第五話
「見損ないました、澁谷所長。 自らの素性を隠して、我々の中に潜んでいたなんて……!!」
「な、何を言っている高谷研修生! 俺は人間だ!!」
よろよろと立ち上がり、高谷に向けて言い放つ。 感染者と大いに関わる研究者たちは、毎日の血液検査は必須だ。 そして、今まで一度もその検査で引っかかったことなどない。 当然今朝も、検査の結果は白だった。
「だが、それでもその状態では疑わざるを得ません。 まさかゼロ番を逃したのもあなたの仕業ですか……?」
高谷は言いながら、懐にあった拳銃を澁谷へと向ける。 まさか撃つわけがない、自分の存在というのは研究に大いに貢献しており、自分なくしては感染者研究の進歩はないとも自負している。 そんな自分が、研修生である高谷に撃たれるわけなどない。
「ち、ちがう! 神経毒が別方向で作用したに過ぎないだろう。 人体への影響もゼロというわけではない、現に俺は今、こうして立ち上がっているだろ!」
「……それもそうですが」
人体への影響は限りなく少ないが、ないというわけではない。 それが偶然、たまたま今日この日、自身の体に作用しただけに過ぎない。 そう言い聞かせ、澁谷は高谷に向けて言う。
「しかし、疑わしきは罰せよです。 澁谷所長」
パン、という音が鳴り響く。 同時、自身の肩に熱と痛みを感じた。 視線を向けると、そこには血で染まっていく白衣があった。
「ぐぁ!? ぐ、ぐぅ……!」
澁谷の反応は素早かったと言えよう。 高谷はもう既に、自身を感染者として殺しに来ている。 ならばひとまずこの場は逃げ、場を収めるしかない。 一連の仕事が片付いた後、高谷については人生を潰してやるしかない。 そう思いつつ、澁谷は逃げる。 走り、ふらつき、壁に体をぶつけ、血の跡を付けながら、逃げる。
逃げる、逃げる、逃げる。 視界に光が映った。 何故か、その光の下まで走れば報われる、救われる気がした。 理由はない、ただ、そう感じただけだ。 動物的な直感、生きたいという本能。 それにただ従った。
光をくぐると、草原が広がっていた。 辺り一面を覆う草花が陽の光を受け、喜びを表現するかのように風でざわめいていた。
その中心に、彼女は居た。
「おやおや、なんだか大変そうだね。 澁谷クン」
「ゼロ、番……?」
金糸のような髪を持つ少女は、大きめのワイシャツ一枚を着てそこへ立っている。 くすくすと笑い、澁谷のことを見定めるかのようにこちらを見ていた。
「良いお知らせと悪いお知らせがある。 どちらから聞きたい?」
澁谷は後ろを見る。 そこに既に扉はなく、追手の心配はないような気がした。 だから、澁谷はロクドウの言葉に答える。
「俺は、感染者ではない……! お前とは、違うッ!」
「ああ、それはつまり悪いお知らせから聞きたいということかな。 それを望むならそれも良し、だからわたしは語ろう。 澁谷クン、君はもう感染者だよ。 立派な、ね」
ロクドウは言うと、自らの人差し指を舐める。 その指を太陽の方向へと伸ばし、どうやら風向きを見ているようだった。 未だに表情は、笑っている。
「なに、何もおかしな話ではないさ。 人間と感染者なんて紙一重、人間だったものが感染者になることなんて、日常的に起こることさ。 前兆もなく、ただV.A.L.Vウィルスに感染した場合のみ発現するだけだよ。 それが今日この日だったというだけだ」
「ふざけるなッ!! 俺は感染者じゃない、違う!」
「違わないさ。 V.A.L.V凝固神経毒は感染者にしか効かない、そうだろ? 君が一番良く分かっているじゃーないか」
「……あれは、あれはまだ実験途中だ。 俺が開発したものだが、副作用は」
「ないねぇ。 くふふ、あくまでも便宜上そういうことにしてあるだけさ。 じゃないといざ何かが起きたときに責任を取らされるからね」
「だからその何かが今起きたんだろうが!!」
澁谷は声を荒らげる。 しかし、ロクドウは依然として笑みを崩さず、微笑んでいた。 どこか幻想的であり、また猟奇的とも言える笑顔は、魅力にも見えてしまう。
「それはない。 自分が一番良く分かっているんじゃないのか? 澁谷所長。 だからこうしてわたしが来たんじゃないか」
「……どういう意味だ?」
「ようこそ、感染者の世界へ。 わたしは君を歓迎しよう、そしてわたしが導いてあげよう。 君がすべきこと、そして君がこれからどう生きていくかを手助けしよう。 わたしは別に、君たちに拷問されたことは恨んでいないし、どうにかしようとも思っていないんだよ。 だって、わたしの中ではそれはただの数百年の内の一ページ、一文ほどのものなのだから。 そんなことを一々気にしていたら、器が小さいだろう?」
「何が……何が目的だ、ゼロ番」
「目的? さてね、目的という目的なんて、わたしは持ったことがないから分からないさ」
ロクドウは言いながら、草原の中の花に触れる。 すると、花は輝きを増し、辺り一面を花へと変えていった。 奇跡とも呼べる光景、あまりにも美しい光景に、澁谷は思わず息を飲む。
「どうする? 澁谷所長」
「……俺は、俺は」
澁谷は言う。 今まで、人間として数十年、長い間を過ごしてきた。 だが、今ではもう感染者でしかない。 感染者に対する処遇は、それを率先して行ってきた自分が一番良く知っている。 それだけは、なんとしてでも避けなければいけない。 数多の感染者と同じ運命は、辿りたくない。
そう思った。 そう、願った。
「頼んで、良いか。 お前には、とても酷いことをしたというのに」
「良いさ。 さっきも言ったように、わたしは何一つ気にしてなどいないよ」
ロクドウは笑う。 綺麗な笑顔で、澁谷の頭に手を置いた。
「ああ、そういえば良いお知らせがまだだったね」
頬に触れる。 ロクドウの手は、暖かく柔らかいものだった。
「これさぁ……実は全部夢なんだよ、くふふ」
そして、世界は崩れ去った。
「っはぁ……! っはぁ……!」
目が覚める。 全身は汗で濡れており、言いようのない倦怠感が体を包んでいた。 とても、夢とは思えないほどに現実味溢れる光景だった。 一体どこからが夢だったのか、それすらも分からないほどに。
「おはよーさん、良いお目覚めだ。 くふふ、中々良い夢だったろう? わたしの六道輪廻は何かと便利で使い勝手が良いんだよ」
体が動かない。 腕も、足も、首も、全てが固定されていた。 その横に立っているのは、ロクドウだ。
「一体何を……!」
「覚えていないのかい? くふふ、まぁ仕方ない仕方ない。 あることないこと盛りだくさんの夢物語は楽しんで頂けたかい? わたしから君へのプレゼント、気持ち良かっただろう? 君さぁ、わたしに何一つ出来ずに捕らわれたじゃないか」
それが、真実だった。 拘束衣を外されたロクドウは、ただひたすらに施設内を歩き、研究者を片っ端から六道輪廻に放り込んでいった。 その内の一人が、他でもない澁谷だったというわけだ。
「全部、夢? 俺は、お前に」
「ま、お話はここまでだ。 そうだ、君は確か夢の中で感染者となっただろう? であれば、実験を始めよう。 なぁに、いつもと変わらないただの実験だ」
歪に、ロクドウは笑う。 傍らにあるパネルの上に腰掛けており、服装はワイシャツのみだった。 血で濡れた顔と、服。 おびただしいほど血の匂いを纏わせている少女は、正真正銘の化け物だ。
「えーっと……確か恐怖によるV.A.L.V含有率の検査、だっけ? また面白いことを考えるもんだ。 ふむふむ、これがスタートでこれがストップ、このスイッチでの調整ね、なるほどなるほど」
「お前、まさか……ッ!!」
そこで、澁谷はようやく気付いた。 自らの眼前にあるのは、巨大な木槌。 血に染まった、木槌だ。
「何を驚く、澁谷クン。 これから先も研究を続けるため、自らが体を張って実験の有用性を試す良い機会だろう? というわけで、スタート」
ロクドウは言うと、スイッチの一つを押す。 轟音を立て、木槌は軋む音を立てながら動き出す。 一度目、勢い良く木槌は打ち下ろされた。
「や、やめろ、やめろやめろやめろやめろッ!! う、うわぁあああああああああああああああああッ!!」
が、木槌は澁谷の眼前で停止する。 息は乱れ、尋常ではない量の汗は吹き出、心臓の鼓動は狂ってしまうほどに早くなっていた。
「おっと、これは一番弱いやつだったか。 さてそうなると、次は痛みを伴うねぇ。 澁谷クン、どれが良い? 確かちょっと痛いのと、結構痛いのと、あとそれと死ぬやつだっけ?」
「た、頼む! やめてくれ、お願いだ! お前にしたことについては、俺が全面的に謝罪する! だから」
「だから別に気にしてないって言ってるじゃんか。 気にしていないのに謝罪をされたって、わたしにはただ滑稽な芝居にしか見えないよ。 まったく物覚えが悪い子にはオシオキだぞー」
ロクドウはスイッチを適当に入れ、ボタンを押す。 木槌は再度、轟音と共に振り下ろされる。
バキリ、という音が響き渡った。 しかし、木槌はその程度で止まった。 室内には、澁谷のか細い息遣いが響き渡る。 血の匂いが、少しだけ増した。
「ほほー、痛そうだ。 顔全体を押し潰すのか、なるほどこれは確かに痛い。 鼻が潰れているじゃないか、くふふ」
「……許してくれぇ、おれ、がおれがわるかった、だから、たのむから」
「じゃあ、もしも解放すればわたしはどんな待遇が得られるのかな? 君の権限で、何ができる? それによっては解放しないこともない。 わたしはこう見えて寛大な心を持っているんだ」
「に、にどとつかまえない。 おわない、人として、いきられるようにしてやる! おれの、すべてをつかって、やくそくしてやる」
涙と血、鼻水と唾液で濡れながら、澁谷は言う。 それを聞いたロクドウは、声高らかに立ち上がった。
「おお! 良いねそれは! うん、オーケイ、その条件ならわたしも君を殺すのは止めるよ。 人として生きるというのは兼ねてからの夢でね……それが実現するというのであれば、わたしも改めて考え直そう。 今日から君は自由だ! 喜べ渋谷クン!」
「……ありが、とう」
「あ、手が滑った」
ロクドウは言うと、最後のスイッチを押した。 勢い良く放たれた木槌は、止まることなく、澁谷の頭部を押し潰した。
「どーん。 うん、実につまらない実験だった。 さて、そろそろ行くとするか。 全くこれほどまでにくだらないとはね」
興味をなくしたように無表情に戻ると、ロクドウは実験室を出て行く。 丁度、そのときだった。
「おや、君は知らないな。 誰かい?」
「た、高谷だッ! 貴様、ゼロ番だな……!」
震える足、震えた声で言う男は若く、新人のように見えた。 そして、この施設最後の生き残りであろう人物だ。
「わたしはロクドウだよ。 どうしたんだい、殺しに来ないのか? わたしを殺さなければ、これから先多くの死人が出るぞ」
「……今は、無理だ。 今の俺では、貴様に勝てない。 今挑んで死ねば、助けられる命もなくなってしまう」
「……」
しばし、ロクドウは高谷を見つめた。 どのみち、この男はいずれ死ぬだろうと、そう思った。 人の命を助けるために戦うなど、戦いに身を置く者向きでは決してない。 本当に戦いに向いている者というのは、人を殺すことに喜びを見出し、楽しみを感じ、幸せを得られる者たちだからだ。
「そうかい。 精々頑張り給え、高谷クン」
言い、ロクドウは歩く。 高谷の横を通り抜け、施設から出るために。 だが、その背中に高谷は声をかけた。
「貴様こそ、俺を殺さなくて良いのか……! 俺はこれから先、感染者たちを殺していくぞッ!!」
「どうぞお好きに。 わたしにとっては関係のない話だよ。 感染者だろうと人間だろうと、どこでどう死のうが勝手にすれば良い。 わたしにとっては感染者たちですらどうでも良い存在だ」
そして、ロクドウは去っていった。