第十二話
『ロクドウ、すぐにその街から離れた方が良い』
その電話がロクドウの下に来たのは、昼下がりのことであった。 小夜は画材道具の買い出しに行っており、ロクドウは新聞に目を通していたときのことだ。 獅子女からの電話は端的で、それだけを伝えると言いたいことは言い終わったと言わんばかりに無言になる。
「いきなりなんだい。 生憎わたしは忙しいんだ」
『俺の仲間が調べた情報だ。 今日の六時、その街に掃討作戦が行われる。 お前の存在がバレたんだよ』
「これもまた恩の押し売りかい?」
ロクドウは言いながら時計に目を移す。 現在の時刻は午後四時、獅子女の言葉が本当ならば残された時間は二時間だ。
『まぁな。 だから今すぐそこからは離れた方が良い』
「まったく、えらく急だね。 確かなのか? それは」
『アオの調べた情報に間違いはない』
アオ、というのがその情報を調べた人物なのだろうか。 獅子女がそこまで言い切るからには、余程信頼を置いている人物なのだろう。
しかし、この時期に至るまで調べ上げられなかった情報。 かなり厳重に秘匿されていた情報かと思われる。 それが今になって出てきたということは、当然ながら住民になど知らされているわけがない。
対策部隊のやり方だ。 人命よりも感染者の駆逐、それに注力する対策部隊のやり方は確固たるものであり、それがまた真実味を帯びている。
「分かった。 数は?」
『三百は超える。 その辺り一帯に居る感染者の捕獲も視野に入っているだろうから、荷物をまとめたら連絡くれ。 ルートはこっちで用意する』
「なに、その必要はないさ」
『……戦う気か?』
「ご想像にお任せする。 こちらも色々とやることがあるのでね、情報どうもありがとう」
ロクドウは言い、電話を切った。 そのまま違う番号を呼び出し、電話をかける。
数度のコール音の後、電話は繋がる。 聞こえてきた声は、聞き慣れすぎた声だ。 今ではその声は毎日聞くもので、聞き飽きたと言っても過言ではないかもしれない。
『わ、わ、ロクドウさんから電話って超レアですよ!』
「開口一番それとはどんな教育をされてきたんだね、サヤ君。 命令だ、今すぐこの街から出ていくように」
『……はい?』
「二時間後、この街に対策部隊が掃討作戦を行うって情報が入ってきた。 死にたくなければとっとと出て行くことだ」
『え、ええぇ!? で、でもロクドウさん、それって感染者に対する……ですよね?』
「君は何も知らないのか。 奴らのやり方は人命など無視した感染者駆逐にある。 この街にいる人間ごと、奴らはわたしたち感染者を殺しに来るはずだ。 命が惜しければ言われた通りにするんだ」
『……そんな。 折角美味しそうなシュークリーム買ったのに!』
「おいそれはわたしのお金だろう。 人のお金を使い込むな」
『でもとっても美味しそうだったんですよ! ロクドウさんにも食べて欲しくて!』
「機会があれば貰う。 良いからさっさとこの街から出ろ」
『……また、会えますよね? ロクドウさん』
「さてね。 もしもわたしが捕まれば、会えるのは十年後か二十年後か分からないさ。 ただ、奴らにわたしを捕まえることができればの話だけれど」
『十年後でも、二十年後でも、待ってますよ!』
「犬のようだな、君は。 まぁ良い、サヤ君、一つだけ君は分かっていないようだから伝えておく」
『……はい?』
「わたしの助手が努まるとすれば、それは君以外にはいない。 そういうことだ」
だから生きろ。 そう続けようとしたが、言葉にせずとも伝わっていると思い、ロクドウは電話を切るのだった。
「さて、攻勢は如何程に……と」
夕方五時、ロクドウは街でもっとも見晴らしの良い高台に居た。 教会の鐘がある場所で、ここからなら街の全景どころか周囲までも見渡せる。 そんな場所から、ロクドウは周囲の景色を眺めている。
「手が早いなぁ、もう囲んでいるのか。 シシ君は三百って言ってたけど、大体その通りって感じだね、これは」
自分一人で相手をするのは困難を極める。 この街一帯における掃討作戦となれば、神経ガスを巻くにも手間が掛かり過ぎる。 その過程で対象である自分に逃げられれば元も子もなし、よって今回の作戦で神経ガスが使われることはない。 そこまで考え、ロクドウは視線を別方向へと向ける。
「シシ君のところ……神人の家って言ったっけ。 あそこの助力は期待できないだろうな」
獅子女の考えでは、ロクドウが加入すれば手を貸すつもりだったのだろう。 だが、あくまでもロクドウに神人の家と手を組む気はない。 身にかかる火の粉を払えばそれでよし、わざわざ対策部隊を潰しにかかるメリットというものが存在しない。
「ルートは三つか」
だが、目的を絞れば不可能ではなかった。 ロクドウの目的、それは自身の家に手を出させないこと。 仕事場であり暮らしている場所、そして小夜の職場でもあるそこを守ることこそロクドウの目的だ。
ロクドウがその教会から見ていたのは、自身の家へと繋がるルート。 路地裏の一角にあるそこへ行くには、街の北側、そして街の南側からの三つのルートが存在する。 そこを通り、坂の途中にある路地へ入った先がロクドウの家だ。
「坂の上へ回る手段はなし。 ということは、必ず坂の下を通らなければならない。 適当に何人か使うとして、充分か」
家を守ると言っても、その家に何かがあるわけではない。 そして対策部隊の目的は、他でもない自分自身だ。 だが、ロクドウは自分でも良く分からない内にそうするべきだとの判断を下していた。
「……この感情はなんだったか。 確か、愛しみか?」
「いや、違うな。 それは違う」
一人で呟き、ロクドウは対策部隊に目を移す。 大部隊が移動を始めた、いよいよ作戦が始動するらしい。
「ああそうだ、思い出した。 これは、興奮だ」
人を殺すことに楽しさを感じたのは、随分昔のこと。 それにすら飽き、そしてあらゆることに飽いていた彼女は生きる楽しさを感じていなかった。
だが、そんなロクドウでも一つだけしていなかったことがある。 何かを守るために戦うこと、何かのために戦うこと。 それを今日に至るまで、彼女がしたことはなかった。
故に、彼女の感じた感情は全く異なるものだった。 それは愛しみでもなければ、興奮でもない。 彼女が感じたモノ、それは焦燥感なのだから。
もしも自分が敗れれば、この街は消え去る。 そして、作り上げられた日々が消え去っていく。 彼女は決してそれに気付かないが、心の奥底にあったのはそんな焦燥感だった。