第一話
「んっふふー」
「……なんか変な物でも食ったか? お前」
獅子女の自宅は郊外に位置するアパートだ。 三階建ての小さなアパートで、その三階の隅にあるのが獅子女の部屋である。 部屋の中には必要最低限の物しかなく、特に面白味はないと獅子女ですら思うこの部屋にやって来た琴葉は、どうしてか先ほどから笑顔で鼻歌を歌っていた。 他でもないチェイスギャングとの一件は、少々緊張感を与えているとも思った獅子女であったが……琴葉からそんな様子は感じ取れない。
「だっておにーさんのお部屋だよ! 興味ないわけないじゃん。 おねーちゃんはよく遊びに来るの?」
「四条か。 いや、あいつは俺の家知らないよ。 てか俺もあいつの家は知らないしな。 遊ぶことは何回かあったけど、基本的にいつも学校帰りだし」
「ほんとに!? じゃああたしが一番乗りってこと!? だよね!」
「よく分からないけど……俺の知り合いで俺の部屋に上がったのがって意味なら、そうだな。 お前が最初か」
「いぇい! 琴葉ちゃん一番乗り!」
琴葉は言うと、その場で寝転がる。 置かれていたコタツに吸い込まれるように入っていき、やがてコタツから頭だけが出ている形となった。 頬は緩み、これでもかというほど幸せそうな顔になっている。 猫のような奴だと思いつつ、獅子女はそんな光景を眺めていた。
「それにしてもコタツは良いよねぇ……日本のあるべき文化、文化祭だね」
「文化祭なのか……?」
どう考えても言葉の意味が分からず、獅子女は言う。 が、当然その言葉を発した琴葉も意味が分かっているわけがなかった。 よって、獅子女の疑問に琴葉が答えることはない。
「冬はコタツ……で、ミカン! おにーさん、ミカンとかある?」
「ない。 確か銀杏ならこの前雀に貰ったからあるはずだけど、銀杏で良いか、似たようなもんだろ」
「銀杏とミカンって最早似ても似つかないよ!?」
勢い良く体を起こした琴葉が見た光景は、銀杏を持ち今まさに持ってこようとしている獅子女の姿であった。 銀杏自体嫌いではないものの、口が既にミカンとなっている今、少々辛い間食となってしまう。
「……まどうせ暇だし良いか。 結果が分かるまではアオに任せっぱなしになるしな」
獅子女は言うと、銀杏を仕舞い、壁に掛けてあるコートを手に取った。 本来であれば獅子女はここまで面倒を見ることはない。 だが、琴葉という少女は不思議なもので、同時に生き地獄を見てきた彼女の力に多少なりともなれれば、という想いがあった。 獅子女は決してそれを指摘されても肯定はしない。 しかし本来の彼は一度すると決めたことは必ず通すタイプであり、それは琴葉の面倒を見るという面でも例外ではなかった。
「おにーさん、どしたの?」
「スーパーでも行こうかと思って。 どうせ冷蔵庫になんもないしな」
「……」
言われた琴葉はコタツからのそのそと這い出ると、部屋の傍らに置いてあった冷蔵庫を開ける。 獅子女の言葉通り、そこに入っているものは何一つとしてない。 飲み物ですら入っていなかった。 せめて何かしらの容器くらい入っていてもおかしくはない大きさの冷蔵庫であったが、ゴミひとつ入っていなかった。 それどころか本当に使っているのかと思わせるほどに汚れすら見つからない。
「おにーさん、よく生活できてるよね」
「お前に言われたくないんだけど。 食パン女」
「……待って、ちょっと待って今のひどくない!? あたしだって好きで食パン食べてたんじゃないもん! べーっだ!」
振り返り、琴葉は勢い良く獅子女へ詰め寄るとそう言い、舌を出して精一杯の嫌悪感を露わにする。 それを見た獅子女は「やっぱ姉妹だな」との感想を抱いたが、口にすることはなかった。 もっとも、妹の方が姉よりも余程落ち着きはなく、明るい性格をしているようだが。 冗談を言ったときの反応は似ていると感じた。
「んでどうすんの? 俺は行ってくるけど、もし襲われても大丈夫だと思うし」
「それおにーさんがでしょ! あたし絶対大丈夫じゃないしっ!」
ガミガミと怒りつつも、琴葉は慌てて上着を着込む。 雀が用意したダッフルコート、そして耳あてを付けると、すぐさま靴を履き始めた。
「ちゃんと守ってね、おにーさんっ」
不敵とも言える笑みを浮かべながら言う琴葉に、ため息を吐き、同じく靴を履き始める獅子女であった。
「へぇえええ、おにーさんの文字って凄い便利なんだね」
「まぁな、だから人間として暮らしも出来ているわけだよ」
近所にあるスーパーへと向かう道中、既に辺りは暗くなり始めてる中、二人は並んで話をしていた。 というのも、琴葉が興味本位で聞いた獅子女の持つ文字についてだ。
元々は琴葉が感じた「どうして自分は普通に外を歩けるんだろう」という疑問で、その疑問を晴らしたのが獅子女の文字だ。 かつて雀に尋ねたときは「獅子女に聞け」とのことを言われており、今日はタイミングも丁度良かったこともあり、尋ねた具合だ。
琴葉がそう疑問を抱くのも無理はない。 顔が知られており、名前すら割れている琴葉は本来であればすぐさま捕まっていてもおかしくはない。 だが、そこで獅子女は四条琴葉が四条琴葉であるという概念を殺した。 琴葉を知っている者だとしても、それだけで見つけることは難しいだろう。 とは言っても常に殺し続けるというのは獅子女にとっても少々の負担であり、こうして外出をするときくらいのものである。
「でも、それならチェイスギャングの人たちから逃げるのに使うっていうのは駄目なのかな?」
「馬鹿言うなよ、逃げる必要がどこにある」
笑って言う獅子女のことを見て、そう言うと思った琴葉である。 少しずつではあるが、獅子女のことが分かり始めてきていた。 そしてその度、思うことがある。
「……あたし、いつかおにーさんにも恩返ししないと。 こうやってさ、また外を歩けるなんて思ってもいなかったから」
「別に良いよそんなのは。 子供は上から溢れてくる物をただただ貰ってりゃ良いんだよ」
獅子女がそう言うと、琴葉は獅子女の前へと回り込み、仁王立ちの格好で行く手を塞いだ。 そして、言い放つ。
「おにーさん、結構前からずーーーーっと言おうと思ってたんだけどさ、あたしのこと子供扱いしすぎっ! あたしとお兄さんって一歳しか変わらないじゃん! なのに子供子供子供って、琴葉ちゃん怒るよ!?」
「は? いや、え? 待て、お前今何歳なの?」
獅子女は聞き間違いかと思い、口に手を当て琴葉へと尋ね返した。 何やら今、琴葉が放った言葉の所為で混乱している。
「十五だよ、十五! お姉ちゃんと年子だし、一歳違いだよ。 ってことは、おにーさんとも一歳しか変わらないってことでしょ? おにーさん十六歳って聞いてるし、あたしが十五歳ってことは一個しか変わらないじゃん!」
「……小学生かと思ってた」
「なんでさーーーー!! 怒ったよ、もう琴葉ちゃん怒ったよ! 確かに背は小さいけど、十五歳の琴葉ちゃん怒ったよ!!」
琴葉は怒りつつ背中を向けるも、チラチラと獅子女の顔を見ている。 その仕草を見て察した獅子女はすぐさま「悪い悪い」と、口にした。 琴葉はそれでも怒りを治めることはなかった。 少なくとも、外見上では。
「まったく失礼だよ、でもでもやっぱりあたしって子供っぽいのかなぁ……雀さんにも「妹みたい」って言われたし」
「雀から見ればそうだろ、そりゃ」
「でも、おにーさんは雀さんに慕われてるじゃん? 一体何の違いがあるんだろう?」
「とりあえずあれだろ、お前はもうちょっと落ち着いた方が良い。 常に走り回ってると馬鹿だと思われるぞ」
「あたしってそんななの!? うう、ちょっとショックかも……」
「一々俺の言うこと真に受けてるなよ。 冗談だよ、冗談」
「ほんと? 良かったぁ……」
てっきり獅子女はこのとき、また怒るのだと思ったのだが、意外なことに琴葉が見せたのは安心しきった笑顔であった。 その理由が分からず、尋ねてみようとしたところで鼻先に冷たい感触が当たった。 雨だろうか、そう思い、獅子女は空を見上げる。
雨ではなかった。 そして、冷え込みは更に増していた。 今冬二度目の雪、獅子女はそれを眺めながら「珍しいこともあるもんだ」との感想を受ける。 例年よりも寒い、特にこの関東地区では異常気象だとも聞いていたが、こうも雪が降るというのはかなり珍しいことである。 白い粒は、いつの間にか真っ暗となった闇夜を舞うように降り立ってきていた。 勢いは増しており、数時間で積もりそうなほどは降っている。 確か雪は数日前にも降っており、短い期間での雪に少し妙な感じも同時に受けたが、琴葉の放った言葉によってどこかへ行った。
「思い、出した」
「ん?」
それは、遠い昔のこと。 琴葉がまだ、人間だったときのこと。 そして、今は夢見る家族で暮らしていたときのことだ。
「お姉ちゃん、言ってた。 雪が降る日は、良いことがあるって。 理由を聞いたら、なんとなくって、笑ってた」
「そうか」
今はまだ、会うことは叶わない。 果たしてそれが叶うことなのかどうかも、誰にも分かることではない。 ただ、琴葉はその日舞い落ちる雪を見つめ、空を眺め、昔のことを一つ思い出したのだ。 それはもう、忘れることのない記憶だ。
「また、会いたいな。 お姉ちゃんたちと、お母さんと、お父さんと……会いたいな。 最近ね、沢山思い出すの。 みんなで暮らしてたときのこと」
「……そうだな」
琴葉の瞳からは涙が零れ落ち、薄く覆われ始めている地面へ模様を付けた。 それに対し、獅子女はただ横に立ち、琴葉の言葉を肯定していた。
「おにーさん、あたし……また普通に暮らしたい。 学校に行って、友達と遊んで、それから……ッ」
「あんま口にするなよ、辛くなるだけだ。 けど、俺はただ人間を殺したいだけの感染者だよ。 お前の願いを叶えられるかは分からない」
「へへ、だよね。 知ってる、だいじょぶだよ。 ぜんぜん平気だし」
「ただ」
それは、決してその場凌ぎの言葉ではない。 獅子女結城という男は、果たせないことは決して口にはしない男だ。 つまり、今から獅子女が口にすることは、獅子女が確実にどうにかしようと思ったことでしか、ない。
「それが終わったあと、俺と琴葉がもしもまだ生きていたらどうにかしてやる。 だから生きろよ、琴葉。 お前が居た場所は地獄だったかもしれないけど、この世界も中々に地獄だからな」
そう、感染者たちに平和や平凡という言葉はない。 多くの感染者は捕らわれ、殺される。 そしてそれを逃れた感染者は街の闇に染まり捕食者になるか食われるか。 神人の家のように国に牙を向けるか、チェイスギャングのように安定を求め人道から外れたことをするか、だ。
感染者は多かれ少なかれ、地獄を見続けている。 そこから這い上がるという行為がどれほど難しいか、分からない琴葉ではなかった。
「うん、あたし、生きる。 まだ全然遊び足りないし、外のことも全然知らないし。 美味しい物ももっと食べたいし、あとお嫁にも行きたいし! あ、おにーさんどう? あたし」
冗談混じりで琴葉は言う。 それに対し、特にリアクションを見せずに返すのが獅子女だ。
「俺にそういうの求めんな、興味ねえよ。 全部終わったら考えとく」
「全部終わってやっと考えるって、おにーさんアレだよ、守備が堅いってレベルじゃないよ。 アオさんが言ってたこと、本当だったんだ……」
「……あいつなんて言ってた?」
「獅子女さんは多分、女に興味がなく男に興味があるタイプっす。 って言ってたよ」
「あのヤロウ、ぶっ殺す」
その後、アオの下へと行こうとする獅子女を必死に止める琴葉であった。 そんなことを雪降る中でする二人は、当人たちがどうあれ人間のようであり、そして普通の少年と少女であった。
だが、二人はどこまでいっても人外でしかない。 人間の姿形をした獰猛な生き物であり、彼らの平和という言葉は中々訪れることはない。 感染者にとっての日常など、枯れ落ちる葉のように脆く儚いものなのだ。
「こんばんは、今日は冷えますね」
「……誰かと思えばお前か、ロイス」
二人に声を掛けたのは、男だった。 振り返った獅子女はその男の顔を認識し、琴葉を自身の背中に隠れるように動く。
「どうやら僕とあなたには何かしらの縁があるようですね。 獅子女結城さん、こんばんは」
その男は、まるで聖人君子のように笑うとそう告げるのだった。