは言葉通り、至って普通の病院である。 その規模こそ大学病院のような大きさだが、見た目的におかしな部分は一見して目に付かないように思える。 が、写真を数枚手に取った雀は口を開く。
「……やたら監視カメラが多いですね。 普通の三倍ほどですか? その程度はありそうですが」
「よっぽど隠したい何かがあるって裏付けにもなりますね。 んで可能性としては三つっすかね。 まず一つ目が、この情報自体が嘘だったってオチ。 この場合はまぁ最初から調べ直しっすけど……」
「その可能性はないだろ。 お前がミスるとは思えない」
「恐縮っす。 んじゃ、二つ目。 病院のどっかに隠し部屋がある。 まぁー規模とか収容数を考えれば地下の可能性が大っすかね」
アオが指を二本立てて言う。 その話を桐生院はコーヒーを飲みながら、雀は両手の甲に顎を置いて聞いていた。 二人共に言葉を挟むことなく耳を傾けている。
「最後に三つ目。 これと二つ目はぶっちゃけ繋がってるんすけど、そこを隠すのに文字が使われているって可能性っす。 視覚を惑わす、或いは意識を反らせる……認識を変える、その辺りがクサイっすね。 そうであれば地下に馬鹿でかい施設があっても誰も気付かないっしょ」
「なるほどな、まずは入り口から探さないとどうしようもねえってことか」
「っす。 んで、いやぁこれ超言いにくいんすけど言っても良いっすか?」
「ん?」
そう前置きをしたことに違和感を感じ、獅子女は聞き返す。 アオは基本的に思ったことは素直に口にするタイプだ。 つまり、今から言うことは本当に言いにくいこと、というわけである。
「その入り口探し、桐生院さんに頼みたいんすけど……」
恐る恐る、といった感じでアオは言う。 それに対し、間髪付けずに答えたのは桐生院本人だ。
「断る。 そんな探偵のような真似、私がすると思うのか! よもやアオくん、私の『花鳥風月』で捜査をしろと言っているのだろう? シット! 却下だ、私の美しい文字は泥臭い探偵ごっこに使うべきではなーい」
それを聞き、ため息を吐くアオだ。 まさにこれだから嫌なんだと言いたげであり、その一連の流れを見ていた雀も目頭をつまみ息を吐き出す。
「お前の力が必要だ桐生院。 飯一緒に食ってやるから」
「オーケイ!! そういうことであれば私も協力は惜しまないッ!! 他でもない獅子女くんの頼みとあれば、私の花鳥風月も喜ぶであろう!!」
「……なんか女心すっげー傷付いてるんすけど、僕。 女としての大事なものが傷付いてるっすよーフォロー欲しいっすよー」
「気にしない方が良いかと。 桐生院さんに関しては」
神人の家で一番の変人、それは誰かと尋ねられたら真っ先に桐生院の名を上げてやろうと思ったアオであった。
「……ふむ。 獅子女くん、ちょっと良いかね」
「ん、どした?」
それから、ある程度の計画を立てた後、時間は流れ夜となる。 冬の夜は寒く、十二月に差し掛かった今日この頃は身を刺すような寒さであった。 そんな中、獅子女と桐生院は二人で外に居た。 無論、桐生院と一緒にご飯を食べるという約束を果たすためである。
「私としてはこう、豪華なディナーをレストランか何かで、と思っていたのだが」
「口に合わないんだよ。 それに、俺が美味しいと思えるものを食わないと食材に悪い」
「……それは面白い解釈の仕方であるな。 ふむ、まぁ良いか。 たまにはこういうのもオツで……あっつい!? 獅子女くん!? これとても熱いよ!?」
「そりゃおでんは熱いだろ。 だから外で食べるんだよ、すぐに冷めるから」
「生まれて初めてだが……なるほど、外の冷気と食材の暖気を混ぜて味わうのだな。 そう考えると奥深くも思える食物というわけか」
二人並び、公園のベンチへと腰掛け、おでんを頬張っていた。 獅子女はともかくとし、桐生院のタキシード姿ではどうにも不自然さが溢れている。
「……この世の中には知らないことが多すぎる。 そして、未知というのは美しいことだ」
「大抵は、そうかもな。 俺たちみたいな感染者は日常生活もまともに送れない、政府に見つかりゃ施設行き。 今こうして自由で居られるときこそ美しいのかもしれねえ」
「ノー、それはノーだ、獅子女くん。 自由というのは誰にしも平等に与えられる権利であり、それは人類だとしても感染者だとしても変わらない。 故に自由自体を美しいと考えては駄目だ。 考えるとしたらそれが溢れた世界……私はそんな自由溢れる美しい世界をみたいのだ。 だから今の状態を美しいとは思えない」
「ひょっとして、だから協力してくれたのか? 今回のこと」
「ああ、そうだ。 感染者を捕縛し、あろうことかそれを利用するなど言語道断……汚らしい、穢らわしい行為だ。 許しておけるわけがない」
桐生院は、博愛主義者な面がある。 人類であろうと、美しい行為は美しいと素直に賞賛をするからだ。 だが、それでも人権維持機構に行かないのには理由がある。
彼は、殺しもまた美しい行為だと認識しているのだ。 人の命が果てる瞬間、破裂する瞬間、散り行く瞬間、それに絶対的な美しさを感じている。 だからこそ彼は神人の家にいる。
――――――――桐生院美崎。 所有する文字は『花鳥風月』。 それは自身の動きから一切の無駄を省く文字であり、回避であれば必要最低限に、攻撃であれば命中する攻撃しか放たないように、全ての無駄を取り除く文字だ。
「獅子女くん、私は君の力に美しさを感じ付いて行くことにしている。 そして何より、人類を殲滅する目的を持っている君にね」
「ああ、そうだな。 今の国は腐ってる」
獅子女は言いながらおでんの入った発泡スチロールの容器に口を付け、汁を飲む。 熱いそれが喉を通り、冬の寒さに抗っていた。
「私たちの戦力は想定の上を行っているであろう。 先日の十二月事件の結果から推察するに」
「仲間はもう充分だ。 今居る奴らなら充分に戦える」
それは既に、十二月事件で分かったこと。 後は徐々に首を締めていき、現れるであろう文字刈りを片っ端から潰しにかかればいい。
「奇遇だね、私もそう考えていたところだよ。 ところで獅子女くん、このおでんとやら……コンビニに行けばいつでもあるのかね?」
「夏はないけどな。 冬ならどこのコンビニでもあるんじゃないか?」
「ふむ、そうか。 それは良い情報だ」
二人の感染者は食事を終え、立ち上がる。 次なる目的、一人の感染者の救出に向けて。