第四話
「時間だ」
看守の声も聞き慣れたものだ。 今日で丁度施設に連れて来られてから一年が経過した。 殺された回数はその数百倍ほどにもなるだろう。 ロクドウにとっては、数百年の内のたった一年、あまりにも短い時間であった。
「……」
犬のように付けられたロープを引っ張られつつ、ロクドウは廊下を歩いて行く。 が、その道中でロクドウは立ち止まった。
「おい、いい加減に大人しくしろ」
「今日で、丁度一年だ。 わたしと君が知り合ってね」
「……感傷にでも浸っているのか? 生憎だが、俺にとってお前はただの感染者に過ぎない。 俺を別室に連れて行くのが俺の仕事だ」
「そうかい、なら良かったよ」
ロクドウは言うと、笑った。 声を上げ、肩を震わせ、笑った。
一瞬、看守はとうとう狂ったのかとも思った。 だが、凄惨な拷問を受けて尚平然を保っていた者が唐突に狂うなど、それもまた考えられないことである。
「一周年。 人は記念日と呼びもするのだろう? ならば、今日はそんな記念日だ」
「はっ、なんだ、俺に何かプレゼントでもくれるのか?」
「丁度この場所も飽きたし、そろそろ出て行こうと思ってね。 久し振りに外の空気も味わいことだしさ」
「馬鹿が。 貴様は一生ここだ。 延々死に続ける運命だよ、お前は」
「プレゼント。 そうだね、プレゼントだ。 わたしから君に、愛のあるプレゼントを渡そうか」
看守はそこで、会話が成り立っていないことに違和感を覚える。 ロクドウの言葉は自身へ向けられているものではない。 ならば、独り言か。
「――――――――六道輪廻」
呟きと同時、看守は頭の奥底で何かスイッチのような音が聞こえたのを感じた。 カチッという、小気味が良い音だ。
「さぁて、まずはそうだね。 この頭を覆っている布、取って貰って良いかな」
「ああ、分かった」
ロクドウが言うと、看守はその言葉に素直に従う。 頭の布を取り払い、ロクドウに言われるがままだった。
「ご苦労。 ついでにこの服も取ってくれ。 いい加減体を動かさないと、老体には少し辛いものでね」
「分かった」
看守の瞳は、光を移していない。 六道輪廻、精神を蝕むその文字に……飲み込まれていた。
精神を蝕む、精神干渉の文字。 それが六道輪廻だ。 使いようによっては相手の精神を支配し、思いのままに操ることも容易いほどの文字である。 一度蝕まれれば、その者の心は死に、ただの操り人形となってしまう。 生かすも殺すもロクドウの手中にあり、最早それは人間とは呼べない存在だ。
「手際がよくて助かるよ。 さてと」
ロクドウは手首をぶらぶらと動かし、久々に体の自由が聞いたことに多少の喜びを見出していた。 そのまま看守に顔を向けると、呟く。
「とりあえず服頂戴。 で、服脱いだら四つん這いになってわたしの椅子になってくれ給え」
看守は来ていたワイシャツを脱ぎ、ロクドウへと手渡す。 ロクドウはすぐにそれを着ると、丁度体を覆うほどの大きさで満足気に頷いた。 そして、看守はロクドウの言葉通りその場で四つん這いへとなった。
「よしよし、良いワンコだ。 少し考え事をするからそのまま待機しておくように」
ロクドウは考える。 それは決して施設を脱出する方法ではない。 彼女の文字は、施設を出るためにはなんら問題がないほどに強大なものだからだ。
丁度一年前、ロクドウは看守に自らの唾を吐き捨てた。 だが、それが起因となり六道輪廻の発動条件を満たしたわけではない。 その後、看守が起こした行動こそが起因となったのだ。
看守は、怒りのままにロクドウを警棒で殴り殺した。 そのとき、舞った血の一部が看守の肌に触れたのだ。
――――――――血液。 それに含まれるは大量のV.A.L.Vであり、感染者が文字を使用する上で必須の成分である。 感染者が感染者たる由縁、そして全ての根源である血が、肌に触れたのだ。
その瞬間、六道輪廻の発動条件は満たされた。 つまり、ロクドウはこの一年間、ただひたすらに遊んでいたに過ぎない。 いつでも文字を使用することはできた。 だがそれをせず、ただ暇潰しとしてこの施設に居続けたのだ。
「どういう風に遊ぼうかなぁ」
全ては、暇潰しだ。 ロクドウにとっての数百年を生きる上で、極僅かな暇潰しは至極の楽しみでもあった。 それが例え、何度死ぬことになろうと、何度殺されることになろうと、ただ一瞬の娯楽のためなら厭わない。
ロクドウとは、そういう人物なのだ。
「ゼロ番が脱走だと!? 貴様、一体何をしていたんだッ!! 至急部隊員を呼べ! 全研究員に防護服、及び武装をさせろ!! 取り逃がせば前代未聞の失態だぞ!!」
その情報が耳に入ったのは、ロクドウがいつまでも実験室へ来ないことを不審に思った別の看守が、ロクドウの独房を訪れたことによってだった。 もぬけの殻で、そこにはロクドウが着せられているはずの拘束衣、そして恐らくは看守の男と思われる灰のみだった。
「クソが……!! 絶対に取り逃がすなよ、最悪この施設ごと神経ガスを散布することも考えておけ! その場合、貴様ら全員巻き込まれることを留めておけッ!!」
慌てふためく研究者たち。 当然、自分もだ。 ロクドウの危険性は対策部隊、及び感染者の研究を続けている者たちの中では周知の事実である。 不死身の感染者、そして他者の精神を支配する感染者。 施設内から出すことは、断固として許されない出来事だ。
「澁谷所長! ゼロ番は!?」
「現在位置は不明だ。 だが、配備もされ外に出た形跡はない。 何が何でも外には出さないぞ、ゼロ番め……!」
そんな澁谷の下にやって来たのは、高谷であった。 丁度明日、高谷は研修期間を終え対策部隊へと配属される。 そんな記念すべき最終日にこの有様というのは、澁谷にとってもプライドを傷つけるものであった。 一体どうやって、何をして、どこから。 そのような疑問が頭を占めるも、取り払った。
今優先すべきことを論理的に考える。 理由や理屈などは後からどうとでもなることで、最優先するべきはゼロ番の身柄を確保することに他ならない。 そのための手段も、厭わない。
「仕方ない、アレを使うか」
「あれ……とは?」
「V.A.L.V凝固神経毒だ。 付いてこい、今いる中でまともに戦えるとすれば俺とお前くらいだからな」
澁谷は言うと、施設の奥へと足を進める。 頑丈な扉をいくつもくぐり抜け、指紋、網膜、カードキーによる認証を終え、その扉は開かれていく。
「あれはまだ試験段階のはずでは……。 副作用も不明のはずです」
「そのために我々だろう? この施設から抜け出すなど、絶対に不可能だということを教えてやる」
そして、澁谷は一つの扉の前で立ち止まった。 ゆっくりと開かれるそこに保管されるのは、武器だ。
「……これは。 同調武器、ですか?」
「良く知っているな、高谷研修生。 そうだ、俺が秘密裏に作り上げたものだ」
同調武器と言われるそれは、研究の凍結が言い渡されたほどの危険な武器となっている。 感染者が持つV.A.L.Vを多量に含んだそれは、使用者の人間の体内へと繋がる武器だ。 そして、その人間にV.A.L.Vを流し込み、感染者として仕立て上げる危険な代物なのだ。
多くは拒否反応を起こし、死に至る。 適合したとしても、やがてV.A.L.Vは人間の細胞を死滅させるほどに暴走する。 今までに完全に適合した人間はおらず、その危険性から研究の凍結を言い渡されていた。
「そう不安そうな顔をするな、高谷研修生。 俺は凍結後も独自で開発を進めた。 その結果、抗体を作り出すことに成功したんだよ。 俺が作る武器の使用時間はおよそ30分、それまでに抗体を打ち込めば、武器と人体は剥離され、なんの問題もなく人間へと戻ることができる。 ゼロ番を確保するためだ、このままあいつが逃げ出せば多くの人間が死ぬ」
「……」
澁谷は高谷の性格を熟知していた。 長年、研究者として人間も感染者も見てきた彼にとって、高谷の純粋とも言える性格は手に取るように理解できていた。 人のために戦い、平和を夢見て戦い続ける。 それが高谷という人間であり、今のように言えば高谷の反応は、一つしかない。
「分かりました。 協力します」
「助かる。 が、あくまでも最終手段だ。 まずはV.A.L.V凝固神経毒を使うぞ」
澁谷は言うと、携帯でどこへと電話をかける。 それはものの数秒で繋がり、澁谷はすぐさま口を開いた。
「俺だ。 現時刻を持ち、V.A.L.V凝固神経毒の散布を許可する。 施設中くまなく散布しろ」
『はっ』
V.A.L.V凝固神経毒は、文字通り感染者の体内に存在するV.A.L.Vの動きを抑止する毒だ。 感染者が吸い込めば体内のV.A.L.Vの動きは酷く落ち込み、強力な感染者でない場合は立ち上がることすら困難になるものだ。 少なくとも、この毒を撒けばゼロ番の動きはかなり抑えることができるだろう。
シュっという音とともに、廊下の上部に設置されたスプリンクラーから毒が散布される。 施設内全ての部屋、及び廊下に設置されているそれは、おおよそ三分程度で全てに行き渡る構造だ。
「後はまともに動けなくなったゼロ番を捕らえるだけ……だ」
視界が、揺らいだ。 足に力が入らず、腕に力が入らない。 そのまま澁谷は、地面に倒れ込む。
「……澁谷所長?」
「なん、だ。 高谷、研修生。 これ、は」
「まさか……そんな。 澁谷所長、まさかあなたは感染者だったのですか……?」
そんなわけはない、そんなはずがない。 何かの間違いで、何かのミスとしか思えない。 自分が感染者? そんなことは、あってはならない。
そう思うも、感染者にのみに効くはずの神経毒は、今まさに自分へ作用していることは明白だった。