第二十六話
「なにあの化物は……ッ! はぁ……はぁ……!」
「あたし、一回だけ見たことある……お兄さんじゃないと」
獅子女でなければ対処できない。 それほどまでに暴力的な力だ。 特異な能力でも厄介な文字でもない、あのV.A.L.Vの怪物が持っているのは全てを捻じ伏せる力だ。 驚異的とも言える力で押し潰し、破壊し、そして喰らう。 人間、そして感染者両方の敵とも言える捕食者……人類の天敵、とでも表現するのが正しいか。
単純に戦えば雀や我原でもどうなるか分からない。 しかし、獅子女であればその文字によって何もかもを殺して勝つことができるのではと琴葉は思う。 だがそれでも可能性だ、獅子女の力を十全に把握しているわけでもなければ、今自分たちのことを追ってきている怪物のことも理解しているとは言えない。 獅子女も尋ねれば「戦ってみないと分からない」という返事が返ってくるに違いない。
完全なる規格外。 それが最も相応しい言葉になる。
「……楠木さん」
目の前で、助けを求めた楠木相手に何もすることができなかった。 その結果、楠木は文字通り力任せに殺された。 楠木は臆病な性格をしているものの、いざというときは獅子女に従い戦うことだってする。 そこにあるのは獅子女に対する信頼というもので、自分と全く同じ想いなのかもしれない。
そう思うと、自分は一体何をしているんだという想いに駆られた。 結局何もできずに目の前で人を失っていく、調子の良いことばかりを言い、行動が伴っていない。 先ほどもそれは全く一緒で手も足も動かすことさえできなかった。 自分に能力があれば、楠木を救うこともできたかもしれない。
「琴葉、大丈夫?」
そして、今もこうして人間である姉に救いの手を差し伸べられている。 感染者である自分、少なくとも姉よりも戦うことができるであろう、感染者。 このままでいいのか、何もできず何もせず、ただ救われることを待つだけで良いのか。
「お姉ちゃん、先に行って」
良いわけがない。 その言葉を発するのがどれほど怖かったか、しかし琴葉は口にした。 自分一人でどうにかできる相手でないことは明白だ。 まともに戦って勝てる相手でもない、間違いなくただでは済まない、下手をすれば殺される。 生きて戻れる可能性の方が――――――――よほど低い。
だが、追い付かれるのは時間の問題で……二人まとめて殺されるよりも、マシだ。
「なに言ってるの!? そんなことできるわけ……!」
「大丈夫。 さっきね、仲間の人から連絡あってもう来るって。 ここにいたらお姉ちゃんも巻き込んじゃうから……だから、あたしは大丈夫だよ」
そんな嘘を琴葉は吐いた。 携帯は壊れており、連絡なんて当然取れていない。 だが、平気な顔をして言う。 姉を簡単には騙せないとは思っていたが……。
「……うん、分かった。 琴葉には琴葉の事情がある、私が邪魔になるなら……仕方ないよね。 でも琴葉、何かあったらすぐに呼んで」
四条は言い、琴葉にメモを手渡した。 そこに書かれているのは連絡先で、琴葉はすぐさま姉の連絡先だと理解すると、大切そうに服の内ポケットへとしまう。
「お姉ちゃん、絶対また会おう。 あたしね、家族みんなで暮らすのが夢なんだ」
それを口にするのは少し怖かった。 そんなことは無理だと否定されてしまったらと思うと、難しいことだった。 だが、四条そう聞くと笑顔で答える。
「私も琴葉とまた暮らしたい、一緒に夢……叶えようね」
その言葉が琴葉にとってどれほどのものだったかは言うまでもない。 もちろん姉だけでなく、琴葉にとってのもう一人の姉もそうであれば母親も父親もまたその家族なのだ。 厳しい道だというのは何一つ変わっていないものの、姉がこうして言ってくれるだけで本当に叶ってしまうような……そんな気がした。
本当に、そんな気だけがしていた。
「オイ、ナンノハナシ? マゼテマゼテ」
「へ……なんでっ!」
突如、四条の真後ろに怪物は現れた。 怪物はその顔を四条の真横まで持ってきており、怪物の息遣いすら聞こえてきそうな距離だ。
「話――――――――ッ!」
恐らく、話なんて教えるわけがない、そんなことを言おうとでもしたのだろうか。 しかしその言葉は怪物が四条の顔を覆うほどの手で鷲掴みにしたことによって消え失せる。 軽々と四条の体を持ち上げ、いつでも握り殺せるとでも言わんばかりだ。
「チョットウルサイヨ、オクチニチャック。 アハ」
四条の体が持ち上がる。 口を覆われ、片手で軽々と数メートルほどの高さまで持ち上げられた。 ケタケタと笑う怪物はさぞ楽しそうに四条を見ると、同時に琴葉にも眼を向けた。 筋肉と骨だけの体は見ているだけでおぞましいもので、琴葉は初めて死そのものというのを目の当たりにした。 自分が今まで関わった者たちですら持ち合わせていなかった死そのもの。 この目の前にいる怪物は、死を形にしたような存在だ。
「や、やめてっ!! お姉ちゃんを離してッ!!」
「ソンナカンタンニコロサナイッテ。 キミニハナシガアッテキタンダシサー」
怪物は言い、ぶら下げていた右手の人差し指を琴葉に向ける。
「あたしに……?」
「ソウソウ、コトハチャンニ。 カンセンシャノシマイッテ、メズラシイカラサー」
琴葉が知る限り、この怪物は異端すぎる存在だ。 我原と雀という神人の家の中でも屈指の実力を持つ二人で対処不可能だった人工感染者を一撃で殺している。 更には対策部隊や神人の家、西洋協会やその他の組織とは全く異なる思想を持ち合わせている。 目的も不明、行動原理そのものが不明。 この世界にとって何より恐ろしいのは不可解というものだ。 行動が予測できないというのは、それだけで危険因子となり得る。
「……約束して。 あたしがあなたの質問に答えたら、お姉ちゃんを離すって」
「ソンナコトイエルタチバナワケ? アタマノナカオハナバタケダネー、アハ」
「それならあたしは絶対に何も話さない!! 殺されても話すもんかッ!!」
琴葉の足は震えている。 しかしそれでも懸命に声を出して言った。 怪物は琴葉の顔をしばし見つめ、沈黙する。 何がそこまで琴葉を突き動かすのか、自らの命よりも大切なものはなんなのか。
「ワタシハ、センセイニナリタカッタンダ」
怪物はぽつりと呟く。 その顔は空を見ており、激しい雨に打たれ涙を流しているようにも見えた。
「ケレド、カンセンシャニナッタ。 ソレヲシッタリョウシンハ、ワタシヲコロソウトシタヨ」
「……」
琴葉もまた、人として普通に生まれて育った身だ。 だが、感染者となったその日から全てが塗り替わり移り変わった。 怪物の言葉は分かる、ずっと支えてきてくれたものが突如として自らに刃を向けるということが、どれほど恐ろしいのかを。
「ワタシトニテイルンダ。 キミハ、ユメトカアルノカイ?」
「夢……あたしは、みんなとまた暮らしたいなって。 お母さんと、お父さんと、お姉ちゃんたちと」
「ムリダネ」
怪物はそう言ったものの、馬鹿にしているようには見えなかった。 その言葉から琴葉が感じ取れたのはある種の諦めのようにも見える。 人間と感染者が共存するという夢、琴葉の夢というのは人権維持機構のそれと似通っているのだ。 だが、それを果たすためにはまず対策部隊をどうにかしなければならない。 感染者を駆除するためだけに存在するその組織を。
「無理じゃない! お姉ちゃんは、感染者のあたしでも妹として見てくれてる。 だからあたしは絶対に諦めない」
言われ、怪物は四条を見る。 なんでもない普通の人間だ、この世界の大多数を占める人間だ。 見ただけでは何も分からない、人間など誰も彼もが同じ見た目でしかない。
この世界を支配している種族、それが人間だ。 そして支配される側の種族、それが感染者だ。 その構図は決して変わらない、今では力を蓄えていた感染者たちが暴れることも増えてきたが、それだけだ。 いずれ感染者は淘汰される、覆せないほどの人数差というのがそこにはあり、淘汰されるのは自分も同様だ。
「カンセンシャダトシッタリョウシンハ、ワタシヲドウシタトオモウ?」
「……殺そうとした、って」
「サイシュウテキニダヨ」
怪物は語る。 その瞳は自分が掴んでいる四条へと向けられており、人間という存在を羨んでいるようにも見えた。
「ワタシハ、カワレタンダ」
それこそ家畜のように。 首と手足に鎖を巻かれ、使用していなかった地下に監禁された。 感染者は基本的にV.A.L.Vの影響により身体能力が人間よりも優れていることが多い。 それは自然治癒力としても反映され、それらは教育課程で習う極一般的なことだ。
だから彼女は虐待された。 万が一殺してしまったとしても、被害者が感染者であれば罪になどに問われない。 精々次からは対策部隊に連絡するように、というひと言だけで済んでしまうだろう。 感染者には何をしても許される、殴ろうと蹴ろうと唾を吐こうと刺そうと、何をしても。
彼女は食事など与えられなかったと言った。 自分自身の排泄物を貪り、生き長らえたとそう告げた。 彼女の口から語られたのはあまりにも凄惨で、悲惨で、無残で。 それこそ悪魔の所業のようだった。
ロクドウの過去と似ているものだ。 だが、ロクドウと違うのは彼女には死の恐怖があるということ。 ロクドウは死なないが、今目の前にいる彼女には死というものが存在する。 それがどれほどの恐怖だったのか、琴葉には推し量ることなどできない。
「デキルカギリコロス、ニンゲンハ」
全て、とは言わなかった。 それは不可能だと彼女は理解しているからだ。 だが、彼女の人間に対する憎悪は一線を画しているものがある。 人を恨み、人を殺し、人と敵対するためだけに彼女は存在している。 その対象は彼女の興味を唆るもの、彼女は好奇心と気まぐれによって人を……感染者を貪り殺していく。
「……あたしは分からない。 どうすればいいのか、何が正解か分からない。 でも、それでもどこかに正解があるって信じてる」
「ミツカルトハカギラナイ」
「見つからなくても、どこかにあるなら大丈夫だよ。 あたしが見つけられなくても、誰かがこの世界に対する答えを見つけてくれるから」
「タリキホンガン、ジャクシャノカンガエダ」
「そうだよ、あたしもお兄さんも……みんな。 あなただって、弱者だよ」
「……」
怪物は言葉を聞き、少しだけその大きな体を反応させた。 黒く染まった瞳を動かし琴葉を見る。
「――――――――ワタシニソウイエルノハ、キミダケダ」
巨大な手、四条を鷲掴みにしていた手の力を弱める。 同時に怪物から放たれる声色に変化があった。
「……君はホントウニ面白イね、コト葉」
怪物の声と、人の声が混じっているような声だ。 その声は女性のもので……そして、どこかで聞いたことのあるような、声だ。
「あなた……」
どこかで出会ったことがある? 声が明瞭ではないため分からないが、昔に出会ったことがある……のだろうか。 聞いたことのある声が怪物の声に混じっている気がした。
そのとき琴葉はどこかで安堵していた。 とても話が通じるとは思えなかった怪物であったが、いざこうして話してみればそれはただの思い込みだと分かったからだ。 未だに怪物の目的というのは分からないものの、自分の話に耳を傾け四条を解放しようとしている。 何もできないかと思えたが、そんなことはなかったのだ。
そう、自らの視界が赤く染まるまでそう思っていた。
「え?」
「くく、あはは。 いや、随分な無駄話に時間を使ってみたけどこれは一回限りにしておこうか。 面白いけど付き合うのが中々にしんどかったよ、ヤメヤメ、次回はもう少し手っ取り早い方がいいね」
既に怪物はその形を失っている。 その姿は少女、顔はその殆どが崩壊し再構築されているせいで伺えない。 その声また、怪物のものと同一であったが声帯がしっかりとあるおかげか、聞き取りやすくはあった。
「さぁどうする? これで君の願い、夢、叶わなくなっちゃったね。 絶対に、どう足掻いても、君が大好きなお兄さんにもどうにもできない。 死んだ人を生き返らせる文字なんて、この世界にはありはしない。 君の姉は死んだ、私が殺した、しっかり覚えておいて」
少女の左手は赤い。 琴葉の顔にもその血飛沫は飛んできた。 そして、その間にいるのは……頭を失った、最愛の姉の姿があった。
「おねえ、ちゃん? いや、イヤ……うそ、そんな」
「ホントウニくだらないお遊び。 一応言っとくけど、私はそれなりに恵まれていたし両親にも充分愛されていたさ。 悪者って決まって辛い過去があるだろう? その方が琴葉ちゃん的に話しやすいかなって気配り。 まぁそんなお決まりみたいなことはないっていう教訓にはなったでしょ? 切っ掛けも理由もなにもない、ただの趣味っていうのが一番近いかな」
「あ、あぁ……おねえ、おねえちゃん。おねえちゃん」
「君の姉って頭失って喋ることも動くこともできなくなったそれのこと? 随分ユニークなおねーちゃんだね。 私は別に恨みつらみ、復讐心や妬みや憎悪から殺してるわけじゃないんだよねー。 私はただ、人がそうやって心底絶望しているような顔を見るのが好きなんだ。 特に君のような壊しがいのある子だとさ、尚更ねぇ」
「う、ぁ……ぁぁぁぁァァァあああああッ!!!!」
「聞いちゃいないか。 回りくどいやり方したけどまーいいや、それなりに楽しめたかな。 お楽しみはまだあることだし」
少女は血に染まった手を舐め上げる。 雨と鉄の味がし、それだけだった。
琴葉の声もやがて雨に飲まれて消えていく。 弱まることを知らぬかのように雨は全てを流し尽くす。 血も、臭いも、高揚感も。
「おねーちゃんには感謝しとくよ、連れてきた甲斐があった。 数十秒間私を楽しませてくれてありがとう、感謝感謝」
その声も琴葉には届かない。 琴葉の心は最早殆どが壊れた、元々ギリギリのところで保っていた心は、その心を構成していた最も大事な物が失われた、形を保つのは不可能だ。
慟哭が雨の音に混じって、搔き消える。 それを聞いている少女は口角を上げると、そのま口を開いた。
「行こうか、ラハマ。 お手伝いありがとね」
「趣味が良いとは言えないな」
何もないところから突如として現れたラハマに、少女は特に驚くこともなく口にする。 それに対し、ラハマは目の前の光景に端的な感想を述べる。
「なら私の敵に回る?」
「必要がある限りは留まるつもりさ。 西洋協会は最早用済みなのでな」
「そ」
短い会話を済ませ、少女とラハマは姿を消した。 その場に残されたのは、泣き叫ぶ琴葉と既に事切れた四条香織の肉体だけであった。
これにて第四章終了となります。
次章へ続く形で、西洋協会編後編となります。
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執筆、投稿遅れていて申し訳ありません。




