第二十九話
「……何を」
ロイスの言葉に、琴葉は返す。 しかしそれを無視し、ロイスは琴葉の後ろへ回り込み、肩に手を置いた。 琴葉はその場から動かず、倒れる獅子女を心配そうに見つめている。
「ですから取引ですよ、取引。 とても簡単なお話ですからご安心を」
ロイスの声が粘りつくように耳元で響いた。 その声色だけで、ロイスという男がどんな人物なのかを容易に想像させる。 獅子女に恨みを抱いており、ただ殺すだけでは絶対に満足しないであろうやり方を取っている。 今でも獅子女を痛めつけ、それに琴葉を混ぜようと企んでいるに違いない。
「人生では様々な選択というのが必要になってきます。 かく言う僕はその選択で困ったことは残念ながらありませんがね。 それでも獅子女さんですら、その選択を数多く選んできた一人なんですよ。 何を取り何を捨てるか、人生とはつまりそれの連続です」
「……何が言いたいの。 それであたしにおにーさんを撃てって、意味が分からない」
琴葉の声は震えている。 ロイスに感じる恐怖というのは、当然琴葉は持ち合わせていた。 いつ自分が死んでもおかしくはない状況であり、それでも琴葉はロイスに対する嫌悪感を隠すことはしなかった。
「ふむ、少々言葉が足りませんでしたかね? では言い方を変えましょうか、今ここで獅子女さんをあなたが殺せば、人質の二人とあなたを見逃しても良いと言っているんですよ」
「それって……ッ!」
獅子女を殺せば雀と我原、そして自分自身が助かる。 そういう意味だとはすぐに分かった。 だからこそ、その逆の意味にも琴葉はすぐさま気付いた。
獅子女を殺さなければ、全員が殺される。 自分も、我原も、雀も。 ロイスが提示したのは、琴葉は自らの手で獅子女を殺す引き換えに、命を助けるというものだった。 獅子女を殺せば三人が助けられる、しかし自分が何もしなければ全員が死ぬ。 そういう選択だ。
「四条琴葉さん、あなたの文字は極めて珍しく、利用価値の大変高いものです。 顔と名前さえ分かれば、世界のどこに居ようとその姿を視ることができる。 我々のような組織は当然として、他の組織や集団、対策部隊にも狙われることは必須でしょう。 そんなとき、あなたを守ってくれるものはなんですか?」
「あたしを……守るもの?」
「そうです。 あなたの身に危険が及ばないように守ってくれる……そうですね、四条琴葉さん風に言うのであれば、ヒーローでしょうか? そんなヒーローは、この男ですか? ただの、ふふ、落ちこぼれ程度に負ける男がヒーローと言えますか?」
ロイスは言いながら、獅子女の下まで歩いて行く。 そして、獅子女の右腕を踏み付けた。
「違うっ! あたしは自分で自分の身は守る、強くなって、おにーさんに迷惑かけないようにって!」
「予想以上につまらない回答、ありがとうございます。 では、僕が今からこのコインを投げますので、地面に落ちる前に拾ってください。 もちろん僕は妨害しますけどね。 失敗すれば、獅子女さんの右腕を折りましょうか。 迷惑をかけないと仰るのであれば、是非そうしてください」
ニッコリと笑い、ロイスは言った。 そして琴葉の返答を待つことなく、ロイスはコインを放る。
「ッ!!」
琴葉は足に力を込め、飛び出そうとした。 これ以上痛めつけられる獅子女を見ていることなどできるわけもなく、獅子女が戦えないのであれば自分が戦おうと、そう思った。
しかし、そのときだった。 獅子女は琴葉の方へと顔を向け、口元を動かした。
「……なんで」
琴葉はそれを見て、足を止める。 獅子女の言葉を受け、そうした。
動くなと、獅子女はそう言ったのだ。 だが、そうすることによる結果は獅子女も分かっていたはずだ。 琴葉はどうして獅子女がそんなことをするのか理解ができず、しかし獅子女に従う他なかった。
「おや……あれだけ言うのでてっきり動くのかと思いましたが、一歩も動かないとは。 我が身が可愛いというのは仕方のないことですね、四条琴葉さん」
コインはそのまま小気味良い音を立て、地面に衝突する。 数度跳ねたそれはやがて止まり、そのコインを拾ったロイスはやはり笑みを浮かべていた。
「そろそろ気付くべきです。 あなたは守られる立場でしかないと、ね!」
踏み付けた足に力を込める。 すると、鈍い音が倉庫内に響き渡った。 痛みから獅子女が声をあげるも、ロイスはそれを聞き楽しそうに笑うのみだ。 琴葉は痛々しい光景を前にしてはいたものの、目だけは逸らさなかった。
「そして今、あなたを守る人はこのザマ。 世間一般では守るべきものがある人の方が強いと言われますが、これを見た限りとてもそうとは言えませんよね。 今も仲間を助けるためにこんな傷を負って、果たしてその仲間にそんな価値があるのかどうか」
「あるよ」
ロイスの言葉に答えたのは、琴葉ではない。 獅子女が腕を抑え、立ち上がり、そう言ったのだ。
「……お前には一生分からないけどな。 あいつらは俺を信じて付いてきてくれた、雀なんて最初は俺を殺すことしか考えてなかったくらいだったけど、今では俺を信頼してくれている。 我原は表面上はキツイ奴だけど、組織のことを第一に考えてるような奴だ。 だから、俺にはあいつらを助ける理由がある」
獅子女の声色はなんら変わりなかった。 大怪我を負っているというのに、その声は掠れても震えてもいない。 一切ダメージがないのかと、ロイスは一瞬疑うも開かれていない左目と、だらりと下げられた右腕を見るにそういうことではないらしい。 では、何故獅子女は今も立ち自身と向かい合っているのか、何が獅子女をそこまで突き動かしているのか、当然の如く理解ができない現象だ。
「……信頼されているから助ける? 神人の家のボスがそこまで愚かな思考をしているとは思いませんでしたよ。 敵の手に落ちるということは無能だったということ、敵に殺されるのであればそれまでだったということ、そんな部下は僕にはいらない」
「だからお前は幹部止まりなんだよ、ロイス君。 まともに戦えば、お前じゃ俺の仲間の誰一人にも勝てやしない」
「どの口が……ッ!!」
ロイスは激昂し、獅子女の腹部を蹴り上げる。 無防備な状態でロイスの蹴りをまともに食らったものの、獅子女は倒れずロイスの顔を見た。
「誰が弱いと!? たった今僕に勝てない貴様が何を根拠にッ!! 僕が進む道は正しい、正確無比な道筋だッ! 今のこの状況がその証明だ!! 道なき道を進む貴様には到底分からない道筋だッ!!」
ロイスは言い、獅子女の顔を殴りつける。 一発、二発、三発、しかしそれでも獅子女は倒れず、後ろでそれを眺める琴葉は目を逸らさずにその光景を見ていた。 たったひと言、獅子女に動くなと言われた彼女はその命令を忠実に守っている。
……それが信頼というのであれば、これほど馬鹿な話はない。 ロイスは思い、獅子女を再度殴りつける。
「道なき道を進んでいるわけじゃねえよ」
「愚かだ。 自分の道筋すら分からないあなたでは、僕に勝てはしない」
「そこが分かってないんだよ、お前は。 俺が歩いた場所に道がないんじゃねぇ、俺が歩いた場所が道になるんだ」
そして、仲間を付き従える。 それが獅子女の考える、ボスとしての在り方だ。 自らが進み、自らが道標となるために、歩いた場所そのものを道とする。 自分という存在が居れば辿れるような道筋を作り上げる。 その道筋を信じ、後ろを歩いてくれる仲間のために獅子女は戦う。
「お前は結局、厳無が作った道を歩いているだけにすぎねぇ。 そして、後ろを歩く奴らの道標にもなれねぇ奴だ」
「僕が、頭領の後を追っているだけだと……? 違う、僕は僕だけの道を進んでいる、他の誰でもない僕だけの道を」
「そうか? ま、あのジジイだったらこんな回りくどいやり方はしないだろうけどな。 あのジジイはお前ほど弱くはねえし」
「……いい加減黙れ、獅子女結城。 これ以上、僕を怒らせるなよッ!!!!」
ロイスは言い、獅子女の腹部を強く蹴り上げる。 何度も何度も何度も蹴り上げ、獅子女は少量ではない血を吐き出した。 だが、獅子女はそれでも笑ってロイスの顔を見る。
「謝罪しろ、獅子女結城。 そうしなければ今すぐ殺します」
拳銃を取り出し、その銃口を獅子女へと向ける。 撃鉄を起こし、引き金を引けば弾丸はすぐにでも射出される状態だ。
「可哀想なヤツ」
「それはあなたの方ですよ、獅子女さん」
倉庫内に発砲音が鳴り響く。 ロイスの手から放たれた弾丸は、獅子女の額に突き刺さった。 その瞬間――――――――獅子女結城は、死んだ。