第十一話
「サヤ君、今日もわたしの話に付き合い給え」
「喜んで! ロクドウさんのお話って、堅苦しいけどよく考えると結構面白いんですよね」
「君のその失礼な物言いは一体いつになったら治るんだろうね。 わたしはそれが気になって仕方ないよ」
あれから数年ほどの月日が経過した。 ロクドウと小夜は少々のすれ違いもありつつではあったが、同じ家で同じように暮らしていた。 ロクドウが絵を描き、その助手を小夜が努めるといったように。
お互い、この生活に不満を感じはしない。 小夜の方は当然ながら、ロクドウもまた然りだ。 彼女にとってこれだけ長い時間、人と共に暮らすというのは大変珍しいことであったが、それを差し引いても小夜の性格というのはロクドウ好みのものでもあった。
「サヤ君は、今まで生きてきた中で後悔したことはあるかい?」
ロクドウはいつも絵を描く位置に座り、小夜はその正面の丸椅子へと座っている。 最近では、こうしてロクドウが絵を描いている間、小夜が話し相手となることが多かった。 それだけ二人の仲は、良好だとも言える。 小夜は天窓を眺めており、そのままの姿勢でロクドウの質問に答えた。
「後悔、ですか? うーん、そうですねぇ……もう少し自分を出していたら、というのはあります」
「ふむ、どういう意味で?」
「私って、自分の意見ってあまり言わないじゃないですか。 あれしたい、これしたいっていうのがあまりなくて」
「一般的なラインで考えると確かにそうだな。 他人本意というのは間違ってはいない」
「そうなんです。 でも、初めてロクドウさんに会って、一緒に居たいなーって思って……でも、そのおかげでロクドウさんとお友達になれました」
小夜は笑顔で言う。 ロクドウは一旦絵を描く手を止め、キャンバスから顔を覗かせ、告げる。
「わたしはそう思っていないけれどね」
「えぇ!? むう……でも尊敬してますよ! ロクドウさんのこと!」
「わたしは君のことを見下しているよ」
「酷いですっ! わたしはこんなにもロクドウさんのことが好きなのに!」
「わたしは君が嫌いだ」
「もう良いです!」
顔をつんと逸らし、小夜は言う。 不貞腐れたのが分かりやすく、ロクドウはそんな小夜に小さく笑いつつ、絵を描くことを再開した。
「わたしは後悔ということを知らない」
「え?」
顔を逸らしていた小夜は、ロクドウのそのひと言によって、再び顔を向けた。
「いや、正確に言えば忘れた……か。 きっと、数多くの後悔をわたしはしていたのだろう。 だが、忘れてしまった。 長く生きている間に、そんなものはあっという間に消え去っていくものだ。 時の流れというものは、全てを風化させていく」
「……そうかも、しれませんね。 私もきっと、忘れたことは沢山あります。 ロクドウさんは、もっと沢山」
「そうだ。 どれだけ覚えようと必死になったところで、記憶というものは残酷に消化されていく。 わたしはそうして親の名前も忘れたし、自身の名前すら忘れてしまった。 だが、悲しいとは思わない」
いくら思い出そうとしても、思い出せない。 親の名前、顔、自分の名前、友人たちだった者の名前も顔も、時間の流れによって溶かされ、消え散り、吹き飛ばされていく。 自分の名前を忘れたとき、ロクドウはその事実に思わず笑いが込み上げた。 自分が何者なのかという証を失った気分になり、それから少し経ちどうでも良くなった。
「なんだか、悲しいですね。 いずれ全部忘れてしまうっていうのは」
「そうかい? 人の記憶なんてそんなものさ。 曖昧で揺らいでいる、いつ吹き飛んでもおかしくはないようにね。 だからサヤ君、どうせ忘れるのだから後悔なんていくらでもすればいい。 しかしわたしに迷惑は掛けないでくれよ、殺したくなってくる」
「怖いこと言わないでくださいよぉ! 私だって一生懸命やってるんですからね! ほら、今ではきっとロクドウさん、私のミルクティーが一番だと密かに思っているはずです!」
「サヤ君のミルクティーか。 ちょっとサヤ君、きわどい格好をして「わたしのミルクティー如何ですか」って言い回ってきてくれよ。 素晴らしい売り上げが期待できそうだ」
「嫌ですよ!? なんですかその危ない発想!?」
「良いじゃないか、減るものじゃあるまい」
「いろいろと失う気がしますッ!」
小夜の言葉に、ロクドウは思わず笑った。 そして、自分でも不思議なことに楽しいと感じていた。 小夜をからかうことは、少し楽しいと。 それだけでロクドウにとっては価値あるもので、退屈な日常とは無縁のようにも思えた。
「よし」
そう言い、ロクドウは立ち上がる。 そんなロクドウを見た小夜は自身の胸を隠すようにし、体をびくりと反応させる。
「おいなんだその眼は。 まさかわたしが本気でそんなことをやるとでも?」
「ロクドウさんの冗談って、冗談じゃないから怖いんですよ」
「一応言っておくが、そこで胸を隠す君も大概だぞサヤ君。 もしも君の胸からミルクが今現在出るなら今すぐ病院で受診することを勧めるよ」
ロクドウは言いつつ、今さっき描いた絵を持ち上げる。 上や下、斜めからそれを眺め、満足したのか首を縦に一度振った。
「さてサヤ君、人というのは常に忘却というものと戦っているとも言える。 そんな忘却を抑えるため、人々がすることはなんだい?」
「え? ええっと、またいきなりですね……。 うーん……」
小夜は両手の人差し指を頭に当て、考えた。 ロクドウの問いかけは常日頃からあるものの、大抵が難解で理解できないことも多くある。 だが、それでも一応は真面目に考えるのが小夜という人物であった。
「あ! 今回は分かっちゃいましたよ! ふふふ、ついにロクドウさんの考えが読めました!」
「だったら早く言え。 君の前口上は時間の無駄かつ酸素の無駄だ」
「酷いですね!? ええっと、ほら、あれです。 人は人に、何か贈り物とかするじゃないですか。 結婚記念日とか、誕生日とか、クリスマスとか、他にも沢山。 それの一つ一つには、きっと想い出というものがあって、人が人に覚えてもらったり、忘れて欲しくない大切な人に送る贈り物……とか」
「くだらないな、本当にくだらない。 サヤ君の答えはありふれ過ぎていて、わたしとしては心底つまらない」
「……むぅうううう! だったら何が正解なんですか?」
「さてね」
ロクドウは言うと、家の中へ戻るべく歩き出した。 そんなロクドウの背中を追いかけるように小夜は立ち上がると、付いて行く。
「答えを聞かないと納得できませんよ、ロクドウさん」
「明確な答えがあるとは言ってないだろう」
「……えいっ!」
小夜は言い、ロクドウの体を抱き締めた。 ロクドウは顔を上げ、いきなり妙な行動をした小夜の顔を見る。
「なんだいきなり」
「答えを教えるまで離れません作戦です!」
「わたしの邪魔をするなら殺すと何度も忠告はしているはずだよ、サヤ君」
「……それでもです! それでも納得できませんっ!」
「……君を雇ったのは心底失敗だったな。 もしも後悔することがあるとすれば、君を雇ったということだ。 正解は後ろにある、分かったら離れろ」
「へ、後ろ?」
言われ、小夜は振り向いた。 そこにあったのは、ロクドウが今さっき描いた絵だ。
陽の光に当てられ、その絵が小夜の視界に入る。 描かれていたのは、一人の女性だった。 そして、その女性は小夜にとって見覚えのある人で。
「……これって、わたしですか?」
小夜が再度振り向き答えると、ロクドウは既に歩き出していた。 どうやら小夜の問いに答えるつもりはないらしい。
「……あ、あ!! あー!! 分かっちゃいました!! もしかしてロクドウさん、これってわたしへの誕生日プレゼントですか!?」
一人騒ぐも、ロクドウは無視を決め込んでいる。 家の中にあるソファーへ横になり、その瞳は既に閉じられている。
「もーー! 最初からそうならそうと言ってくださいよぉ! えへへ、ふふふ……」
「うるさいぞ乳女。 黙らないとその絵ごと燃やすぞ」
「へへへ……またまたぁ! 素直じゃないですねぇロクドウさんはっ! わたしのために絵を描いて、それでさっきの質問ってことはそうじゃないですか! ふふふ」
「わたしの忠告を無視したな、今月の給料は半額だ、喜べ」
「そんな殺生な!?」
きっと今までで一番騒がしい、小夜の誕生日であった。




