第八話
「本日から、空いている時間はわたしと彼が稽古に付き合います」
それから数日、週明けの月曜日の早朝に東雲から言い渡されたのは、その言葉だった。 未だ眠い中、桐沢が見つめる先に立っているのは、大柄な男だ。 鋭い目付きと鍛えているであろう肉体、二メートル近い巨体は威圧感が物凄い。
ちなみにだが、櫻井は当然ながら学校がある。 桐沢は今となっては感染者ということもあり、学校にも行けずに人権維持機構のアジトに引きこもりっきりだ。 櫻井が学校へ行っている間、暇を持て余しているというのは事実である。
「おうお前が噂の新入りか。 俺は神藤総司、感染者だ」
「初めまして……でか」
差し出された手を握り返す。 その手は大きく、自身の頭を覆いすらできそうなほどに力強い。 その横に立っている東雲がまるで小さな子供のようにも見えてしまう。
「この前軽く話したと思いますが、彼の文字は『絶巧棄利』というもので、周辺の電子機器などの操作を可能としています。 絶巧棄利という言葉の意味は?」
東雲は相も変わらず無表情であるものの、言いながら小さくあくびをしていたことから、どうやら東雲もまだ完全には目が覚めていないらしい。 眠そうな目付きも相まって、そのまま眠り始めてしまうのではないかと心配にもなる。
「ぜっこう……交友を絶つ的な?」
「人々の手で作られた利器から離れるという意味です。 まぁ神藤さんの場合、ある意味でそういう文字ですが」
「俺の文字なんざどうでも良いだろ、東雲。 それに今日から始めることに文字は関係ねえしな」
話し合いというのはあまり好きではないのか、神藤はロングコートのポケットに手を突っ込んだままに言う。
「……自己紹介というのは大事ですよ?」
「男同士の語り合いなんて拳があれば充分だ。 だろ? 桐沢」
「へ? 拳って……まさか」
「大体の予想は付いたようだな。 今日から俺と東雲がお前の訓練に付き合ってやる。 誇大妄想つったっけか、その文字は確かに強力だが、使いこなせる体あってこその文字。 基本的な技術ってのは必ず必要な場面が出て来る」
「……勝手に省略しないでください。 宗馬くん、神藤さんの言い方だと語弊がありますが、これはリーダーの夏井さんからの依頼なんです。 もちろん宗馬くんに拒否権はありますので、嫌でしたら断って頂いても」
「いや、やるよ。 要するに俺がまともな戦力になるように手伝ってくれるってことだろ? 願ったり叶ったりだ」
「それでこそだ。 とりあえず、物は試し」
神藤は言い、コートを部屋の片隅に置く。 屈強な肉体は既に暖められているようで、いつでも動けると言わんばかりだ。
「お手並み拝見、来いよ桐沢」
こうして、神藤による訓練は幕を開けるのだった。
「大丈夫ですか?」
「……なんとか」
二時間ほど、神藤を相手取り素手による戦闘訓練が行われた。 結局桐沢は神藤にまともに攻撃を与えることが叶わず、文字がない状態では素人も良いところだと思い知らされる結果となった。
部屋の壁に背中を預け、所々が傷ついた体を休める。 その横に座り、冷えたお茶を出すのは東雲だ。
「けど、俺こんなんで大丈夫なのかなってちょっと思ってるかも。 なぁ東雲、どうやったら強くなれるんだろうな。 どうすれば戦えるようになるんだろう」
「最初は誰しもそうですよ。 わたしだって、最初は弱かったですし」
東雲は言いながら、部屋を照らす電灯を見つめる。 そのまま小さな声で「今もかもしれませんが」と言ったその言葉は、桐沢には聞き取ることができなかった。
「休憩ですし、世間話でもしましょう。 宗馬くんは、櫻井さんと付き合っているんですか?」
「何その世間話!? いきなり急な質問だな!?」
「ああ、ごめんなさい。 その、あまり世間話というのはしないもので、どういった内容を話せばというのが分からず」
小さく笑い、東雲は言う。 どこか悲しげな表情で、それを見た桐沢は若干困ったように顔を逸らし、口を開く。
「付き合ってねえよ、ただの幼馴染」
「幼馴染、というのは幼いころからの顔馴染み、という意味ですよね?」
「……そうだけど?」
「なるほど。 ごめんなさい、わたしは生まれてこの方、今の生き方しかしてこなかったもので……世間話というのは、少々難易度が高かったかもしれません」
「今の生き方って……ここで生まれたってことか? 親とか、兄弟は?」
言われた東雲は顔を桐沢へと向ける。 そして、桐沢の質問に答えるべく口を開いた。
「親は大分前に。 妹は双子の妹が居ましたが、昨年末……丁度一年前ですか。 殺されました」
「それって」
「鴉に、エドワーズという男が居ます。 その男に殺され、亡骸すら見つかっていません」
俯き、東雲は言った。 どこか強い存在だと思っていた東雲であったものの、その姿は弱々しく、ただの少女のようにしか見えない。
「……妹とは、仲が悪かったんです。 昔こそ仲良くしていましたが、面倒臭がりで遊ぶのが好きな妹は、いつも不真面目で。 わたしの後ろをいつも歩いていた妹は、段々わたしと違う方へ歩くようになっていて」
「東雲」
「その内、わたしと話すことはなくなっていました。 なんとなくお互いがお互いを避けて、なんとなく距離を取り、そうこうしている内に妹はあいつに」
「東雲ッ! もう話すな」
「ッ……はい」
東雲の顔は、とても見れたようなものではなかった。 いつもの無表情は全ての感情を殺していたかのように、今の顔は悲しみと怒りに満ちている。 そんな東雲の顔はあまり見たいものではなかった。
「落ち着けよ、な?」
言いながら、桐沢は東雲の頭に手を置き撫でる。 すると東雲は咄嗟の反応か、それを数秒何もしないで受け入れた後、体を避けるように動かした。
「……好きな食べ物とかあるのか? 東雲は」
「へ? 好きな食べ物、ですか?」
「ああ」
「……お魚は好きですけど」
「おお良いね、俺も焼き魚は好きなんだ。 この時期だとシシャモとか美味しいよな。 後はコロッケが俺の好物だ」
「あの……何故、急にそんな話を?」
「何故って、世間話だよ、世間話。 良いか東雲、世間話ってのは他愛もない話をするもんなの。 お前がしようとしてたのは重すぎる、ヘビーな話はもうちょい仲良くなってからな」
「……わかりました。 では、そのシシャモとやらについて話しましょう」
「シシャモ知らないの!?」
それから気付けば数十分、話し込んでいる二人であった。
「それで次に子持ちシシャモなんだけど」
「子持ち……ごめんなさい、少々頭が痛くなってきました。 魚なら魚で良いと思います」
「すごい大雑把に分けたね!?」
どうやら、東雲由々は世間知らずらしい。 生まれたのはこの機構が擁する建物で、育ったのもまたこの中となれば無理もない話かもしれない。 が、不思議と東雲と話す時間は面白くも感じられる。
そして、そんな東雲を見ていたらなんだかからかいたくなる衝動に駆られ、桐沢は切り出す。
「知ってるか? 魚って空を飛ぶんだぜ」
「それは本当ですか? 是非、見てみたいです」
……見事に信じている様子だ。 さすがにこれ以上騙すのは悪いと思い、すぐさま言う。
「……いや冗談だけど」
「な……それならそうと、予め言ってくれなければ分かりません」
東雲は若干焦りつつも言うと、小さく咳払いをし、続けた。
「そろそろお昼時ですし、一旦昼食にしませんか? その後はわたしとの訓練という流れで」
「……神藤さんより厳しそうなイメージがあるんだけど」
「む、それは誤解です。 前の一件は勝負であって、今日のは訓練ですので、しっかりと宗馬くんが強くなれるように手を貸しますよ。 まずは肉体の鍛錬、腕立て腹筋背筋スクワット、そういった地道な鍛錬を重ねることからですね」
「やっぱりハードだろそれ!? ええっと、どれくらいを目指せば良いんですかね……?」
もし、万が一。 神藤並にと言われたら心が折れそうだ。 そのことから桐沢は恐る恐る尋ねる。 すると、東雲はこう返した。
「そうですね、大体この程度が出来れば及第点と言ったところですか」
右手を地面に付け、東雲は己の体を持ち上げる。 片腕での逆立ち、それを難なくこなし、更にそれを支えるのは指のみだ。
「……挫折しそう」
「大丈夫ですよ。 昨日まで無理だったとしても、明日にはできるかもしれませんし。 それに一つお忘れではないですか?」
東雲は指を離し、器用に地面に足を再び付ける。 それだけでどれほど運動神経が良いかはすぐに理解できた。
「忘れてるって……何を?」
「感染者は、文字と同時にもう一つの恩恵を得ることができるんですよ。 身体能力の強化という」
……言われてみればそうだ。 確かに、先ほど神藤との立ち会いで感じたことは多くある。 昨日までの自分であったなら、恐らく立ち上がることや話すことすら困難なほどに打ちのめされていてもおかしくはない。 だが、今は午後の東雲の特訓を視野に入れられるほどに余裕はある。 つまりその分だけ、身体能力は向上しているということだ。
「おお……おお! 確かにっ! なんかすげえできる気がしてきた!」
「調子が良いですね、宗馬くんは。 ですがやる気が出るのでしたら、わたしも思う存分付き合う所存です」
東雲の言葉により、存外やる気が出た桐沢であった。