第十話
「律儀なもんだな、待っててくれるなんて。 俺の身元も対策部隊には割れてないようだし、気遣ってくれてんのか?」
「……同じこと。 我々も貴様も人目に触れるというのは困るだろう。 それに貴様の情報を奴らに流したとして、どのみち貴様の文字によって意味はない」
それから場所を移した獅子女の前に、先ほどのガスマスクの男は姿を見せた。 身長は二メートルほどもあり、筋骨隆々な体をしている。 危険な男だということは、獅子女はともかく琴葉の目から見て明らかであった。
「獅子女結城、人間に紛れる感染者。 話は聞いていたが、まだ子供だったとはな」
掠れた声で男は言う。 低く、重みのある声だ。
「そう言うお前のことは知らないな。 俺って有名人なわけ? そっちで」
「口は達者か。 俺はグレイ、文字は語るほどのものではない。 貴様の文字は生殺与奪、強力であるが故に油断は生じる、覚悟しろ」
「精々頑張れよグレイ君、俺を楽しませてみろ。 一応言っておくけどさ、俺がその気になればお前は数秒で殺せる、そうしないのは俺のポリシーみたいなものなんだよ」
そのまま獅子女は続ける。
「俺の前に立つ奴には理解らせるってな。 だから精々俺を楽しませてみろよ」
獅子女は笑う。 相変わらずポケットには手を入れたままで、たった今から殺し合いを行うような態度ではなかった。 琴葉は獅子女の後ろに隠れており、獅子女の背中をしっかりと掴んでいる。
「では、遠慮なしで行くぞ……!」
グレイは足に力を込める。 それだけの動作でグレイの左足を中心に地が陥没する。 それとほぼ同時、獅子女と琴葉には衝撃が体を突き抜けるかのような威圧感が飛ばされた。
「お、おにーさん? あの人めちゃ怒ってるよ?」
「んな心配そうな顔すんなよ」
獅子女は一瞬、琴葉に視線を向けた。 そしてそれを見たグレイは地を蹴り飛ばす。 一瞬の隙、それが致命的になるのだと教えるために。 戦闘の最中の余所見など、愚かにもほどがある。 刹那刹那の出来事が生死を分けるということは、戦いに身を置く者としては当然知っていることだ。
「……成る程、そういう殺しか」
「俺に一瞬でも勝てるなんて思わないことだ、身の程を知れよ」
グレイの体は目の前にあった。 琴葉からすれば、数メートルも離れた大男の体が一瞬にして目の前へと現れたようにも見え、思わず腰が抜けそうになる。 恐ろしい、恐怖という感情が心を埋め尽くしそうになるものの、獅子女の背中にしがみつくことでどうにかそれを凌いでいた。
そんなグレイの拳は、獅子女の右手に抑えられている。 音もなく、衝撃もなく、薄っすらと笑う獅子女の手の平によって綺麗に止められた。
「気を付けろよ、俺に攻撃をするってことは仕返しを受けるってことだ」
言葉と同時、獅子女はグレイの顔に向け、先ほど受けた衝撃を生かす。 不可視の攻撃、そして回避不能の攻撃――――――――のはずだった。
「……へぇ、お前結構面白いな」
「単純なものほど読みやすいことはない。 覚えておけ」
グレイは、獅子女の攻撃がまるで見えていたかのように、その衝撃を避けたのだ。
そう、これもまた獅子女の生殺与奪、その弱点だ。 生かすこと自体は楽に行えるが、その生かす場所は獅子女の指定にしか従わない。 よって、そこが予め分かっていれば回避することも不可能ではない。 もっとも、並大抵の反射神経では不可能な芸当ではある。
だが、それは弱点ではあるものの欠点ではない。 獅子女の殺しで、十二分にも補えるほどの弱点だ。
「でどうするよ? 俺はいくらでも付き合っても良いけど、ここでずっと睨み合いでもするか? 俺が飽きればお前を殺すし、その内どっかから斬られるかもしれないぞ」
「柴崎雀のことか。 案ずるな、奴には奴の敵がいる、それだけだ」
「そいつは随分不幸だな、笑えて来ちゃうくらいには」
「問題ない」
獅子女はそれを聞き、思考をした。 グレイという人物の言葉から察するに、雀と我原が共に行動しているというのは予測済みだろう。 そして、それと当たったとしても「問題ない」と言い切った。 つまりは勝算があるというわけだ。
「奴らにはロイスさんが直々にだ。 いくら柴崎雀、我原鞍馬と言えど対処はできまい」
「随分と思い切ったな、そりゃまた。 ロイスが速攻で動く、しかも俺以外に当ててくるとは予想外だよ、一本取られたって言っときゃ良いか?」
「いいや、貴様はここで俺と睨み合いをしていれば良い」
先ほど獅子女に言われた言葉をそっくり返す。 それを聞き、獅子女は笑う。 ハッキリと、笑った。
「良いね、面白い。 だけどそれは断る」
左足を上げ、獅子女がしたことはその足を地面へ叩きつけるということだ。 獅子女の身体能力も並大抵のものではない、地面は崩れ、大小のコンクリート片が獅子女の前へと浮き上がる。 その一つに獅子女は触れた。
「……ぬッ!!」
それはまるで弾丸のように射出される。 獅子女がしたことは単純で、まず殺したのは獅子女が踏み付けた地面の強度。 そしてそれにより、あまりにも容易く地面は割れ、コンクリートの欠片は宙へと浮き、更にそれらにかかる重力を殺した。 獅子女はそれに触れ、強度と重力を生かす。 結果、獅子女の身体能力と合わさったそれは弾丸の如く射出されたのだ。 だが、グレイの反応も生半可なものではない。 左手を前に出し、コンクリート片の道を遮る。
「それは失敗だぜ、グレイ君。 俺の前で防御ってのは、あまりにも愚かだ」
グレイの左手が消し飛んだ。 コンクリート片が触れた瞬間のことであり、グレイは瞬時に獅子女によって衝撃が生かされたということを悟る。 だが、そう思考したときには既に遅い。 左手を消し飛ばしたコンクリート片は、そのままグレイの腹部を貫いた。
「……ぐ、あ」
圧倒的、そう表すのがもっとも正しい。 獅子女の文字の規格外っぷりは異常であり、それが一体どれほどのものかというものは、獅子女ですら理解が及ばない部分すらあるのだ。 一体どこまで殺し、どこまで生かすのか、少なくとも獅子女が知る範囲では、人間が作る如何なる兵器でも自身の体を傷つけることはできない、ということまでしか知らないのだ。
可能性があるとすれば、獅子女の文字自体を無効にする文字だ。 それがあれば分からなくなるとしか思っておらず、そんな文字が果たして存在するのかすらも分からない。
「琴葉、行くぞ」
「え、どこに……?」
「雀と我原のとこだ。 ロイスが来るとしても俺のところだと思ってたからな、少し好ましくない」
「ピンチってことだね。 ちょっと待って、すぐに場所を見つけるから」
このような場合、琴葉の文字は限りなく正しい情報を限りなく短い時間で提供することが可能だ。 琴葉に心がある限り、心象風景は色褪せず、正確無比な景色を琴葉に見せる。
「……いた! ええっと、えっと、広場……? まだ敵は居ないかも……って、え? え!?」
「どうした?」
「大変だよおにーさん! 雀さんと我原さん戦ってる!!」
「……敵は居ないんじゃなかったのか?」
「じゃなくて! 二人が戦ってるの! 雀さんと我原さんが戦ってるの!!」
琴葉は目を見開き、必死に訴える。 それを聞いた獅子女は数秒思考した後、落ち着かせるように琴葉へと再度尋ねた。
「視える建物とか、なんか目印は?」
「でかい建物……アンテナ塔。 アンテナ塔が、二つ」
「アンテナ塔……充分だ。 多分東側の地区だな」
獅子女たちが居るのは北地区。 そこから東地区となれば、あまり遠い場所でもない。 今現在、まだロイスと鉢合っていないのであれば、尚更だ。 琴葉の視た景色からおおよその場所の特定をし、獅子女は行くべき方向へと体を向ける。
「背中に乗れ、琴葉。 走るぞ」
そのとき、獅子女が振り向いたのは必然であった。 一度琴葉の顔を見て、心配そうな顔付きと声色をしている琴葉を安心させようと、冗談の一つでも言おうとしてのことであった。 これまでのことがなければそれは獅子女が絶対にしないことだ。 琴葉の性格、琴葉の行動、そして琴葉の想いのいずれかが欠けていれば、きっと獅子女は振り向くことはなかっただろう。
「――――――――琴葉伏せろッ!!」
「へ?」
だからこそ、それを言うことができた。 だからこそ、瞬時に判断し間に入ることができた。
「良い反応だな、獅子女結城」
「そりゃどうも」
倒したはずの男、殺したはずの男、グレイは変わらずそこへ立っている。 反応が少しでも遅れていたら琴葉が攻撃を食らっていた、そして身を守る手段を持ち合わせていない琴葉にとっては、致命的な一撃であった。 振り下ろされた拳を抑えた獅子女はそう感じる。 殺した衝撃の大きさは、最初の一撃よりも数段上だ。
「貴様の文字の弱点だ。 自動防御、身に降りかかる攻撃を殺すというのは確かに厄介ではあるが、自ら殺すものを選ぶ場合、その現象が分からなければ殺すことはできない」
「ロイスの奴が言ってたのか? 他人の文字を調べるなんて、あいつも随分暇人だな」
獅子女は笑って言う。 その表情は、どこか楽し気だった。 しかしそれを見た琴葉は思う。 人一倍、人の心に敏感な彼女でなければ気付くことはできなかった。
獅子女が、怒っているということに。
「ただまぁ、これは俺とお前の戦いだったはずだよな。 琴葉は関係ねぇ、俺とお前の争いだ。 なのにお前は琴葉を狙った、こいつを殺そうとした。 それがお前らの言う清算だっていうなら……俺にも俺の清算ってのがある」
雰囲気がガラリと変わる。 グレイはそんな獅子女に気圧され、一歩だけ後ずさった。 本能として危機を感じた。
「大体の予想は付く。 正確に言えばお前は死んでなかった、死の淵には居ただろうけどな。 だからこそ今立っている、さっきよりも力を増して」
獅子女は続ける。 言葉を遮るものはなにもない。
「――――――――起死回生。 それがお前の文字だろ」
「ッ!」
グレイは見破られたことにより、明らかに動揺を示した。 獅子女結城、生殺与奪という文字を扱う男の前で、自らの文字が露見するというのは危険極まりないとしか言えない。 感染者の最大の強み、強力な文字を殺され強みがなくなるというのは、死と同義とも言えよう。
「安心しろよ、お前の文字は殺さねぇ。 精々耐えてみろよ、耐えられるものなら」
「……ナメたことッ! お?」
次の瞬間、獅子女はグレイの顔を鷲掴みにしていた。 異常な速度、起死回生という文字によって、身体能力が大幅に上昇しているグレイより遥かに早く、そして遥かに強靭。 先ほどまでの何合かの打ち合い、獅子女結城は本気ではなかったのだ。
「これぶっ潰されても生きてるならさ、見てみたいから見せてくれよ。 ああでも瀕死じゃないと使えないんだっけか? どーでも良いけど」
獅子女はグレイの耳元で囁くように言う。 男にしては高めの声、脳内に響くような声色は、言いようのない恐怖をグレイに与えた。 そして、自分が何をされるのかも理解した。
「やめッ――――――――」
鈍い音、軽い音、そして湿った音が響き渡る。 獅子女の左手は赤く染まり、その頬には血液がいくらか飛び散った。 巨体とも言えるグレイの体は、崩れ落ちた。
「ひっ!」
それを見た琴葉は悲鳴を上げ、顔を覆う。 そんな琴葉の声を聞き、獅子女は思い出したかのように振り向いた。
「……これが俺たちだよ。 人間を殺し、同じ感染者だったとしても立ちはだかるなら殺す。 俺だけじゃない、神人の家全員がそうだ」
琴葉は優しい、そして単純で純粋だ。 獅子女という人物の言ってしまえば良い面というものしか見ておらず、その深い部分までは見ていなかった。 自身を助け、或いはヒーローのようにも思い、英雄視をしていた面もあった。 だからこそ、獅子女はこれで琴葉は自分から離れていくだろうと、心のどこかで感じていた。 そして、それが琴葉にとっても良いことだとさえ思っていた。
しかし、獅子女はもっとも根本的なことを忘れている。 四条琴葉がどういう人物で、どういう性格をしているかということを。
「……おい?」
琴葉は、獅子女へ近づくとその体を抱き締める。 震えていたし、弱い力だった。 だが、どうしてか振り解けるとは思えなかった。
「あたしはおにーさんの傍にいる、絶対、何があっても!」
「もっと酷い物を見るかも知れないぞ」
「……それでもだよ。 あたしはそう決めたから、まずはそれから守るんだ。 おにーさんを一人にしないって、決めたもん」
「何言ってるのか分からないけど……それなら好きにすれば良い。 っと」
「ひゃ! な、なに!? セクハラ!?」
小さな琴葉の体は、獅子女が片手で抱き上げられるほどだ。 獅子女はそうして琴葉を抱え、携帯を操作する。 それをしながら、琴葉の言葉に返事をした。
「セクハラする場所ないだろ、お前」
「その発言がセクハラだー!!」
「騒ぐのは良いけどしっかり掴まっとけよ、落ちても回収してる時間はない」
言う獅子女が持つ携帯、そこに表示されているのはエラーの文字。 柴崎雀、我原鞍馬、その両名との連絡が完全に取れなくなった。 エラーの表示が意味するのは、携帯の電源が切れているということ。 それも二人同時となれば……良い予感は、しない。