第十四話
「シシ君、一つ頼みがあるんだけど良いかな」
別れたあと、ロクドウは一つ思い出し、獅子女に電話をかけた。 断られたのならそれもそれで良いと、そういう思いからだ。
『ん? ああ別に良いよ、それを恩だと思ってうちに入ってくれれば言うことなしだけどな』
「さっきも言っただろう、わたしはどこの組織にも属す気などないよ。 どこで誰がどうなろうと、わたしにとってはいずれ過去のこととなる、意味のないことだからね」
『だろうな。 で、頼みって?』
「居場所は割れてしまったものの、わたしとしてはまだこの街での生活をしたくてね。 今回の作戦は滞りなく完了し、掃討は無事に終了した……ということにできないかな?」
『んー、そんくらいならまぁ大丈夫だろ。 アオに聞いてみないと分からないけど、俺の文字も使えば余裕そうではあるかな』
「助かるよ。 それじゃあまた」
ロクドウは獅子女の言葉の続きを聞くことなく、通話を切る。 雨は更に強さを増しており、視界不良とも言えるほどに強まっていた。 そんな雨粒たちはロクドウの髪や服を濡らし、まるで音楽でも奏でるかのように地面へと叩きつけられ、周囲には音が鳴り響いている。
そのまま歩き、家へと向かう。 小夜には余裕を持って避難をできる時間を与えている、家に帰ったらひとまず小夜に連絡を取り、もう安全だということを伝え、呼び戻そうと、思いながら。
「……まったく、人間というのはどうしてこうも世話の焼けるものなんだろうな。 ……それは感染者も同様か」
しかし、生まれてこの方、あそこまで自分に干渉してくる人間というのは始めてであった。 感染者と知りながら、数百年という時を生きていると知りながら、危険だと知りながら、小夜は異常なまでに自分との生活を望んでいた。 自分が描いた絵も、小夜はえらく気に入っているようで、ロクドウとしても悪い気分ではなかった。
物珍しい、好奇心とでも言うべきか。 あのような人間に対する好奇心だ。 自分を拷問する人間もいれば、興味を抱く人間も居る。 その違いはどこにあり、どう違うのか。 それに対する好奇心だろう。
「しかし雨が気持ち悪いな。 サヤ君を呼び戻したら髪を洗わせよう、お風呂上がりにミルクティー、からかうのも楽しそうかな」
文句と罵倒を織り交ぜて、それと小夜の嫌がる怖い話でも混ぜつつ話すのは愉快極まりない。 小夜は大変怒ると思うが、それもまた愉快だ。
ロクドウはそんな思考を巡らせながら、家までの路地へと入る。 路地の中にある小さな家、一番最初の出会いは、その路地を行った先にある家で、小夜が玄関前で倒れているところからだった。
そして、今日も。
今日も――――――――彼女はそこへ居た。
「……サヤ君?」
メイド服を着ていた。 黒い髪を腰まで伸ばし、無駄に脂肪を蓄えた胸を自慢するかのような服装で、腹が立ったのは既に懐かしい記憶だ。
だが小夜は、今日は前よりも大人しくそこへ居た。
地面へ、倒れ込んでいた。 それは一緒だ。 一緒なのだが、雨に濡れた地面には――――――――血が滲んでいた。
「おい、こんなところで寝るような子に育てた覚えはないだろう。 馬鹿者」
小夜の体の横へ立ち、見下ろし、ロクドウは言う。 反応はなかった、体は動いていなかった。
ロクドウはそのまましゃがみ込み、小夜の顔を見た。 前髪を上げたときに見えたのは、目を見開いた小夜の顔だった。 そして額には、弾痕が残されていた。 獅子女の情報からして、対策部隊は地下坑道を通しても部隊を送っていたと見られる。 そして、その部隊はこの辺りまでやって来ていたということだ。
「そうか、死んでしまったのか、サヤ君。 間抜けな奴だ」
避難をしろとは伝えたはず。 であれば、ここに居るということは自身の忠告を無視したということになる。 ロクドウは呆れたようにため息を吐き、小夜の抱えている一つの物に気付いた。
いつかプレゼントとして描いた、絵だった。 小夜の人物画、いつも小夜が空回りな発言をすることから、小夜の頭が割れ、その中から沢山の花が生えているというのを描いた絵だ。 もちろん、描く以上は真面目に描いた絵だ。
「わたしの絵に価値などないというのに、サヤ君はどこまで愚かなのかね。 その絵のためだけに死ぬとは、近年稀に見る間抜けとは君のような奴を言うんだろうね」
小夜の頬に手を添え、自身の膝へとその頭を置いた。 雨の所為なのか、とても冷たくかつての温もりはどこにもない。 瞳には光がなく、心臓の鼓動は止まっている。 手も、体も、全てが死んでいるということを表していた。 なくなるときは一瞬で、それはまるで泡のように弾けて消え去る。
「脆いね、人間は。 たった一発の鉛玉で命を落とすなんて、愚かで惨め極まりない。 君のことは多少買っていたけれど、所詮はただの人間だったというわけだ。 失望したよ、サヤ君」
ロクドウは言い放ち、小夜の死体をそのままへ家へ帰ろうとする。 だが、どうしてか。 頭ではそう思っても、体は全く言うことを聞かなかった。 膝には小夜の頭が置かれており、左手は小夜の頬を撫でており、右手は小夜の後頭部を支えており、そして。
――――――――ロクドウの瞳からは雨ではない何かが、零れ落ちていた。
「……わたしは泣いているのか? 理解に苦しむね、たかが人間が一人死んだだけ、いずれは過去の出来事となり風化するのみだというのに。 こんなことには、慣れてしまったと思っていたが」
小夜の瞳を見つめ、今一度小夜の頬へと触れた。 まるで宝物のように抱えている絵は、どうやら取り上げられそうにはなかったのでそのままにした。 代わりに、小夜が抱えていた袋の中に手を入れた。 中に入っていたのはシュークリームで、泥と雨に濡れてとても美味しそうとは思えない見た目をしていた。
そんなシュークリームを口へと運ぶ。
「甘いな。 サヤ君、これは甘すぎるだろう。 わたし好みの味じゃあない、いい加減学べ、馬鹿者」
ロクドウは小さく笑い、携帯を取り出した。
「シシ君かい?」
連絡先は、獅子女の元だ。 すぐさま繋がった電話に向け、ロクドウは続ける。
「さっきの件だけど、やっぱり良いや。 事情が少し変わってね、助力を請う必要がなくなったよ。 この街にずっと住み着く必要がなくなった」
空を見上げる。 顔に当たる雨粒が気持ちよく、ロクドウは目を細める。 口を開けると、鉄の味がした。
「それと、兼ねてからの件だけど、わたしも加わるとしよう。 今度会うときはわたしも神人の家の一員というわけだ。 シシ君が言う「対策部隊潰し」をわたしも手伝おう」
ロクドウの言葉に、少々間を置いて獅子女は何かあったのか、との疑問をぶつける。 それに対し、ロクドウは短く答えるだけだ。
「いいや、少し小石に躓いただけさ。 それじゃあまた会おう」
人は死に、いつかは誰も彼もが消えてなくなる。 当たり前のことで、当然のことだ。 そして人というものは思っている以上に簡単に、呆気なく、まるで掌から零れ落ちるようにその命を落としていく。 少女にとってそれは支えられるものではなく、ただただ零れ落ちるのを見ていくしかなかった。
「君はよく、わたしのことを親友だと言っていたね。 わたしはその度、それを否定していた」
激しい雨音の中、ロクドウの声が響き渡る。
「君はよく、わたしのことを好きだと言っていたね。 わたしはその度、君を嫌いだと言っていた」
どんな思いでその言葉を紡いでいるのか、それはロクドウにしか分からない。
「君はよく、わたしを尊敬していると言っていたね。 わたしはその度、君を見下していると言っていた」
最後に、彼女に伝えたかった言葉。 不死の少女が、人間の少女に向けての言葉。
「悪いなサヤ君、わたしは嘘つきなんだよ」
小夜の顔を両手で触り、真正面から小夜の顔を見て、その開かれた瞼を優しく閉じ、ロクドウは最後に伝える。
「――――――――すまなかった。 それと、おやすみ。 ゆっくり、休むと良い」
それが、ロクドウの生涯唯一の親友との別れであった。 そして、かけがえのないものを失った日であった。
この時期を境に、感染者対策部隊は大いなる脅威を敵に回すこととなる。 感染者、ロクドウ。 彼女が神人の家に加わったという出来事は、これからの運命も変えさえする出来事であった。
その切っ掛けが一人の人間の少女だということを知る者は、ただ一人のみである。