第二十二話
これからのこと。 これからどうするべきで、何がしたいのか。 そして、あたしという人物は何のために生きるのか。 雀さんやアオさん、そしておにーさん。 あたしを助けてくれた、命の恩人たち。 きっと、ただ単純に「ありがとう」では済まないことが沢山そこには詰まっている。 今はまだ無理かもしれないけど、いつかは必ず返さないといけない恩だ。 おにーさんは「頼まれただけ」と言うだろうけど、あたしにとっては理由なんてものはどうでも良い、助けてくれたという結果が大事なのだ。
施設で過ごした時間は、あたしの中では永遠とも思えるほどに長く続いていた。 毎日の食パン一切れと水一杯が、一日の中での楽しみであった。
最初の一年目、あたしは泣き、喚き、助けを求めた。 届かぬ声を狭い部屋の中で叫び続けた。 喉は痛み、目は痛み、声が掠れ体は酷く疲労した。 そこで待っていたのは、躾けという名の殴打だった。 血が少し流れ、体中は痛み、あたしは怖くて静かになった。 犬のようだと思ったのを今でも覚えている。
あたしの文字は『心象風景』というもので、人の顔と名前が分かれば、その人の今を視ることができる。 生きている人であれば、その人が今居る場所の光景を第三者視点で視ることが可能なのだ。 死んでいる人であれば、視えるのはただの闇、真っ暗闇で、少し悲しい気持ちになる。 あたしに拒否権はなく、毎日毎日数多くの感染者たちの居場所を知らせてきた。
以前、あたしの文字を研究している人というのが、教えてくれた。 あたしの文字は心と強く結びついていて、そのため殺して武器に転用することはできない、と。 だからお前はここで生かしたまま仕事をしてもらう、ちゃんと素直に従えばいつかは家族と会わせてやると。
……今思えば、詭弁だったのだと思う。 あたしはそれを信じて、ずっと仕事を従順にこなしていたけど、それはあたしに希望を持たせるための嘘だったのだ。 心と強く結びついている文字、それは心が壊れてしまえば文字もまた壊れるということ。 あたしから見ても便利な力は、あの人たちから見たら絶対に扱いたい力だったのだろう。 人探しの感染者と呼ばれ、あたしの文字の所為で何人の感染者が捕らえられたかは定かではない。 その後どうなったか、それは再び視れば分かることだったけど、一度も同じ人を視たことはない。 単純に怖かった、暗闇が視えてしまったらどうしようと思い、怖かった。 責任感もなく、ただただ闇を覗くのが怖かったのだ。
あたしは人を視ることができる。 人の生きる今を視て、その人の心を感じることができる。 心の象を風景とする、あたしだけの文字だ。 研究員が毎日見せてくるのは全く見ず知らずの人たちで、男であるときも女であるときも、時には子供のときもあった。 そして名前が知らされて、あたしは心象風景でその場所を視る。 同時に感じるのは、その人の心。 半分ほどは冷たくて、残された半分は恐怖や優越感、後悔というものが多かった。 負の感情、それが大半で、きっと感染者になってしまった人たちが最初に感じるのはそれだったんだ。
そんな毎日の中、年月は過ぎ去っていく。 殴られる回数は減って、あたしは段々と前向きに考えるようにした。 おかしくなってしまいそうで、そう考えるしかなかった。 そしてそれが一番良い方法に気付かせてくれた。
あたしの家族。 二人の姉と、父親と母親。 大きい方の姉はあたしが捕まる前に家を出ていっていて、あたしの面倒をいつも見てくれたのが四条香織という歳が近い方の姉だった。 だからあたしは、その姉の姿を心象風景で眺めていた。 伝わってくる感情は、暖かかった。 そして今も幸せに暮らせていると知れて、嬉しかった。 でもそのとき、不思議と涙はボロボロと溢れてきて、あたしは蹲って泣いていた。
泣き虫だと、姉にはよくからかわれていた。 それでもあたしが泣いていたとき、姉は決まってあたしの頭を撫でてくれた。 あたしと姉の距離はもう、お互いが見えないほどに離れてしまっていたけれど、姉の暖かさはいつも隣にあった気がする。
そしてもう一つ。 あたしには気になる人が居た。 姉を視ると、いつもではないが良く一緒に映る人が居た。 男の人で、笑っているときもあれば怒ったような顔をしているときもあり、どこか淋しげな顔をすることもある不思議な人。 けれど、その喜怒哀楽は、何故か張り付けたもののように違和感に満ちていた。 これでもあたしはこの文字を持っているから、この歳にしてはかなり多くの人を視てきたと思う。 周りに映った人、その本人、今まで見てきた全ての人と見比べても、その獅子女という男の人はどれにも該当しなかった。 独特の雰囲気があり、近寄りがたい印象があるものの……何故か、あたしは会いたいと思っていた。
数年の時は流れる。 あたしはなんという奇跡か、その獅子女という人……おにーさんに、助けてもらった。 車から脱出するときにあたしを抱え、颯爽と逃げる姿は目に焼き付いている。 そして、間近でおにーさんを見たあたしはずっと抱いてきた疑問が氷解していったのを感じた。
おにーさんは、孤独なんだ。 理由も分からない、どうしてなんて聞いても、おにーさんから満足の行く答えはきっと返ってこない。 だって、おにーさんは自分自身でも、その孤独感には気付いていないのだから、当たり前だ。
そんなおにーさんにも、仲間が居た。 雀さん、アオさん、もう一人、あたしを助けるのを手伝ってくれたという桐生院さんや、雀さんが嫌いだと言っていた我原さん。 他にも沢山の人が居るらしく、アオさん曰く「まともな人なんていねーっすけど」とのことだった。 でも、雀さんとアオさん、おにーさんを見たあたしからすれば、あたしが思う嫌な人なんて、誰もいない。
……益村はあたしを自分本位で自己中、矮小な化け物だと称した。 全くその通りだと思うし、それがあたしなんだと思う。 昔から姉に甘え、捕まったあとも自分に甘え、助かったら助かったでおにーさん、雀さん、アオさんに甘えている。 そんな自分は矮小なのだろうと、思ってしまう。
「琴葉さん、メニューですよ」
雀さんは言うと、笑顔であたしにレストランのメニューを手渡した。 その言葉に、昨日と同じ「お好きなものをどうぞ」という言葉を付け加えて。
これから先、あたしが生きる道は自分で決めなければいけない。 雀さんとアオさんはあたしが来ても構わないと言ってくれている。 なら、あたしはそこへ甘えるのか。 それとも……。
ふと、言葉を思い出した。 あまりにも多くの出来事があり、思い出すことさえできなかった言葉を思い出した。 おにーさんが、あたしに向けて言ってくれた言葉。
『人によってだろ。 なんか夢はあるのか? 琴葉』
おにーさんは、あたしにそう尋ねてきたんだ。 だからあたしは真っ先に思った、一番成し遂げたいことを口にした。 家族と一緒に暮らしたいという、途方もない夢を。 そうしたら、おにーさんは言ったんだ。
『だったら、それが叶うまで下を見てる暇なんてねーよ。 ただでさえ今の世界じゃ生きづらい俺たちだ。 一瞬でも立ち止まればすぐに飲み込まれて埋もれるぞ。 考えるより先に動け、それが正しかったか間違ってたかなんて後から考えりゃ良い。 最後に夢を叶えて笑ってれば、今までの全てが正しかったってことだ、琴葉』
そう、言ったんだ。 下を見ている暇なんてないと、立ち止まれば飲み込まれ、埋もれると。 最後に夢を叶えれば、今までの全ては正しいと。
その意味が、分かった。 あたしはただでさえ数年間という間、同じ時間で立ち止まってきた。 だからこそ今も迷っている時間なんてあるわけがない、そんなのあってはいけないのだ。 あたしは前へ進み続けなければならない、夢を叶えるため、後ろを振り向くことも踏みとどまることも迷うこともしている時間なんてものは、ない。
甘えだろうと、我侭だろうと、矮小だろうと、あたしはそれを受け入れてやる。 あたしは琴葉、今はただ、その名前だけがあればそれで良い。 好きなだけ非難すればいい、好きなだけ指をさせばいい、それでも最後にあたしは笑ってやる、絶対、絶っっっ対に笑ってやる!!
「雀さん、アオさん」
未だにあたしを見ていた雀さん、そして窓の外を眺めるアオさんに声をかけた。
「あたし、考えたんです。 これからのこと」
「……はい」
アオさんは無反応で、雀さんの声色は少し沈んでいた。 だが、気にせずにあたしは言う。 立ち止まらずに、言葉を放つ。
「あたしは絶対叶えたい夢がある。 だから、そのためなら甘えもするし我侭も言うし、愚かなことだってするかもしれない。 それでも良ければ、あたしを仲間にしてください」
ようやく口にしたその言葉は、一度口にすれば不思議に思うほど、すんなりと口から出てきていた。
「おっと……これは予想外。 なんか面白くなりそうっすね、雀さん」
「その前に。 琴葉さん、メニューを選んでください」
口を開いたアオさんを制止し、雀さんは言う。 あたしはその言葉を受け、メニューに目を落とした。 たくさんのものが並んでいて、たくさんの名前があった。 あたしは迷わず、ハンバーグを指差して伝えた。 それを聞いた雀さんは、笑うのだった。




