第七話
目の前に広がるのは、目を疑うほどのものだった。 しっかりと整備された室内、近未来的な構造の建物は桐沢たちが今まで見たことがないようなものだ。
「すげえな……」
「資金は豊潤にありますので、設備については問題はないかと。 寝室、シャワールーム、会議室から娯楽室まで完備されています。 後で案内しますが、まずは行くべきところにですね」
東雲の言葉通り、その建物内は大きく、広大なものであった。 少なくともそこらにあるホテルよりも上等であろう設備となっており、多少の興奮を二人は覚える。 自動扉が基本で、施錠などが必要な扉は網膜または指紋認証となっている。 所々に自動販売機も設置されており、ここで暮らすというのは些か贅沢過ぎるとすら思えるほどだ。
「行くべきところ?」
櫻井が尋ねると、東雲はすぐさま答えた。 首に巻いてあるスカーフを直し、告げる口調は平坦なものである。
「ええ、わたしたち人権維持機構、そのリーダーのところです」
「やぁやぁ、初めまして。 俺は人権維持機構のリーダー、夏井海琴。 女っぽい名前って言われるけど、見ての通り男だね」
それから数分、東雲の案内により建物内を歩いた二人は、やがて大きな扉の前で立ち止まった。 そこがその場所だとはすぐに分かり、東雲は声もかけず扉の前へと立つ。 そうして開かれた扉、間髪入れずその男が口を開いた、といった具合である。
夏井と名乗った男は若く、爽やかにそう告げる。 桐沢たちが感じた第一印象は、思ったよりも砕けた性格の人だ、というものだ。 人権維持機構という組織は、少なくとも名前だけで見れば全国規模。 その纏め役となればさぞ厳格な人だろうというのが二人の予想であったのだが……。
「夏井さん、もしかしてまたサボってました?」
「へ!? いやいや、まさか? それは誤解だよ東雲くん、ついさっき、数秒前までこうバリバリ働いてたよ」
「ならその机の上の資料の山は」
「これは、ほらアレだ。 さっき神藤くんが持ってきたんだよ。 つい五分位前にね、ついさっき」
「その割には神藤さんとすれ違いませんでしたが。 それに数秒前まで働いていたという言葉と矛盾する気が」
「ああ、十分前だったかな? あ、もしかしたら二十分かも? 数秒前っていうのはアレ、ちょっと違う仕事のことだね」
「……もう結構です。 わたしがやっておくので」
呆れたように東雲が言い、資料を持ち上げ部屋から出て行く。 それを見送る夏井は申し訳なさそうに笑っていた。 結構な問題人物のように思えたが、二人の仲は険悪とは思えないものだった。
「んん……話が逸れてしまったね。 まずは俺の仲間を助けてくれたこと、感謝するよ。 君が桐沢くんで、そちらが櫻井くんで良いかな? 良いなぁ若い、若いというのは良いことだ」
「っと、はい。 初めまして」
慌てて言う桐沢と、その横で頭を下げる櫻井。 それを見た夏井はやはり笑うと、続けた。
「話を聞いてから協力してくれるかは考える、で良かったかな? 東雲くんから聞く限り、君の力は相当な戦力になり得るから」
「そこまで期待されても……って感じですけど、力になれるなら。 でも俺、本当にそんな強くないっすよ? 東雲にだって負けたし」
「お、彼女と戦ったのかい? どうだった?」
それを聞いた夏井は、興味深そうに尋ねてくる。 あまり思い出したくない思い出、女子に一瞬でひれ伏せさせられ、あろうことか上に座られながら謝らせられるという屈辱的な負け方だ。 それだけ東雲が強く、桐沢が弱かったというだけの話だが、男としてのプライドはズタボロである。
「……手も足も出ませんでした。 一瞬のことで反応もできなくて、気付いたら負けてました」
「ということは、彼女は武器を使ったんだね。 使うなとは言ってあるんだけどな……」
頭を掻き、東雲が去って行った扉を見つめ、困ったように笑いながら夏井は言う。 それを見た桐沢は、慌てて口を開いた。
「あ、いや、でもあれは仕方なくて。 東雲は俺と櫻井を信用して、それで使っただけで……」
「ん? ああ、あはは。 そんな慌てなくても何もしないよ。 あくまでも自制するようにってだけで、使うべき場面と場所は彼女に一任してあるし。 彼女が武器を使ったなら、それは正しい判断だって俺は思うしね。 東雲くんは少々固い部分もあるけど、根は優しい子だ。 気負い過ぎるというのもあるけど……いろいろと抱えてしまっているからね、彼女は」
「……いろいろと」
それを感じさせるような雰囲気は、確かにあった。 だが、踏み込んではいけないような気も同時にしていた。
「櫻井くんの家に泊めて貰ったと聞いたよ。 東雲くんの様子はどうだった?」
「よく食べ、よく寝ていた。 私も少し話をしたが……意外と気さくな印象を受けたな」
「え、いつの間に」
「お前が朝いつまでも寝ているからだろう。 私たちに迷惑を掛けたと大分落ち込んでいる節もあったが……」
「そうか、そうだろうね。 東雲くんは、人との距離の測り方を知らないんだ。 俺も他の奴もどうにかしようとは思っているんだけど、ここに居るのはおっさんばかりだからね、どうしても難しいってのがあって」
夏井は口に手を当て、途中からはまるで独り言のように呟く。 それは詳しく聞かずとも、東雲のことを心配しているということはすぐに分かった。
「おっと話が逸れたね。 というわけで、別に東雲くんの行動についてはまったく問題なしだから安心しなよ」
それを聞いた桐沢は胸を撫で下ろす。 自分が口を滑らせ、その所為で東雲が叱責を受けるのはマズイと思ったからだ。 だが杞憂だったようで、それどころか夏井の口から出てきたのは東雲に対する信頼だ。
「櫻井くんと言ったか。 君はどう思う? 俺たち人権維持機構は」
言われた櫻井は少々目を流し、思考した。 それも数秒のことで、迷わず櫻井は言葉を紡ぐ。
「正直なところ、無謀だとしか思えない。 命を捨てるような行為だと」
「うん、それで?」
「でも、目指しているものは間違っていないと思う。 東雲の言葉通りなら、対策部隊もそれを敵とする感染者集団も敵に回し、お互いが平和に暮らせる世界を目指すということだろう?」
「ああ、そうだ。 ここに居る人たちは、みんな感染者に対して理解をしている。 もちろん感染者だって居るし、桐沢くんにとっても過ごしやすい場所になるはずだよ。 ここは傲慢に、強欲に俺の願いを言ってしまうと……桐沢くんが入ってくれて、その手伝いをしたいと櫻井くんも入ってくれるのが望みかな。 君は頭が切れそうだから」
爽やかに笑い、夏井は櫻井に顔を向ける。 夏井海琴という男は、少なくとも人の性質を見抜く力は人一倍あった。 その眼がそう判断している、たったそれだけで言い切った。
「折角いろいろ話してくれて、そこまで言わせておいてあれなんすけど……」
桐沢は言うと、顔を上げる。 その瞳は真っ直ぐに夏井のことを見ていた。
「俺にはもう、選択肢なんて存在しないと感じてます。 さっき、下水道で東雲の言葉を聞いて、俺は思ったんです」
桐沢宗馬は、まだまだ未熟で荒削りだ。 それは桐沢自身も分かっていることで、及ばぬことなどいくらでもあるだろうと予想も付いている。 だから桐沢が今から言うことは、厚かましいことだ。
「東雲は、俺よりも数倍強いって。 実力だけじゃない、心も性根も見ている先も、俺よりも強くて綺麗で眩しいものだって。 それにあいつは感染者じゃなくて、人間です。 文字がなく、ただ自分の力を鍛えて鍛えて、それで強くなったんだと」
「どうしてそう思う?」
「そのくらい、手を握れば分かります。 あいつの手は、すげえ綺麗だったんです」
それはもしかしたら桐沢しか思わないことかもしれない。 東雲の手は、固く力強かった。 幼さが残る顔付きとはまるで違って、東雲の手の平は想像できない努力を重ねた跡が残されていた。 だから、桐沢は選ばずにはいられない。
「俺より年下の子があれだけ頑張ってるのに、たまたま偶然、強い文字がある俺が逃げるなんて、間違ってる。 もしも俺が感染者になった理由があるとすれば、それはここで戦うためだ」
「……なんだ、私のためでなく東雲のためか」
「へ? ああいや! そういう意味じゃなくて!」
「ふふ、冗談だよ。 まぁ分かっていたことだ、お前がそれ以外の選択を選ぶとは思えなかったしな」
桐沢をからかうことが楽しいのか、櫻井は笑う。 そんな二人を見て、夏井は大きく頷き、手を差し出した。
「人を助けるのに理由は要らない。 それと同じで、誰かのために何かをしたいっていう君の気持ちは尊重されるべきだ。 俺たちも全力で支援する。 人権維持機構へようこそ、桐沢くん、櫻井くん」
握るその手は力強く、そして歓迎されたということは明らかで、二人は笑う。 これが始まり、桐沢宗馬という感染者、そして櫻井吹雪という人間の二人が人権維持機構に加わり、物語の歯車は大きく動き始める。
それは狂った方向にか、それとも正しい方向にか。 そのことは誰にも分からず、果たしてそれがどう影響を及ぼすかは、誰しもが知らぬところだ。
遥か北で起きた小さな出来事は、やがて大いなる影響を与える存在になることは、誰もが知り得ないことである。
「……まったく」
盗み聞きをするつもりはなく、偶然聞いてしまった言葉であった。 東雲由々は夏井の部屋を出た後、資料のことで一つ確認しようと思い戻ったところで、その言葉を聞いてしまった。
桐沢の言葉は、彼女の耳を通り心に溜まる。 小さく笑い、東雲は自らの手を見つめた。 汚い手だと、自分でも思うものだ。 皮はところどころ擦り切れており、それが皮膚を固くさせ、マメも多数あり、血が滲んでいる場所もある。 汚い手だ、汚れた手だ、美しくなく綺麗などでは決してない自分の手。
その手に触れてみる。 やはりザラザラとしており、皮膚は固く女の手とは思えない。 しかし今はそれが少しだけ誇らしいと、そう思えた。